入選 「父の思い出」

大薮町 柳瀬宏子


 父は別れる時、いつもまともに顔を見なかった。同じ町にある夫の実家に向かう私達家族を必ず門口に立って見送ってくれた。手を顔の斜め前にかざすようにして、目は決して私達の視線にまで上げなかった。車がいよいよ出る段になると、あれこれ別れの言葉を言い立てる私達に、手をヒョイと持ち上げて、頭を軽く頷かせるような仕草をするのだった。

 これが父の別れの儀式だった。静まり返った家に独り戻る父の寂寥を思い、私は声を押し殺して泣きながら夫の家に向かうのだった。嫁いでからこの胸の痛くなる別れをどれだけ繰り返したことだろう。母は私が結婚して数年で亡くなり、父は七十二才のその時から、ずっと独り暮らしだった。

 母の死後しばらくは、父の食は萎えた。数年経つと食を盛り返し、もう今度は、私や近くに住む兄姉皆んなが舌を巻く程食べるようになった。誰かが持って来た仏前に供えてあるお菓子箱を、人さし指で、チョンチョンとつつくように指さして、

 「宏子、開けてみい。」という。

 「今御飯食べたばかりやない。」と言って放っておくと、寝床に座った身体をおもむろに回し、箱に手を伸ばすと、ビリビリと包み紙を破いて、もう三つ指で口に饅頭を放り込んでいる。

 「あれが元気の素じゃけん。」「よう糖尿病にならんもんじゃねえ。」と、我々子供は、寄り合った時には、父の甘い物好きに感心して言い合った。父の食欲は、死の前日まで衰えることがなかった。

 父の日々は、書道と読書と家事に明け暮れた。里帰りして書棚をみると、最新のかなり巾広いジャンルの本が並んでいるのに驚かされることも度々だった。朝食後、台所の座卓の前に座って、天眼鏡をかざしながら、新聞を声に出して読んでいくのが、父の日課だった。私は傍らで片付けをしながら、父の変わらぬ元気さに、静かな喜びを感じるのだった。几帳面な父は、私の片付け方が気になるのか私が気配を感じてヒョッと振り向くと、手を後ろ手にして、廊下の端から首をこちらに傾けるようにして、様子を窺っていることがよくあった。

 書は八十八の頃までは盛んに書いていた。私達が帰って来ると、新しい作品を見せるのが楽しみで、私が荷物を下ろすのを、待ちかねるようにして、床の間に誘い、積み上げた色紙、短冊、画箋紙を広げて見せるのだった。待っていた父の気持ちを思い、あれこれ訊ねながれ、順々に見ていく。

 父が書から遠ざかったのは九十才頃だろうか。久し降りに娘に書き送ってきた色紙に、雨の日ぢぢかく、と端書きがあり、武者行路のような字体に枯れていた。

 父の耳は少しずつ遠くなり始め、それに比例して、テレビの音が段段大きくなっていった。皆んなが少し耳が遠くなり始めてから、二年位して、ようやく本人も自覚し始めた。父の許に帰った時、いつも寝床の中から交わしていた昔語りや歴史の話も、段段、話の間隔が長くなり、その内、いつの間にか、時計の音のみが闇を支配するようになった。

 娘と私が一番恐れたのは、電話で話せなくなる事だった。愛媛の父と私達とつなぐ唯一の手段は、電話と手紙だった。「おじいちゃん聴き取り向上委員会」を発足させ、実行に移した。電話は低くゆっくりはっきりと、を合言葉にし、刺激を与えるために、娘の楽しいイラストに、メッセージを添えて送った。だが、絵手紙は、十三号でストップしてしまった。

 転んでも転んでも、起き上がりこぼしのように立ち上がった父が、ついに永遠の眠りにつく時が来た。転んで玄関のたたきで冷たくなりかけていた父は、訪ねて来た義兄に見つけられ、回復はしたものの、さすがに身体が弱った。父の今後を案じて、施設を探し始めた兄姉に、父は古木が枯れるように自然に逝って、自ら解答を出した。いつものように起き出して、仏前に供える御飯を炊いたところで、具合が悪くなったようだ。母に供えるための御飯が、そのまま自分の旅立ちへの仏飯になった。電気カミソリは充電されたままだったという。九十三才のその時まで、二十数年、独りで、気丈に自分の生活を全うした父の見事な最後だった。


(評)
一人暮らしをしながらも充実した生涯を送った父の思い出。父を尊敬し、父の心の底までのぞきこむようにして見送る娘心がいたいように伝わってくる。父の人柄の描写が具体的で囲りの人のいたわりの態度など、読み手の教官を呼ぶ。こんな風に老いたい、こんな風に見看りたいとも思わせる。


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