入選鈴を食ふ

坂田郡米原町 潮田眞弓


 鈴ふればその鈴の音を食はんとするにや
 あはれわが子口あく

 三ヶ島葭子という女性の歌である。

 明治十九年の生まれというから、もう百年も前に生まれた人の話だが、あはれに口をあける幼い子とそれを見つめる母の情景は、現在子をあやしている母親たちの心情と少しも変わっていない。

 鈴の音を聞いて口を開けるというのだから、まだこの子は目も見えていないのだろう。ただ、本能のように口を開け、乳首を含ませられると、意外に力強く、乳を吸う。

 誰が教えたわけでもないのに、そしてまだ目が見えていないだろうに、赤ん坊は乳首をかぶりつくようにして口に含むのである。

 生きていこうとする強さには、驚くものがある。

 そうして赤ん坊は、鈴が振られると、そちらのほうを向いて、首を振りたて乳を求めるように口を開けるのであった。

 若い母親は、

 「あらあら、いいお耳ですね。鈴が聞こえるんですね。」

 と赤ん坊に話かける。安堵感と誇らしい気持ちがいっぱいになり、この子供への愛しさがいっそう増すのである。

 いや、もしかすると、この時始めて、子供への愛情が確認されたといってよいかもしれない。

 母性という言葉があるが、女は子を産んだからといって、すぐさま母親の情を持つわけではない。

 妊娠を知り身体が変化していくのは、女である。自分が母親になるのだという思いはいやでも持たざるを得ないだろうが、それと愛情とは別物である。

 明治の時代、女は子をなす者という認識があり、女たちは自分の母がしてきたように人生を生きていくのが普通だった。葭子とて、なんの疑いもなく、子を産み当然のごとく乳を含ませていたかもしれない。

 しかし、たぶん、子が愛しいという感情に気がついたのは、この時であったろう。

 生活は豊かではなかった。二つ年下の夫、倉片寛一は、会社の人員整理により失業の身となっていて、家の台所の米は、もう残り少なくなっていた。倉片の両親の反対を押し切っての結婚であったから、暮らしに困っても無心を言うことはできなかった。借家の暗い部屋で、外の明かりをたよりにしておしめを縫っている葭子の心細さは、子が生まれただけに、より強くなるのだった。

 と、その時、倉片が戻ってきた。代議士の書生をしたり会社員になったりと気ままな勤めをしていた倉片だったが、さすがに会社を首になると,めだって荒れるようになっていた。葭子が、少なくなってきた米のことを少し口にすると、たちまち顔色を変えた。

 「うるさいっ、お前はまた、そんなことを言う。先生に就職の斡旋を頼んできたところなのに、先生だって、今すぐにというわけにはいかんだろうがっ」

 書生時代に仕えた代議士の家で酒でも馳走になってきたのか、倉片は切れ長の目をほのかに赤くしていた。

 「みなみも産まれたことですし、つい」

 と葭子が小さく言うと、倉片はたたんであったおむつを蹴飛ばした。その拍子に、葭子は腕に鈍い痛みを感じて、針箱にもたれかかった。

 倉片は妻を蹴るつもりはなかったのだったが、拍子に葭子に当たってしまったことで余計に興奮したらしく、ちゃぶ台をひっくり返した。

 「どこへ行かれるんですか。」 

 と葭子が針箱から身を起こしたが、後には荒々しく戸が閉められる音だけが残った。

 昼食に食べるつもりをしていたふかし芋がちゃぶ台の下で無残につぶれている。

 そうでなくとも、この赤ん坊は初めての子供であった。色の白い女の子だったが、夜中も何度も乳を求められる毎日で、泣き声を聞くだけで葭子はなぜか苛立ってくるのだった。

 子を産むのもたいへんだったが、産まれてからがもっとたいへんだった。

 助産婦が子を取り上げてくれたが、もう次の日からは、おしめをたらいで洗わなければならない。かまどの飯炊きも産後二日までは手伝いの婆さんがきていたが、それからは葭子の仕事だった。

 寝床から立ち上がるとまだ足元がふらふらとする葭子は、ぴいぴいとなく子供が心底からかわいいとおもえず、自分の心は何かかけているのではないかと思うのだった。

 しかし、一ヶ月もたつと、様子はかなり変わってくる。あんなに起こされるのも一度か二度くらいになってきた。

 子供がいる暮らしに慣れてきたのだろうか、などと思いながら、てすさびに鈴を鳴らしてみる。

 結婚を反対していた夫の両親から「畑の作物が採れたので」と送られてきた品物の中に混じっていた鈴である。手紙には「みなみのおもちゃにでもしてやってください」とあった。

 年上の女で結核の病み上がりだと反対された葭子は、ようやく倉片の嫁としてみとめられたのである。

 銀色の鈴は、ちりんちりんと音を立てた。

 そうすると赤ん坊は、その音を食べようとするかのように首を振りながら口を開けているではないか。

 「ねぇ、いい音でしょう」

 葭子は言いながら、この耳元で鈴を振った。倉片も、目を細めてそれをのぞいている。

 ささいなことでかんしゃくを起こす倉片だが、長女のみなみを可愛がり、今日は笑った。今日は自分のほうをじっと見つめたなどと言っては、葭子のそばで子供を飽きずに眺めるのであった。

 それは倉片の一つの顔である。

 雑誌編集の仕事に就いた倉片は、このころすっかり落ち着き、会社からまっすぐ戻ってくることが多くなった。味噌汁に干物の貧しい夕食ではあったが、それを倉片は機嫌よく食べ、

 「まぁ、聞きなさい。今日は小説家の○○君と会ってね。葭子さんはこのごろ、歌の発表がありませんねというんだよ。僕はよっぽど、君の作品だってたいした物ができていないだろうがと、言ってやろうと思った」

 などと話をするのであった。

 「葭子も家のことはほどほどでいいから、歌を作りつづけなさい。このごろ、みなみのことで忙しくて作っていないだろう」

 と、葭子に歌を作るのを勧めるのも、結婚前と同じ倉片であった。

 倉片と知り合ったころ、彼は感受性の鋭い青年だった。実家は小さな牧場を経営しているが、そんなところで僕の人生を終わらせたくないんです、とよく語った。葭子はそのころ、山奥の小学校の代用教員をしていたが、仕事の合間に歌を読み、それを雑誌社へ送ったりしていた。何度か投稿誌に名前が載るようになったが、彼女の歌への憧れは周囲になかなか理解してもらえなかった。ましてや詩や散文を書くなどとは、れっきとした家の女子がすることではないとされていた頃である。

 葭子は与謝野晶子のことをひどく憧れを持って敬愛していた。心の中の情熱がそのまま形になった歌、美しい絵物語のうような歌の数々。そして与謝野鉄寛と愛を貫き、何人もの子を産み育てながら作品を作りつづける女性。自分もあんなふうになりたい、そして、私も与謝野晶子のように人の心を動かすような歌をいつしか作りたいと思うのであった。

 しかし、与謝野晶子の事を、人から、妻ある男と所帯を持ち女だてらに文を書く葉すっぱな女であると言われると、葭子は黙るしかなかったのである。それを言い返すだけの何かを、葭子はまだ持ってはいなかった。

 だが、倉片は違っていた。葭子が短歌をしている事を知ると、自分も芸術に生きる意味を求めているのだと熱っぽく語った。そうして、葭子の新しい歌を口づさみ、この柔らかい

 抒情はあなた独自のものだと褒めるのであった。

 葭子は、褒め言葉を心地よいものとして聞きながら、自分は歌は明星の域から脱していないと思っていた。晶子の歌にはない別なもの、もっと新しい、人の心を打つ歌が作れないか。

 倉片には、そこまで葭子の気持ちが分かっているわけではない。今、若い男女が指示している「明星」と言う雑誌に載っているような歌だということで、葭子の歌を褒めているのである。もしかすれば、晶子選で葭子の歌が「女子文壇」に選ばれたというだけで、葭子の歌を称えているのかもしれない。

挟みたる羽をとほしてわが指と指に脈打つ蜻蛉かな

 倉片と勤め先の小学校の周囲を歩いていたときのことだった。いや、もしかすると、歌会が催されるので、それに出席をする葭子を迎えに、倉片がやってきた時だったかもしれない。

 秋晴れの日で、倉片が帽子に止まった蜻蛉をひょいと捕まえて、葭子に手渡した。逃げようと羽脈が感触として伝わってくる。それは、葭子には血が流れる脈のような気がしてくるのだった。

 いいえ、私の血が脈打っているのかもしれない、と葭子は思う。

 十八歳の時、肺結核にかかり、死ぬのではないかと思った自分が、今こうして生きている。

 埼玉の女子師範学校に入学し、希望に燃えて勉強をしていたあの頃。どんなに、勉強が楽しかったことか。やればやるだけ、教師に認められ、褒められる毎日。消灯時間が過ぎても、蝋燭の火をつけて、飽きずに本を読んだものだった。それが、結核だと診断され、退学しなければいけなくなった。その時の言いようのない悔しさ。将来は教師になって身を立てようと思っていたのに、その夢が破られた悲しさ。そして何より、葭子が五歳の時に生母がなくなったが、それも肺結核だと聞いている、自分もこれで死ぬのではないかと考える日々の絶望感。

 「たとひ一つでも自分の心のもちを人の目に残してからでなくては死なない」

 と代用教員の頃の日記に記されているが、病が癒えた今になっても、葭子は、常に死のことを考えるのであった。もう普通の生活をしてよいと医者から言われたが、死というものは、決して遠い存在ではない。結核はやはり治らない病気だった。それだからこそ、蜻蛉の脈を感じる指が葭子には嬉しいのだった。

 厳密に言えば蜻蛉の羽に脈などを感じるはずはない。そしてまた、いくら感覚が鋭いと言っても、指先に血が流れる脈動を感じるわけはないのである。これは、葭子自身の血の流れなのだ。

 しかし葭子は、捕らえられたる蜻蛉が羽を動かす強さと、今生きている自分とを合わせて考えたかった。

 そばにいる倉片の存在も、葭子をなにか明るい気持ちにさせるのだった。

 葭子は、山奥の田舎の小学校には珍しい、女教員として、また、女子文壇に時々、歌が掲載される歌人の卵として、充実した毎日を送っていたが、自分は落第者であるという思いから逃げることはできなかった。

 人から嫌われている結核の病に襲われてしまったこと。そして、そのせいで代用教員にしかなれなかったこと。同じ学校に勤務する女教師の一人は、葭子より頭の回転も悪く生徒からの信頼も薄いのに、師範学校を卒業したと言うだけでその意見は重く用いられるのであった。

 また、葭子の救いでもある書くことも、葭子をさいなませた。

 葭子は、その頃発行されていた雑誌を何冊か購入したり、作品を発表したりしていた。

 しかし、いつも作品が掲載されるとは限らない。また掲載されても、そのならべられる順番、同じページに載る他の歌人たちの歌の内容によって、葭子はひどく悩まされるのであった。

 自分の歌は一番の出来ではない。散文も掲載されたものの、後ろの頁である。

 こんなことなら投稿しなければよかったと、葭子は思いつめるが、締め切り日が近づいてくると、物に疲れたようにして毎日、机に向かってしまうのである。

 そういう時、どんなに倉片の言葉が慰めになったことか。

 「こんな田舎で教員をしているだけで人生を終わるなんてもったいない。あなたの才能はもっと高いところを目指すべきだ」

 倉片は、葭子の才能を認め、それを世間へ発表するようしきりに勧めた。新人の歌人や小説家、画家など広い交際を持つ倉片がいうのなら、自分の歌は駄作ではないのかもしれないと、葭子は安心するのであった。

 「どんなことがあっても歌だけは作りたいと思ふ。今日も、五十音ばかり集めて新詩社へ送るのを書いた。ろくなのは一つもない。晶子様がさぞお困り遊ばすだらうと思った」

 葭子は作品を作る合間にそう日記に書いている。

 晶子の主催する新詩社は、「明星」を廃刊した今は「常磐木」を発行しているが、それを購読しながら葭子は投稿を続けていた。ろくなのは一つもない、といいながら、五十音を投稿するのである。自分がなんとか、よい作品を出さなくては晶子に迷惑をかける。激しい自負と劣等感の間でゆれながら、葭子は歌を作り、散文を書いた。

 もし、倉片がそばにいなければ、葭子は救いようないほど深い淵に沈んでしまったことだろう。息をしなくては生きていけないように、葭子は書かなくては生きていけないのである。しかしすぐ自分の作品はたいしたことがないという思いにとらわれる。

 倉片は、葭子にどんなに必要であったかもしれなかった。

 自分のそばで、赤ん坊に鈴を振る倉片の笑顔を見ながら、葭子は倉片に二通りの感情を感じた。それは別の感情なのに絶望に似ている気が葭子には、した。


 埼玉県の三ヶ島村に産まれた葭子は、小学校校長をしている父の背を見て育った。神職もかねている厳格な父で、実直に行動することを葭子はその姿から学んだのである。

 そして、継母や多くの兄弟の仲で父に認められるためには、まじめに努力をするしかなかった。また、葭子は学校の勉強がよくできたのである。次第に、父のように学校の教員になりたいと思うようになっても何の不思議もなかった。

 そうして、この時代、葭子のような普通の家庭の娘が職業に就くためには、ただ一つの道しかなかった。

 師範学校に入学し、教員になること。

 しかし、もっと厳格な家庭では、上の学校へ入ることを許されなかったし、葭子と同じように入学しても、働くことは許されなかった娘もいた。

 葭子は、一度は働いてみたいと思っていた。

 お嬢さん学校のようなところで数年過ごし、お稽古ごとを少しして結婚してしまうような、そんな人生はいやだと思っていた。多分それは多くの娘たちがそう思いながら、結局は落ち着くところの道のりだった。

 師範学校に入学したとき、葭子は自分の前に洋々とした未来が広がっているのを感じた。これからまた何年かは、好きな本を読んだり、友達と夢を語り合ったりできるのである。

 実際、寄宿舎では、同じ部屋の仲間や同じ教室で学ぶ級友と、夜遅く間で話し合ったり本を読みあう生活が続いた。楽しく語りあった後、冷えた寝床に入りながら葭子は故郷の古い友達の顔をあれこれと思い浮かべた。

 尋常小学校時代、隣の席に座っていた女の子はもう母親になっているが、葭子より五つも年上のようなふけて疲れた顔をしていたっけ。

 誰かの妻になったり子を育てたりするのも悪くはないだろうが、教員になるという選択肢が増えるのは心地よいことだった。

 この頃、葭子は、初めて与謝野晶子の名前を聞いた。

 歌をよくし、小説や詩まで書くと言う晶子とはどんな人なんだろう。

 三ヶ島村では、父の書物の中で呼んでよいと許されたのは、かぎられた歌の本と女大学の類だけだった。しかし師範学校では、視野を広めるという理由で、図書室にある本ならどれを読んでもよいとされていた。

 寄宿舎で同じ部屋の一つ上の娘が、小遣いの中から「明星」という雑誌をよく買ってきて葭子に見せてくれた。お姉様と読んで、特別仲のよかったその人は、葭子に官能の歌の世界を教えてくれるのであった。

 「葭子さま、源氏物語はお読みになって」

 とその人は聞いた。

 葭子は、葵の段や桐壷の段は読んだことがあるが、他の段は父の許しがなく読んだことはなかった。

 「一度、ご覧になられてはどうかしら。学校の図書室にもあることですし、先生がたも薦めていらっしてよ」

 それから一葉の「たけくらべ」や「にごりえ」、尾崎紅葉の「金色夜叉」などの新しい作品も葭子の前に並べた。

 葭子は、薦められるままに今まで触れたことのなかった歌や小説の本を手に取る。

 そうして作品を読んでいくと、眼が覚めて辺りが明るくなった気がした。

 こんな世界もあったんだわ。

 五歳の頃に亡くなった母、そして新しく母となった人、祖母、それらの女だけが、葭子の知っている女で、自分もたぶん、そういう女になって同じような道を歩くのだと思っていたが、そればかりが女の人生ではないのだと知るのであった。

 父の書物にあった歌集は、花の美しさ、季節の移り変わりを歌ったものが多かったのに、新しい短歌といったら情熱や心のうっせきをぶつけ、官能的な表現もそのままストレートに歌うのである。その中でも与謝野晶子の歌の激しいこと。

 晶子という人は、大きい商家のお嬢さんだったと聞くが、こんなみだらな歌を歌うことに何の抵抗もなかったのだろうか。そうして、この人の生き方といったら。

 師範学校に入学してからの葭子は、継母や祖母たちだけを見ていたときよりは自由に生きて行ける気がするのだった。

 そういう葭子の夢や希望が、肺結核になったことによって無残に破られたことは前にも書いたが、葭子をみじめな気持ちにさせたのはそればかりではなかった。

 肺結核にかかった二人に一人は死ぬといわれていた病が見つかった葭子は、すぐ師範学校から三ヶ島の家へ戻された。

 学校を退学して、葭子は十八歳から二十一歳になるまで、治療に専念することになる。

 その頃、結核治療に有効だとされていたのは、栄養と安静、そしてストレプトマイシンという薬を打つことだった。

 番茶も出花などと言われる若い盛りに、葭子は、本家とは少し離れた急作りの二間の屋敷に寝かされ、雇われた看護婦が葭子の世話をこまごまと焼くのであった。

 「葭子さま、ようございましたわ。病気もまだ初期ですし、お家の方から、こんなによくしていただいて。これならすぐに治りますわ」

 葭子とそう年も変わらない看護婦は、そう言いながら、葭子の腕に注射を打った。このストマイも、数が少ないのでなかなか手に入らないのを父が奔走して求めてきたのだという。

 「それに、このお部屋も、日当たりがよくて。こういう感想した部屋が病気には一番いいんですよ」

 看護婦は、葭子の容態がよくなると病院へ帰っていった。

 葭子の病気は一進一退を繰り返した。家族から話されてただ寝ている毎日の葭子の心をだんだん暗くした。本家には継母が生んだまだ幼い弟たちもいるし、抵抗力のない彼らに葭子の病はすぐに伝染してしまうことは分かっていても、一人離されていることに、葭子は悲しみを覚えているのであった。

 卵や鯉こく、煮魚が毎食ごとに用意されて葭子に供されるのだが、それを運んでくる女中が、盆を入り口において逃げるように戻っていく気配や、ときたま継母が袖口を押さえながら様子を見にやってくるのに、葭子は怒りさえ感じた。

 実の母なら、背中の一つも撫でてくれるだろうし、第一葭子を一人、離れに放っておくことはないだろう。

 葭子の様態が悪くなると看護婦がやって来ることになっていたが、その看護婦を待ち望む自分が本当にみじめだと思った。

 それでも、栄養のある食事をとり、ほとんど寝てばかりいる葭子は、時々病院からやってくる看護婦を、

 「まぁ、ふっくらとお太りになって。これなら、病気なんかどこかへ行ってしまいますわ」

 と驚かすほどになった。

 実際、寝ているだけの葭子にとって食事は何よりの楽しみだったし、食べるということは病気に勝っているという証のようなきもしたのである。

 二年半の闘病の後、葭子は医者から「普通の生活に戻ってよい」と言われた。

 病から解放されたのは嬉しかったが、療養のせいですっかり太ってしまった自分を恥じた。たっぷりとした頬が鏡に写る自分が情けなかった。

 病前に気に入ってよくきていた着物も、葭子が太ったせいで幅の納まりが悪くなっていた。そうでなくとも厚ぼったい眼にへの字をした口元をしている葭子は、自分の容姿に非常な劣等感を持っていたのであった。

 いわゆる世間で言う適齢期というのは、とうに過ぎていた。

 結核で伏していた時代が、娘盛りであった。

 この容姿で、この年になってしまった自分は一生結婚はできないかもしれない。それなら一人でも生きていけるようにしなければ。

 葭子の激しい劣等感は、自立への思いを強くした。

 東京府西多摩郡小宮村という山奥の代用教員に葭子をならせたものは、劣等感と孤独感だったのである。

 倉片の出現は劣等感から葭子を救うものだった。

 わりと裕福な農家で大きくなった倉片は、芸術を好み、人と進んで交わった。葭子は彼に連れられて、画家や作家の集まりに顔を出すようになったが、葭子は女として、年頃の男に大事にされる楽しさを、この時に味わったのであった。

 それに、なにより自分を必要とされるというのは幸せなことだった。実家の離れで寝ていた葭子は厄介物だったし、歌が雑誌に掲載されるようになっても、それは数ある投稿家の一人でしかない。

 自分が存在する理由のようなものが倉片のような気が葭子にはした。

 生活力がないとわかっていても、葭子は倉片のプロポーズが断れなかった理由がそこにあった。いや、むしろ喜んで葭子は倉片のもとへ嫁いだのであった。

 倉片の芸術形との交際は、二人が所帯を持つようになっても続いた。金の苦労をしたことがなかった倉片は、収入がないときでも結婚前と同じように人に奢ったり、外で飲み歩いたりした。

 葭子は残りの米の量を月の明かりで量ったこともあった。着物を質屋へ入れてお金を工面することは度々で、歌会の集まりに着ていく着物さえないこともあったが、それでも倉片は半期払いで羽織りをこしらえてきたりした。

 そういう所は、おぼっちゃん育ちそのままだと、葭子は思った。

 貧しさから逃れるように、葭子はますます歌に没頭した。

 自分が歌に夢中になるから、倉片が飲みに歩くのか、飲みに歩くから歌に没頭するのか、葭子には分からなかった。

 倉片の帰りを待ちながら、明日投稿するつもりの歌を読みなおしていると、葭子は時間のたつのを忘れた。部屋の隅からは子供の安らかな寝息が聞こえるが、葭子はしばらくするとその音も聞こえなくなった。

 いま一つなめらかに運べない歌を、構成を変えたり助詞を入れたり削ったりする。全神経を働かせる仕事だが、一首が完成したときの嬉しさといったら、ない。生きていてよかった、自分の価値はここにあるのだとさえ思う。

 その時、後ろに気配がして、葭子ははっとした。

 暗い顔をして倉片が立っている。

 葭子は明かり代を節約して蝋燭の日で歌を添削していたのだが、その光が倉片の顔をしたから照らした。

 「あっ、お帰りなさいませ。気がつかずにすみませんでした」

 葭子は手早く、原稿用紙を片づけた。

 「何か召し上がりますか」

 葭子は夫にそう言い、水屋へ立っていこうとした。習慣で、葭子の口や身体が勝手に動いているようだった。頭の中は、さっきの歌がまだ駆け回っていた。

 葭子は自分の時間が欲しかった。子供が眠った後が自分の時間だが、家の仕事が残っていたり、夫がいたりとなかなか自由な時間にはならない。

 今日の昼間は縫い物が多く、そういう時に限ってみなみの機嫌も悪いのだった。

 もう少しで出来上がったものを、もう少し、ゆっくりしてきてくださったら、思うだけの仕事ができたのに。

 葭子はその言葉を飲み込んで、もう一度、

 「お水でも召し上がりますか」と聞いた。

 倉片は葭子が言うのには何も答えず、自分で茶碗に水を入れた。そして一息に飲むと、茶碗を土間に向かって投げつけた。

 茶碗が割れる音が真夜中の闇の中に響く。

 みなみが突然ひきつけたように泣き出し、葭子は子を抱きに駆け寄った。

 「大丈夫よ、大丈夫ですからね」

 かすかに汗をかいたこの頭を撫でてやるうちに、みなみはまた寝息をたてはじめ、それでも床におろすとまた泣き出すのであった。

 この子も何か感じているのだ、葭子は不憫に思ったが、その時、新しい歌が脳裏に浮かんできた。寝ていた子が驚いてなく様子に促されて、生まれた歌だった。

 出来は明日になって落ち着いて読み直してみなければわからない。しかし葭子は急いで歌を書きつけた。こうやって歌を何首もためて、詠み返し作り返していくのが葭子のやり方であった。

 気がつくと、夫は背広を着たまま、布団にひっくり返っていびきをかいていた。

 背広を脱がして衣紋掛けに広げながら、葭子は、夫と子に心を砕いているはずの時間に歌が作れる自分自身をいぶかしむのであった。

 葭子は再び、肺結核と診断された。

 夏の疲れが残っているのか、体がだるく寝汗を書くと思っていた矢先のことだった。

 それにしても、幼いみなみのことは心が痛んだ。

 「所沢の実家に預けることにしたらどうだろう」

 倉片が言い出した。

 「抵抗力のない子供にはすぐに伝染してしまう」

 「でも、あの子はまだ幼いですし」

 葭子はためらった。

 「しかし、ここで葭子と暮らすわけにはいかんだろう」

 この狭くて空気の通りの悪い部屋にいてては、みなみも結核にかかってしまうことは目に見えていた。

 夫婦の間で堂々巡りのような会話が交わされたが、とうとうまだはる浅い日、みなみは倉片の実家に預けられていったのであった。

 子供のいない家は、どんなにがらんとして見えることか。葭子は自分の心までも持ち去られてしまった気がして、一時何をする気もおこらないほどであった。

 しかし、また歌に熱中する日が戻ってきた。

 みなみがいない切なさには変化がないのに、歌が作れる自分が不思議だった。自分の心には何か欠けているものがあるのだろうか、と葭子は思う。

 みなみが所沢の家から一日だけ、葭子に会いにやってきたことがあった。

 しばらく見ないうちに急に背丈が伸びて、顔立ちも大人びてきた。葭子は、せっせとふかし饅頭を作る。みなみの好きなおやつで、しばらくぶりに出会うと葭子は何も言えなくなって、子の好物をちゃぶ台に並べることしかできなくなるのだった。

 しかし、みなみは思ったほどには食べなかった。

 「もう、いらないの」

 葭子が聞くと、みなみはかぶりをふった。

 「じゃあ、お母さんが詰めてあげるから、持って帰りなさい。みなみの好きなものばっかりよ」

 努めて明るく言う葭子にみなみは首をふり、黙ったままでいる。もっと食べなさい、持って帰りなさい、と葭子は繰り返して言い、離れて暮らしている親と子はどう、その距離を埋めればよいのか、戸惑うばかりなのであった。

 ふと見ると、上着のポケットの縁がほころびかけている。

 「お母さんがつけてあげる。あっ、脱がなくていいの、そのままにしていて」

 みなみが服を脱ごうとするのを止めて、葭子は針箱を出してきた。

 ほとんど子を抱くようにして、葭子はポケットを縫ってやった。

 「どこかで引っかけたのかしらね」

 と言うと、みなみはコクンとくびを動かした。

 「お祖父さまやお祖母さまはよくしてくださる」

 と聞くと、やはりみなみは首を縦に振った。

 せっかく顔を合わせと思ったみなみであったが、もう返す時間が来ようとしていた。

 話し足りない、と思いながら、葭子はみなみとわかれるしかなかった。父親に連れられて祖父母の家へ向かうみなみを見送りながら、私はなんと寂しい人生なのか、そして吾子もなんと寂しい子なのだろうと思うのであった。

 暮れかけの空を見上げると、はやくも一番星が出ていた。

一日に別るる吾子のほころびを
着たままにてつくるひやれり

 大正五年、倉片は大阪へ転勤することになった。

 妻としては夫についていくのが当然なのだろうと思ったが、みなみのいる関東から遠くに離れるのは、今以上につらかった。病気の治療の関係もあったし、それに大阪の地では、こちらのように与謝野夫婦の歌会に出ることもままならないだろう。やはり東京にいれば、自分の書いたものが人に読まれやすい。

 葭子は、病気がちな身体を押してでも、歌を作りたかったし、その歌を多くの人に見てほしかった。

 それでも大阪で部屋を借りて住んでいる倉片のところへは何度か足を運んだ。まるでままごとのような小さな部屋で、数少ない食器と二つのなべで食事を整えたものだった。洗濯のたらいもなく、ブリキのバケツを借りて、夫の下着を洗ったり干したりもした。

 倉片は、洗濯も食事も賄いのおばさんに頼んでいるのだといったが、

 「けれど、やっぱり葭子の料理の方がずっとおいしい」

 と妻の料理を喜んで食べた。

 倉片はいい人だと葭子は思う。こうやって大阪の倉片をたずねると、子供のようにはしゃぎ、葭子のすること一つ一つを喜んでくれる。かんしゃくを起こすことはあるが、葭子に大阪の街を案内したり,みなみへの土産ものをさがしたりする倉片は、無防備に自分をさらけ出して葭子に甘えかかっているようだった。

 しかし、葭子はその倉片の無邪気さが、かえって悲しく思われるのだった。以前、葭子は肺結核の再発がわかった時、倉片は男泣きに泣いた。

 「すまない。僕が葭子に苦労をかけたばっかりに、また病気になってしまったんだね」

 葭子の背中を撫でながら、倉片は謝った。

 そしてその夜、倉片は葭子を求めてきて、激しく抱いた。

 倉片の愛情の表われだと思ったが、一方で葭子は、心が冷えていくのを止めることができなかった。

 大阪の地でもまた、はしゃいでいる倉片にあわせて葭子は微笑みながら、あの時と同じように、寒々とした思いを抱くのだった。

はるばると夫の仮住おとづれて
小さきばけつにしゃつを洗へり

 尋常ならないことが起きた。

 大阪へ転勤していた夫が愛人を作ったのである。いや、それだけなら、この時代、何も珍しい話しではなかった。二号さん、妾などという名前で、男たちは妻以外の女と関係を持つことが多かったし、それを知りながら妻たちも忍従を強いられた時代であった。

 あの与謝野晶子も、妻ある鉄寛を好きになった、そして、その妻を追い出して、自分が妻の座についたのである。そういえば、葭子が親しくしている阿佐緒も妻のある男性との恋愛を繰り返していた。

 原阿佐緒は美しい女で、切れ長の眼にきりりと締まった口をしていた。眉毛がくっきりとしているせいか、顔立ちがはなやかで、男でなくとも好きになってしまう、と葭子は思う。阿佐緒を友人になったのも、自分にはない美しさにひかれたからかもしれなかった。

 阿佐緒も歌を作り、それを晶子のところへ送ってきていたことから、葭子と知り合った。聞いてみると気の毒な境遇で、美術学校へ通っていた頃教師と恋愛し、子を身ごもってから彼が妻帯者であったことを知ったのだそうである。

 口うるさい田舎にこと二人で住むわけにもいかず上京してきたのだが、何につけても妻のある男と関係してしまったことが悔やまれる、と阿佐緒は嘆いていた。阿佐緒の歌は、男を憎む心や嘆く色合いが濃いのが特徴で、葭子はあまりにも感情的すぎる気がするのであった。

 しかし、だからこそ、阿佐緒とつき合えたのかもしれない。

 美しく、歌会では常に男たちからもてはやされる阿佐緒。葭子とて、ねたましいきがしないではなかったが、彼女の歌は葭子の歌とは随分かけ離れていた。阿佐緒の歌が悪いというわけではない、歌集も出し、晶子も認めていた歌もあった。ただ、葭子の美的感覚から外れている歌なので、葭子の美的感覚から外れている歌なので、葭子は安心できたのである。

 阿佐緒は、アララギという会へ入って歌の勉強を続けていたが、そこでも妻のある古泉千樫と恋におちる。

 千樫はアララギを代表する歌人だった。葭子は自分の歌さえ認められればいいと思いながらも、千樫の「朝なればさやらさやらに君が帯むすぶひびきのかなしかりけり」といううたに言いようのない寂しさを感じた。

 倉片は間違っても、葭子の着物の音や帯を締める音を愛してはくれないだろう。葭子の才能を認めてくれてはいるが、阿佐緒が愛されているような情熱で葭子は愛されたことはなかった。そして、自分もまた、阿佐緒のような激しさで倉片を必要としたことはなかった気がした。

 阿佐緒と千樫は、純粋にいえばあまりにも幼い恋愛を続けたのであった。

 阿佐緒は以前、妻帯者と知らなかったとはいえ美術学校の教師で失敗したのだから、恋愛に対してもっと慎重になればよかったのである。千樫とて、産まれたばかりの子供がいるのだ。お互い、どんなにでも自重できたはずだ、と葭子はおもわずにはいられない。

 しかし、もし自分に何も考えずに心のままに男の胸に飛び込んでいける何かがあれば、倉片との関係はもっと違ったものになっていたかもしれないと思うのであった。

 それは勇気でも行動力でもない、葭子には備わっていない何かであるはずなのだ。

 自分には何かが欠けているのだと、葭子はまた思った。

 倉片が話かけてきても、上の空で返事をする葭子。葭子には心がここにないときがあった。それを倉片が不満に思うのはよく分かるが、自分でもどうしようもないのだった。

 「お前はいつも歌のことばかり考えているだろう」

 倉片はそう責めたことがあった。

 「そんなこと、ありませんわ。家の仕事をしているときは家のこと、みなみの着物を縫うときはみなみのこと」

 と言いかけると、倉片はふっと顔を曇らせた。まだ結婚した頃の倉片はこういう時、かんしゃくを起こし、葭子の頬をたたいたり物を投げつけたりするのが普通だったが、いつの頃か、葭子の言葉に胸を突き刺されたような顔をするようになった。

 倉片は男だからわからないだろうが、家事もみなみのことも、心を砕いて仕事をしなければ決してできないことなのだと葭子は思う。かぎられた着物を季節に応じて袷にしたり単に仕立て直したりしなければならないが、それだけでも、病弱な葭子にはたいへんな重労働だった。

 みなみの着物だって、柄の出方やこれから大きくなるだろうことを、考えて縫うのだ。片手間にできることではない。そう、葭子は心で強く反論しながらも、自分の心の一部がここにないことを知っていた。

 そして、それはどこに行っているかというと、倉片の言うように歌の世界に行っているのである。

それは葭子の心であっても、葭子にはどうすることのできないものなのであった。

 倉片に、愛人ができたと聞かされたとき、葭子はやはりそうかと思った。その女に対する嫉妬や裏切った倉片への憎悪はあるのに、葭子の心の表面は、それもそうだろうという倉片への同調の思いで一杯になった。

 「私もこんな身体ですし、仕方ありませんわ」

 と葭子は言った。肺結核に加えて心臓も弱ってきており、妻として倉片にしてやれることがだんだん少なくなってきていた。

 故郷の父が亡くなったことも、葭子を弱気にさせた。

 頼る人は、もう倉片しかないのである。晶子のように自立するすべも持たず、病弱な葭子は倉片と別れては生きていくことができない。

 これも運命だった。全身全霊を持って倉片に尽くせなかったのも、結核に冒されて夢がことごとく破れていったのも、仕方がないことだったのだ。

 それでも、やはり、葭子は傷ついたのである。

 運命だと思って諦め、倉片に愛人ができるのも仕方がないことだと思う分だけ、どこにも持っていき様のない怒りが葭子を責めた。

たまゆらにわれの心に漲りし
かの憎しみを人は知らぬなり

 倉片も、葭子がどんなに傷ついているか知りはしないだろう。

 大阪の仕事に片がつき、倉片は東京へ戻ってきた。しかも、大阪で作った愛人とともに戻ってきたのである。

 それだけでも屈辱であるのに、倉片は、女を二階に住まわせてほしいというのである。

 「本気でおっしゃっているのですか」

 「しかし、住む家がないのだから仕方がないではないか」

 倉片は顔色を変えずに言った。

 東京は地方の人間で一杯になっていた。工場が次から次へと建てられ、まるで何かにおわれるように、人々は苛立って生活していた。

 葭子は、夕暮れになっても明かりも灯さずにいた。そのくらい部屋で黙ったままの倉片に、

 「あなたは私のことなどこれっぽっちも考えていてくださらないのですね」

 と言った。男は堅い横顔を見せて煙草をもみ消しているだけだった。

障子をしめてわがひとりなり
厨には二階の妻の夕餉炊きつつ

 そうして、一つの家に妻と愛人が住む、普通ではない生活が始まったのである。

 家が見つかるまで、という約束だが、二階の物音は葭子のところに手に取るように届いた。

 女が倉片に話す言葉、笑い声。そして倉片に食べさせるために煮炊きをする匂い。葭子が障子を閉めて一人で食事をしていると、二階から階段を降りる音がして女がやってくる。ゆっくりと包丁を使う音が聞こえ、竈で薪がはじける音がする。

 もう嫉妬も憎悪もどこかへ行ってしまった。いや、どこかへやってしまわなければ、一つ屋根の下には暮らせない。それなのに、女の音が聞こえると、何かが胸の奥からしんしんと湧いてくるのであった。

 なぜ、自分は生きているのだろう。

 あの、病に伏していた頃、代用教員だからと蔑まれた時、葭子の胸に湧いてきた切ない悲しみが、今、何倍にもなって葭子を襲った。この悲しさ、なぜ生きているのだろうと思うときの悲しさは、誰にもわからないのだと葭子は思った。

 言いようのない孤独の中で、葭子は二階の物音を聞いていた。

人去りて幾時へたるひるの部屋
向ひの家に鳳仙花咲けり

 夫の愛人が、住む家が見つかったとこの家を出ていって二日たった。倉片は、

 「荷物を運ぶだけだから、すぐ戻るよ」

 と一緒に出ていったが、まだ戻らない。

 葭子は冷飯に漬物、夕べの残りの煮物という昼の用意をしながら、ふと外を見た。

 厨からは向かいの家の裏庭が見える。卵を産ませるために飼わされている鶏が二羽、石の下の虫をついばんだ。

 その向こうに鳳仙花の一群が見える。去年の種がこぼれて自然に生えたそうで、そう言えば、葉の色も薄く背丈も低いのであった。

 それでも、燃えるような赤色の花をつけていた。やや小振りながら、一房一房の花は確実に赤く開いているのであった。

 不思議だ、と葭子は思った。

 鳳仙花の花が咲くのも、その花に何か安らぎを見出す自分も不思議だった。

 そして、切ない悲しみの後に、決まって歌が生まれてくる自分という人間も不思議だった。

 歌を歌うために、私には悲しみが襲ってくるのかもしれない、ふと、そんな気がした。

 障子を閉めて一人になった葭子は、自分の茶碗にいつもより多めに飯を盛りつけるのであった。


(評)
面白い題であるにもかかわらず、内容との関連性がうすい。この題を布石として何かの展開があっても良かったのではないか。しかし、きめ細かな配慮が随所に見えて、楽しく読ませていただいた。


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