特選 「尾瀬」

大薮町 岩倉喜代子


 ”夏が来れば思い出す”で始まる「夏の思い出」という歌を私が習ったのは何年生の時だっただろうか。確か習う前から知って居た様に思うが、江間章子作詞、中田喜直作曲のこの歌は昭和二十四年、NHKのラジオ歌謡として発表されたというからラジオをよく聴いて居た私は自然に覚えたのだろう。水芭蕉と澄んだ空、広い湿原、一度も訪れていなくてもこの歌を口ずさむと尾瀬のイメージが広がりいつも爽やかな気分になるのであった。

 春になると旅行社には尾瀬のパンフレットが並び、夏にはテレビや雑誌が紹介するから身近な所とも、気軽に行けそうとも思うのに機会がなく、一足先に行った知人から「歩いて歩いてしんどかった」と聞いた事が私の尾瀬行を実行するきっかけになった。「足の達者な内に行こう」と同行の友人の意見と一致することでもあった。

 尾瀬を歩く色々なコースの中で私は初めて行く時は水芭蕉の季節で長蔵小屋に泊まり三平峠を越える、というコースに拘わった。希望通りのバスツアーを見つけ参加したのは水芭蕉の花盛りの六月中頃、梅雨時期でもあった。

 一日目は老神温泉に泊まり、二日目は乗って来たバスで宿を八時に出発、戸倉で村営バスに乗り替えて鳩待峠入口には九時に到着した。村営バスに乗っている二十分間に尾瀬入山についての細かい注意を受ける。「尾瀬は特別天然記念物、特別自然保護区の国立公園である事、靴の土をよく落として入山の事、花一本、草一本折ってはならない。倒木一本動かせない、ゴミは全て持ち帰ること。」聞いている内に徹底した自然保護の姿勢を感じ愈々尾瀬に入るとの感慨に身の引き締まる思いとなった。

 「尾瀬」とは群馬、福島、新潟の三県に接し、東西十五キロ、南北八キロ、標高約一四〇〇から一六〇〇メートルの湿原や沼を含む広大な地域を言う。尾瀬行きとしては湿原だけを見るコースもあるがそれでは尾瀬の良さが解らないという。我々のツアーは二日目は鳩待峠を越え、湿原を抜け、沼畔を通り昼食や休憩を交え乍ら長蔵小屋迄、約七時間歩くというコースである。変わりやすい山の天気は一日晴れているとは限らない。リュックを背おい靴紐を結び直した我々は緊張して歩き始めた。山道を一時間歩いて鳩待峠を下ると写真等で見覚えのある広い湿原に出た。木道が蛇行しながら一本になり二本になり、小川を跨ぎ水芭蕉の群生を抜けて長く続いている。山小屋の食糧だろうか、ダンボール箱を幾つも背負い、ゆっくりと歩く人が居る。前を行く人のリュックに止まったトンボがなかなか離れない。どこかで雲雀の声、前方に残雪の燧ヶ岳(ひうちがたけ)、後方に至仙山(しぶしやま)深田久弥選の百名山の秀峰を眺め乍ら江間章子の誌をしみじみと実感するのだった。湿原を歩く時には晴れていたが空が沼の辺りを歩く頃には小雨となったが、四時半には全員長蔵小屋に到着した。私が一度は訪れたいと念願した小屋であった。

 小屋と名付けられてはいるがここは部屋数が二十、シーズン中は一日二百人以上泊まれるという大きな建物であった。明治三十四年、尾瀬を愛した若き平野長蔵が山岳信仰の行者小屋として小さな小屋を沼の辺りに建てて住みついたのが始まりとされる。長蔵・長英・長靖の平野家三代が約百年、尾瀬という小屋を守り続けられたという。特に戦後、尾瀬を水源とするダムが出来、列島改造の時流の中で群馬、福島を結ぶ「尾瀬只見国国際観光道路」が認可された。尾瀬の自然と慎ましく共生して居た平野家とは相入れない方針であり、身を挺して開発に抵抗した拠点がこの長蔵小屋であった。三代目、京都大学出身で新聞記者を退職した長靖氏がこの小屋の経営を引き継いでからの活動とその劇的な生涯は記憶に新しい。認可された観光道路の工事が進む中、大木が切り倒され、岩清水が壊され、ブルトーザーが動き、赤土が露出する現実に心を痛めた長靖氏は初代環境庁の大石長官に直訴の手段を取った。現地を隈なく視察した長官は他の官僚の反対を押し切って認可を取り消し、工事中止を決定した。「尾瀬の自然は世界の宝庫」と実感され「尾瀬の自然を守る仕事を環境庁の初仕事としたい」と言わしめたという。長靖氏には一方で便利さを求める麓の村の人達の反感を受ける事となり、自然保護運動と山小屋の経営により相当疲労が重なったという。冬とは言え子供の頃から歩き慣れ、通い慣れた三平峠で遭難されたのは三十六才。その人生も本格的な自然保護活動もこれから、というあまりに短い一生であった。

 その後更に三十年近い年月が過ぎ、長靖夫人が遺志と事業を引き継いで居られると聞く。

 三日目の早朝、小雨の中、長蔵小屋を後にした我々は帰途のルートである三平峠に伺った。この峠で力尽きた若き長靖氏の歩いた同じ道を若葉の枝の雫に肩を濡らしながら黙々と歩くのだった。


(評)
一度は訪れたいと願った尾瀬。いくつもあるコースの中から筆者が歩いたのは、こだわりの自然環境を守るコースだった平野家三代が切り拓き守りぬいた執念の道。調査、準備を万全にして出かけた筆者の態度が単なる紀行文に終わらせない重みのある一文を書かせたのだろう。最後のしめくくりも余韻を残して味わいがある。


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