入選 法界寺今昔
高宮町 植野愛子
「これより日野薬師寺」と彫られた道標の傍らに立った時、あゝやっと来られた、安堵と何ともいえぬ思いが私の心をかけめぐったのでした。
それは、今から六十年もの昔の思い出とでも申しましょうか。何もかもとび切り明るい五月の新緑のまっ只中、光の降りこぼれる文句のいゝようのない日の事でした。私たちは汗ばむ陽気の中をどこへ何しに行くのか、全くわからないままにただ前へ前へと足を動かせているばかりでした。それが突然立ち止まり、いきなり大きな講堂のような真っ黒い建物の中に吸い込まれるように足を踏み入れたのでした。明るい外界から一挙に暗い堂内へ。目が慣れてくるまで一息かかったのです。
暗闇の中にぱっ・・・・・と目を奪われたもの・・・・・それは目もくらむばかり金色の仏様の御姿でした。「あっ!」と息をのみ、くらくらっと体の震える程の感動。あの時の強烈な印象は今も忘れる事はできません。次第にお姿もはっきりと拝され、一条の光に頭部の金箔はほとんど剥落してはいるものの、ところどころ妖しい光を放って、豊満で慈愛に満ちた御かんばせに、崇高と言うか、ただただ無性に感激してしまったのでした。
あれはたしか女学校二年か三年の修学旅行の時だったと思います。醍醐の三宝院を拝観しての帰り道、時間の余裕でもあったものか突然ここに立ち寄ることになったのです。今から思えば当然何らかの説明があった筈ですのに、私には何の記憶も残って居らず、ただあの誇り高く微笑をたたえた美しいお姿のみがしっかりと心にやきついたのでした。
幼い時から仏様を意識したことなど一度もなかった私ですが、はじめて仏像を信仰の対象としてよりも更に大きな目に見えぬ美しいものとして心打たれたのでした。今思えば美の対象としての仏像にはじめて出会ったといえましょう。それ以来このことは私の脳裏から離れなくなり、いつかもう一度この目で、もっとはっきりした事を確かめたい、そんな思いがずっと心にかかっていたのでした。図書館で調べても要領がつかめず、思いが果たされぬまま長い歳月が流れていました。それがどうした事でしょう。このお寺がつい先頃放映された大河ドラマ”花の乱”の日野家の菩提寺「法界寺」であることもはじめて知ったのでした。
今年一月下旬山科の片田舎にやっと念願のお寺を訪ねる事が出来ました。車の往来のはげしい国道をそれた冬枯れの田圃道を訪ね歩きながらたどりついた法界寺は、人影もなく、山門をくぐった正面の阿弥陀堂は晴天の冬の日差しに照り映えて静まり返っていました。平等院の鳳凰堂と相前後して建立されたというこのお堂の階段を上った本堂の内陣に丈六の阿弥陀如来が飛天の透かし彫りの光背を背に流れるような薄衣をまとい円満豊麗のおだやかなお姿で静かに私を見下ろしておいででした。けれど御堂に入った瞬間、これは何か間違った所に迷い込んだのではあるまいかと戸惑いを覚えたのはあの時とはあまりにも周囲の状況が違っていたのです。十二神将もお薬師寺様も今は秘佛になっているとか。敗戦後各地のお寺で盗難事件が相次ぎ薬師寺道の内陣格子戸に白布が貼りめぐらされ、願い札が束になって寒々とふるえていました。
考えれば六十年もの年月が流れたということ、もし変わってしまっていたとしても不思議はないのです。そう思いつつも何だか納得のいかない思いに苛まれている自分。青葉の匂いに包まれた暗いお堂の下から見上げた金色の仏様を今も思い出しているのです。戦争の始まった頃の事で収蔵庫にでも入っておわしたのでしょうか。
案内の老夫婦は戦後ここに移住されたらしく、いろいろ尋ねたかった事、またその間の事情ももう今は知るすべもなく、時の流れは無情にも私の疑問に何も答えてはくれませんでした。
長い年月の間に、私の仏像を拝む目はおのずと異なったものになりました。定朝作といわれる法界寺の阿弥陀如来は古代の仏と異なり、仏教伝来から長い年月を経て日本の文化に同化し、美の化身として、お優しく親しみやすいお顔でいらっしゃればこそ、何もしらず幼かった私の心はとまどう事なく仏様に近づけたのでしょう。
執念のように私をかり立てたもの、それは何だったのか。今あるべき所に、そのかんばせは千年の時を経て、変わる事なく私を見下ろしておられる。ともあれ六十年という長い時の流れの中に包まれた小さな小さな私自身の存在を改めて考えさせられた一日でした。冬の日の残光を浴びて光る夕雲の下、又バスに揺られ、心を残して帰途についたのでした。
「出会い」とは何か。刻々として移る時間・空間の中に一瞬の出会いがある。それがその人の脳裏に焼きつき、そのことがその人のその後の生き方に深くかかわっていく。再びの出会いを求めていたたどりついた時、以前の出会いとはまったく異なったものとなっている。この埋めようもない現実。人生の奥深さを考えさせてくれる一文。初めて日野薬師尊像に出会った場面の描写がすばらしい。 |