特選  約束

稲枝町 山本正雄


 昭和十四年春、私は近江高校の前身にあたる近江実修工業学校に入学した。前年に創設された全寮制の学校で、校舎は近江絹糸紡績(現・オーミケンシ)の構内にあった。

 寮の同じ室に三重県出身の小川君が居た。県内の者とは話が合わなかったのと、弱視というコンプレックスのためか何時も孤独な存在であったが、純朴で誠実さがあって、寝食を共にするうちに、私とは何事も打ち明けて話せる無二の親友となった。

 昭和十五年夏、私は結核の発病によって退学を余儀なくされ、長い療養生活に入ることとなったが、いま思い返せば、この寮生活の一時期が私の青春前期のしばしの華やぎであって、青春時代は発病とともに幕が降りてしまったのである。

 程なくして小川君から、眼疾が進み勉学に付いて行けないので退学し帰郷したとの便りがあった。それ以来、お互いの不運さを度々の文通によって慰め合っていた。昭和十七年十月十九日、彼は我が家を訪ねて来て久しぶりの再会を喜んだ。私にもぜひ遊びに来いと言い、一緒に伊勢参りをしようと誘ってくれた。私は病気が治ったら必ず一度は行くと約束した。翌日、能登川の写真館に行き二人で写真を撮った。そしてその日、稲枝駅で別れたが、これが彼との今生の別れになろうとは夢にも思わなかったのである。

 私は昭和十六年以来日記を書き続けている。昨年調べることがあって、古ぼけた当時の日記を出して読み返して見た。小川君との手紙の遣り取りのことも頻繁に書き残している。ところが、戦後数年が経って突然便りが途絶え、当方からの手紙にも返事が来ぬようになってしまった。電話もない当時としては安否の確かめようもなかったのである。そのうち私の病気も小康を得て勤めに出るようになり、次第に忙しくなるにつれて彼のことも何時しか念頭を離れていた。

 古い日記を読むうちに、当時のことが鮮やかに蘇えり、彼は今どうしているだろう。もう一度会えないだろうかと思い始めると、居ても立ってもいられない気持ちになった。日記帳に残っている住所録により、彼の地の自治会長宛手紙を書いて消息を調べてもらうことにした。ところがその返事には、昭和五十一年すでに亡くなっているという。あゝ遅かった。なぜもっと早く気が付かなかったのだろう。今となってはもう諦めるより仕方がないが、学生時代の唯一人の親友と交わした一度行くとの約束は果たさなければならない。会うことは叶わずとも、せめて家族の方に長い間の無沙汰を詫び、若き日の友情を伝えねばならない義務感のようなものが、胸のうちにうつ勃と湧き上がってきたのである。

 平成八年九月二十九日よく晴れた朝、私は小川君の墓参を思い立って家を出た。三重県の員弁郡は鈴鹿山脈の向う側で、直線距離はあまり遠くはないが、交通機関を利用して行くには時間がかかる。大垣から私鉄電車を何度も乗り継いで、昼過ぎ梅戸井という小さな駅に降り立った。この辺りも田園地帯で、稲は大方刈り取られているが、残った稔り田には太陽が燦々と降り注いでいる。二度ばかり尋ねて家を探し当てた。奥さんと息子さんは仕事を休んで待っておられた。私は当時の話を聞いてもらい、古いアルバムから剥がして持ってきたあの時の写真をみせた。セピア色に変色した写真には学生服の二人が並んで写っている。

 昭和十七年に別れて以来、太平洋戦争と戦後の混乱した時代を、小川君はどのように生きてきたのだろうか。いまは知るすべもないが、奥さんは、ともに生活した二十数年間のことを色々と語って下さった。彼の眼疾は年ととも悪化したが、それでも近くの工場に勤めたり、農機を動かして米作りに精を出していたという。この家も亡くなる三年前の新築だとのこと、座敷には我が家と同じ宗派の立派な仏壇があり、扉が開かれている。

 奥さんはいま、息子さん夫婦と孫に囲まれて幸せな日々を送っておられる。しかし、ひどく腰を曲げての立ち居振る舞いを見れば、目の悪い夫を支えて田畑に働き、四人の子供を育て、その上あまりにも早く、五十二才の夫を失われた苦労の程が偲ばれるのである。

 息子さんは、小川君が孫を抱いている一枚の写真を出して持ち帰ってくれと言われた。私は形見にもらい服のポケットに入れた。それから村外れにある墓地へ車で案内して下さった。墓地からは秋日に映える鈴鹿の山々が一望出来、伊吹山も遠くに小さく見える。この地でも冠雪を初めて目にするのはこの山だそうだ。

 五十四年前の約束はついに果たせたが、幽明境を異にしたいまは、還ることなき遠い日の面影を偲ぶよりほかはない。友情は永遠のものだと誰かの言葉にあった。小川君のことは生涯忘れることはないだろう。君よ安らかに眠れと私は墓の前で長く手を合わせた。


(評)
高校時代の親友との再会は五十四年振り、しかしそれは幽明を異にしてのこととなった。年経て思い出す人はなつかしく、幼い頃、若い頃の自分を写し出してくれる鏡のようなもの。無精に会いたくなった筆者の心の動きが素直に読みとれる。むだのない書きぶり、要を得た文の構成は筆者が長年日記を書き続けておられることと関連があるように思われる。書き続けることの力は大きい。


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