彦根城 表御殿(おもてごてん)

更新日:2019年08月30日

 表御殿は、元和(げんな)2年(1616年)に開始された元和期の普請によって新たに建造されたもので、彦根藩の政庁であるとともに藩主の居館(きょかん)でもあった建物です。城郭の構成がほぼ整った元和8年(1622年)頃までには完成していたものと思われます。
 以後、表御殿は解体されるまで、250年余を彦根藩の歴史とともに歩みました。

表御殿絵図の写真

彦根城博物館蔵

表御殿図の写真

表御殿(おもてごてん)の建物構成

 表御殿は、大きく「表向き」と「奥向き」に分けられます。
 表向きは、玄関棟、御広間(おんひろま)棟、御書院(ごしょいん)棟、笹之間(ささのま)棟、表御座之間(おもてござのま)棟、台所棟など大きく6棟のまとまりに区分され、これらはさらに数室の部屋から構成されていました。奥向きのほぼ2倍の面積を有しており、公的行事や藩政実務が行われた空間でした。
 一方、奥向きは藩主の私的な生活空間として設けられていました。基本的に、江戸城本丸御殿における大奥(おおおく)のような3つの機能をもった空間、つまり藩主の居間の機能をもつ「御殿向(ごてんむき)」、奥向きでの役務を管理する役人や御殿女中の詰所と奥向き台所のある「御広敷(おんひろしき)」、御殿女中の居間・寝所にあたる「長局(ながつぼね)」などに分かれていました。一歩奥向きに入ると、そこは藩主のくつろぎの空間であり、表向きとは往来が厳しく制限されていました。

能舞台

 能舞台は、表御殿のほぼ中央に独立して設置されていました。この能舞台は、11代藩主直中(なおなか)の時代の寛政(かんせい)12年(1800年)に新設されたようです。
 能を演じる「舞台」、笛や鼓を奏でる「後座(あとざ)」、後座から左斜め奥へ向かう長い廊下の「橋掛(はしがか)り」から構成されます。
 通常、これらの床下には、甕(かめ)を配置して音響効果を高める工夫がなされますが、この能舞台では床下全体を掘り下げ、そこに漆喰(しっくい)製の方形枡(ます)が築かれていました。漆喰枡は、舞台と後座の下に1つ、橋掛りの下に1つ、おのおの独立して築かれていました。舞台と後座の枡は幅5.6メートル、奥行き8.3メートル、深さ0.7メートル、橋掛りの下は、幅1.7メートル、長さ9.8メートル、深さ0.5メートルという巨大なものでした。甕とは異なる音響効果を高める工夫として貴重なものと言えます。近年の大名屋敷の発掘調査で同様の漆喰枡が発見されています。

能舞台の写真

上下水施設

 表御殿の上下水施設は、当時の技術を駆使(くし)して実に細かい工夫がなされていました。上水施設には、「井戸」と「上水道」の2つのシステムが取り入れられていました。井戸は表向きに4基、奥向きに6基の合計10基がありました。いずれも彦根山の自然地形を考慮(こうりょ)に入れて、効果的に湧水(ゆうすい)を確保していました。井戸水は、おもに飲料水や湯殿(ゆどの)に用いられていました。
 上水道は、遠く外堀の油掛口御門(あぶらかけぐちごもん)付近(現在の城東小学校裏)から竹樋(たけひ)・石樋(いしひ)・木樋(もくひ)などを用い、サイフォンの原理を応用して導水(どうすい)し、樋駒(ひごま)で分水しながら給水しました。 上水道は、おもに庭園や坪庭(つぼにわ)(建物に囲まれた小さな庭)の池に給水していました。
 下水は、建物の外周に雨落ち溝が巡らされるとともに、建物の床下などにも暗渠(あんきょ)が幹線・支線を交えて縦横に走っていました。しかも、要所には、貯水槽(ちょすいそう)を設けて汚泥(おでい)を沈殿させる工夫がなされていました。これらは最終的に防火用水を兼ねたひときわ大きな貯水槽に集められ、内堀に排水するようになっていました。現代にひけを取らない水質浄化と水利用のシステムと言えるでしょう。

能舞台床下の漆喰枡の写真
発掘調査で出土した暗渠の写真

庭園

 庭園は奥向きの御座之御間(ござのおんま)に面して設けられていました。中央に長い遣り水(やりみず)(水を引き入れて流れるようにしたもの)を伴った池があり、手前に茶室「天光室(てんこうしつ)」、その向こうには茶室「不待庵(ふたいあん)」や築山(つきやま)が設けられていました。
 遣り水への給水には先の上水道が用いられ、高枡(たかます)で水位を上げて滝石組より落としていました。遣り水は延長33メートルの屈曲する流れで、底は漆喰(しっくい)を打って玉石敷(たまいしじき)としていました。
 池の上手には沢渡(さわわた)りの石が点列し、池尻(いけじり)近くでは岩島が景色を作っていました。池の底は不透水層(ふとうすいそう)の地山(じやま)に直接砂が敷き詰められていました。護岸は多様で、石組みのほか、礼拝石(らいはいいし)・洲浜(すはま)・枯滝の流れ・乱杭(らんぐい)、さらには橋など、一見過剰(かじょう)とも思えるような変化が付けられていました。そして、池尻をオーバーフローした水は一度貯水槽に貯めて内堀へ流されていました。当時の造園技術が駆使(くし)された庭園です。

奥向き庭園遺構全図の画像、さらに詳しく知りたい人は以下リンクよりご確認ください。

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