入選  こぼれた煮〆め

平田町 三宅春代


 今年の冬は例年になく寒暖の差が激しく、二月だというのに小春日和のようなおだやかな日があるかと思うと一転、肌を刺すような寒気と共に吹雪となり、ゴオッーとなる風の音に、身も心も震えあがったものであった。

 その日の朝も、雨戸をくるとあたり一面の銀世界で、まだ灰色の空から降り続いている。朝食をすませた頃には雪空をわった青空がのぞき、陽がさしこんでできたかと思うと、又打って変わってふぶいている。そんなくり返しの日の昼過ぎ、八十二歳の一人暮らしのYさんから電話がかかった。

 生気のないしわがれた声で、「あんなあ、風邪をひいて熱が八度五分もあるんや。昨日近くのS医院で診てもらったら、風邪やゆうて薬はもろてきてあるんやがなぁ、なんせ一人暮らしやろ、買い物にもいけんしなあ、お菜を作るのも面倒やし、弱ってるんや」「Yさん、それで息子さんに連絡したの」「したんやけどなあ、嫁さんも忙しいらしくてなあ、待ってるんやけど来んのやわ」「そんなら、わたし、すぐ覗きにいくわ」「おおきにすまんなあ」の会話の間にも頭の中は最近特別養護老人ホームで、インフルエンザでなくなったお年よりの話がよぎる。

 次に広い寒々とした部屋で一人ポツンと寝ているであろうYさんを想い、何か暖かいお菜でも煮て持っていってあげようと考え、それから大急ぎで小芋、人参、牛蒡、大根、かしわ、椎茸を煮〆めた。煮あがり、味がしみるのを待って丁寧に、パックにつめた。色どりのグリーンピースの緑を散らし、軽く包装紙で巻いてビニール袋に入れ、自転車の前の篭に入れた。丁度雪も小休止状態、今のうちに届けようと時計を見ると、早や四時近い。丁度郵便局へ寄る用事があったので、その用件を先にすませようと自転車で郵便局にむかった。

 簡単な用事だったので、そのまま入って用をたして出てきたら、私の自転車の横に二人の男女の学生が立っている。私を見て「自転車を倒してごめんなさい」と頭を下げる。自転車はちゃんと立っていて、見たところどうもない。いぶかし気な顔をしている私に再度あやまる。自転車を倒したくらいで、そんなにあやまらなくてもいいのにと、わたしの頭にはそれしかない。

 細面の顔立ちに白いマフラーを巻いた女子学生と、背の高いグレーの防寒コートを着た少年だ。二人は米つきバッタのように、「自転車を倒してごめんなさい」をくり返し、頭を下げる。ふと、その時、私は自転車の前篭に入れておいた煮〆めのパックに気が付いた。なんと煮〆めはこぼれ、それを入れておいた白いビニール袋は煮汁で汚れ、自転車のまわりには、人参やグリーンピースが雪の上に散らばっているではないか。「ウワー、折角の煮〆めが・・・・・・」正直のところ腹立たしく情けなかった。私が煮〆めの包みに気が付いた事を知って、二人はますます「ごめんなさい」を言って頭を下げる。

 材料の用意から二時間余り手間をかけて作った煮〆めなのに。一旦家へ帰ってつめ直すにしても、鍋には残り物しかない。そんな思いが素早く頭の中をかけめぐるのと同時に、この二人が「ごめんなさい」をくり返している理由がやっとわかった。

 しかし、自転車を倒したのは、誤ってやった事、単なる偶然の過失にすぎないのではないか。倒した自転車をおこして、その儘立ち去ってもすんだかもしれない。それなのに正直に自転車の持主が現れる迄待って謝る態度は、かえって賞賛すべき事ではないのか、の思いがわいてきた。「仕方ないわねえ、これから気を付けてね」と少し余裕の出た気持ちが表情に出て言うと、二人共「はい」と口を揃えもう一度「すみませんでした」と言って解放された安どの表情をみせて、自転車で雪道を去っていった。 

 その後ろ姿を見送りながらふと思った。もしあの学生のどちらかの一人が自転車を倒していたとしたら、持主が現れる迄果たして待っていて謝れただろうかと。丁度仲の好いガールフレンド・ボーイフレンドがいたから、お互いの友情、愛情が力になってそのような行動をとることができたのではないだろうか。

 かつて私も小学五年生の時、札幌で雪に埋まって低くなった板塀を、平均台代わりに使って遊び、板を割った時二級上の中学生のD兄ちゃんが、励まし一緒に謝りにいってくれた事を思い出した。同じ雪の中の出来事だったにも自分とかさなり、その当時の仄かなあわい恋心がなつかしく偲ばれ、寒さの中でほのあたたかいものが流れ、二人の姿が見えなくなっても雪の中に佇んでいた。


(評)
こぼれてしまった煮〆め・・・・それを見つめる筆者の心の動きの表現が読み手を引きつける。Yさんへの優しい心づかい。自転車を倒した若い二人への対応。筆者の素直な前向きな生き方を見ると清々しい。ただ、老いたYさんへのいたわりが主か、若い二人のことが主なのかテーマが二つになってしまうような感じがするのが惜しまれる。


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