特選 アンダンテ

大薮町 西野みどり


古いピアノの重いキーに指をおろす
ピアノは長い歳月の間に音が狂ってしまった
おぼつかない記憶の単音をつなぐと
陽気でおしゃべりだった母が蘇る

木蓮の大樹が風に揺れている
窓辺のベッドに母は八年も寝ている
刻まれた皺はいっそう深くなり
若かったころの面影はすっかり消えて
ときどき開く目は失望の色が漂う

調律を怠ったふぞろいな音の羅列は
母のやわらかな表情を呼び覚まそうと
努力しない私の心のささくれ
不協和音のいくつかを力づくで叩く
もうこのピアノ処分してもいい・・・

窓の外は春の雨が降っていて
いつの間にか母はぽっかり目を開いる
ほんの短い時間でも母を幸せにしたくて
心地よい言葉をおざなりに並べる
笑うすべさえ忘れた母はそれでも
私の言葉に深くうなづいて見せる

こんな日が来るなんて考えていなかった
私は古いピアノを弾く
やさしさごっこの母と私の間
ゆっくりときしんだピアノの音が流れる
ピアノはこのままにしておこう
そのままでいることはとても苦しいけれど
いつか遠い日でなく散り散りになる
母も ピアノも 私も


(評)
「もうこのピアノ処分してもいい・・・ピアノはこのままにしておこう」看病の中で迷う作者が表現されるが,言葉に無駄がなく熟練の成果を思わせる作品でした。


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