入選 鉛筆をパステルに

坂田郡米原町 宮崎眞弓


 あと、五分しかない。私は急いで、ドアを開けた。受付の女性がうさんくさそうに私を見た。

 早く席につくって事は知っています、と言いたいのをこらえて、私は聞いた。

「まだ、始まっていませんよね」

 受付の女性は、またもや不機嫌な顔をして、

「始まってはいませんけど」

 と言った。けど、の語尾を伸ばす言い方に私への非難が込められていた。

 わかっているってば、だけど仕事が終わらなかったのよ。私はチケットを急いで渡すと、廊下を走った。コンサート、特にクラシックの場合は演奏が始まれば、もう中へは入れてもらえない。音合わせというのか、各楽器の音がめいめいに鳴らされて、雰囲気を盛り上げている。私はチケットの番号を見ながら座席を捜した。

 ライトが絞られ、人々のざわめきがだんだんと静かになっていった。いよいよ、指揮者の登場か、しかし私の席は見つからなかった。

 あぁん、もっと早く来るべきだった、館長がごちゃごちゃと言うから、こうなってしまったのだ。

 25-D、それが私の座席の番号で、しかしその辺りで空いている席はないのだった。もう、だめだ、ライトはすっかり落ち、拍手が湧いた。いよいよ指揮者がステージの中央へ進み、演奏が始まろうとしているのだ。

 その時私は、私が座るべき場所に男が座っているのに気が付いた。25-D、間違いがない。

 すでに演奏が始まってはいたが、私は席にいる男にささやいた。幸い通路側で、他の人に迷惑をかけずに交渉ができそうだった。

「そこ、私の席だと思うんですが」

 私は声を出さずに言った。その男は飛び上がらんばかりにして、私の方を見た。

「おたくの席やて、あれ、ま」

はっきりいって間がぬけた言い方であたりの人たちが迷惑そうに私の方を見た。

「大きな声を出さないで、迷惑でしょ」

 私は小声で男に言い、男がチケットを捜そうとポケットを探り出したのを制した。

「休憩まで、待っています」

 そうしないと私たちの雑音が周囲の人々を不愉快にさせるのは目に見えていたし、何より係員につまみだされそうだったのだ。正確に言えば男が悪いのだが。

 そういうわけで、私は楽しみにしていたコンサートを、最初は通路にしゃがんで鑑賞することになってしまった。

 私はクラシックにそう詳しいというわけではないが、関口加代がこのコンサートに私を誘ったときから多少は心を躍らせていたのだった。仕事と家とを行き来しているだけの毎日にきらりと光る当面の希望の星だったのだから。

 私は灰谷曜子、K市の図書館に勤務している。三十を越えた私に両親は結婚するようにとうるさいが、日曜が休みではない職場にいると出会いも少なくなるというものである。

 ちょっと前、二十代の頃はそれなりに苦しかったが、今はもう割り切れるようになっている。

「そうなったら、終わりやで」

 関口加代は言うが、そういう彼女も同じようなものだと私はにらんでいる。

 加代とは図書館司書の研修会で知り合ったのだが、私は加代の万年筆に魅せられて、彼女と友達になったと言える。

 あの時、加代が持っていた万年筆はどこの会社のものか知らないが、黒光りのする立派なものだった。私はそれに打ち負かされた気がして、目を離すことができなかった。私は鉛筆でメモを取っていたのだが、何だが自分が恐ろしく子どもじみている気がした。

 加代は高校の図書司書をしていると言っていたが、その万年筆の重さに私は加代のキャリアだとか年齢だとかを感じずにはいられなかった。万年筆から私と同じくらいか、もう少し年上という気がしたのだか、外見はもっと若く見え、それも高校生たちと毎日顔を合わせているせいだろうかと思えるのだった。

 しかし、今夜は加代はこない。別な用事ができたと連絡がはいったが、だからといって私まで行かないという気にはならなかった。

 以前なら、それなら私もやめると言っていたが、そして加代の用事とやらを詮索しそれを探ろうと見悶えしたであろうが、今日の私は平然として一人でコンサートへ行くのである。

 今はへんな男のおかげで通路にしゃがんではいるが、自分の席に座れば音楽を楽しみ、少し満ちたりた気分になって家へ帰るだろうということは眼に見えていた。

 少し前なら私を悩ませたであろう、アベックたちの姿も、年代がずれているせいか私をもういらだたせなかった。

 二十代前半の二人づれか、もっと年輩かで、そして、若い人たちはこんな所へは来ないのである。女性ばかりが眼につき、本当にカップルは少なかった。

 平日六時三十分からのコンサートには、世の男性は参加しにくいかもしれない。しかし、そんなことをしているうちに大事なものが痩せていってしまうのに、と私は彼らたちを同情した。

 二十分の演奏が終了して、五分間の休憩になった。私は通路から立ち上がり、25-Dの席へ近づいた。

「すいませんでした、もう来られないのかと思って座ってしまって」

 男は一応の常識はあるらしく私に頭を下げた。

 私はさっそく自分の席に落ち着き、そしてあらためて男の顔を見た。この、ひょろっと手足の長い日に焼けた男の顔に私は見覚えがあった。

「藤田くん、藤田洋平くんでしょう」

 はたして、男は人なつっこい笑顔を浮かべて

「ああ、図書館の」と言った。

 彼は図書館へちょくちょく来る男で、若い男というだけで注目を浴びていた。私たちの仲間の中ではというだけだが。と言うのも、図書館へ来る人間は小学校くらいの子どもか年とった人たちが圧倒的で、高校生くらいが勉強しに来ていることはあっても大学生は珍しかったからである。洋平は浪人中から図書館へ通ってきていて、時々本を借りたりしていたから、私はよく知っていた。

 私の方は事務処理のために洋平の学生証を手にしたり、彼の名をコンピューターに打ち込んだりしているから、洋平の名前を知っているが、彼が私の名前を知るわけはないのである。しかし、「ああ図書館の人」と私を呼んだ時は、妙に寂しかった。

 洋平が25-Dの一つ隣の席の女の子に話しかけていたせいもあるのかも知れない。

 短い休憩の終りをベルが告げ、洋平は自分の席へ戻った。彼は通路を隔てた私の隣の席で、時々こちらを見ていた。

 女の子に気があったのだろうか、私はピンクのワンピースの女の子を横目で見た。私は白のブラウスに黒のタイトスカートだったが、けっこう決まっているのがわかっていた。白といっても衿に刺繍があり、華やかに映ることはちゃんと計算していた。それに黒のボトムは私のスタイルをよく見せるだろうから、三十すぎだとは誰も思わないだろう。

 ピンクの女の子は少しやぼったかった。

 ピンクを着れば可愛いという時代は終わったのだ。研究と鍛錬こそが女を磨く。

 演奏中も、洋平はこちらを見ていた。私はステージを見ていたが、そんなことは雰囲気でわかるものなのである。しかし、私ではなくピンクを見ているのかも知れず、みだりに対応すると物ほしげに思われると思って、私は前だけを見ていた。

 今夜はきめているからピンクと比較されようがじっと見つめられようが平気だった。

 演奏が盛り上がってきた時「この後予定はありますか」と洋平がささやいた。

 なに、今大事な所なのにっ。静かにしなさい。しかし頭を私の方へ傾けて小さな声で一生懸命何か言っている洋平は可愛いかった。

 幼い男の子が母親に何かねだるようにして、洋平はささやき続けた。

 なぁ、一杯飲みにいこう。ええやろ。

 うるさい、みんなの迷惑になるでしょ。

 私は洋平をにらんだ。男はしばらくステージを見るが、またすぐに、コーヒーでも飲もうとか話しかけてくるのだった。

 不思議なことに悪い気はしない。私はお茶をつきあってもいいという気になっている。

 ステージではラヴェルの「ボレロ」が始まっていた。同じリズムの中で楽器の音色が再生し繰り返され、そして私を異国の世界へ運ぼうとしていた。

 コンサートの後、私たちはファミリーレストランぽい喫茶店へ行った。

「よく行くの、コンサートなんか」

 洋平はコーヒーの中へミルクや砂糖をたっぷりと入れた。私はいつもはブラックだが、彼が私のことを自分と同じくらいの年だと思っているようなので、ミルクを少し垂らした。

「友達に誘われたんだけど。でも彼女は来られへんから、私一人で行ったの」

「僕も実はふられた口なんや」

 彼女にふられたの、と私は聞いた。

「いや、友達がふられたんや。それでチケットがもったいないし、男二人で来たん」

 私はそのまぬけな有様に吹き出しそうになった。

「笑わんといてな、ふられた方はみじめなんやで。でも、コンサート行ったら、もしかして別の女の子と知合いになれるかなと思って」

「それで私の隣のピンクの子に声かけてたってわけ」

 私はあてずっぽうに言ったのだが、洋平は目を丸くして、

「あれっ、なんで、わかったん」

と叫んだ。

 なにさ、どういうことっ。

 別に洋平とどうこうなりたいというわけではないのに、彼が他の女の子に声をかけたというだけで、腹が立つ。

 そのくせ、洋平の若さ、かわいさに私は魅せられている。私はコーヒー一杯の飲み方にさえ、ちゃんと計算して可愛く見られるように苦心しているというのに、こいつときたら、素直そのまま、聞かれたら本当のことをしゃべるのだもの。いやになってくるくらい素直、だけど、憎めない。

 洋平は少し声を低くして、いたずらっぽく言った。

「けど、ピンクの子よりおたくの方がセンスがええわ。なんかきりっとしていてかっこいいん。あの子、子どもっぽいと言うか、ピンク着てたら可愛いというもんじゃないのにという感じだった」

 私は嬉しさのあまり何かいいたかったが、じっと我慢した。

 あまりおいしくないコーヒーだったけれど、私は時間をかけてゆっくりと飲んだ。洋平はそうは思わなかったらしく、おかわりをして、もう一杯飲んだ。

「僕腹、へってきたなぁ。おたくは」

 私は首を振った。今夜はおにぎりを買って食べただけだが、洋平だけで私はもう一杯になってしまっている。

 ひさしぶりだったから。男と二人で喫茶店へ来たのは。

「だから言ってるでしょ。もっといい男がいるんじゃないかと言っているうちに年とってしまうって」

 私にそんなこと言ったのは、加代だったか、もう結婚して主婦になっている高校の同級生のさくらだったか。そのどちらからも言われていたし、父にも母にも同じようなことは言われていた。私は周囲の人間に、ほら、だから言ったでしょと言われやすい人間であるらしかった。

 洋平はメニューを見て、サンドイッチを注文した。

「それからピサも」

 そして私の方も見て、おたくも少しは食べるでしょ、と彼は聞いた。

「おたく、ではなんか他人みたいやな。名前呼んでいい」

 私はうなづいた。私の名前は灰谷曜子だと言うと、彼は曜ちゃんと私を呼んだ。

 ファミリーレストランは幾組かの家族連れでにぎわっていた。もう九時をまわろうかとしている時間なのに、小さい子どもたちの声が響き、食器がガチャガチャと鳴っていた。それなのに私は洋平の「曜ちゃん」という声がみんなに聞こえるのではないかと思って、体を堅くしていた。

 洋平が何かを一心にしゃべっているのに私はようやく気がついた。

「で、曜ちゃんはどんな番組が好きやった」

 彼は子どもの頃のテレビ番組について話していたのだが、私はどの番組の名前を言おうかと頭を忙しく働かせた。

「キャンディ・キャンディなんか好きやったの」

 洋平は聞いた。彼が口にした番組名は少女向きのアニメだったが、それが始まった頃、私はもう大きくなりすぎていてその番組は見ていなかった。

「うーん、どうやったかな。どっちかというとアタック・ナンバー1の方が好きやった」

 私は古いスポ根もののアニメの題名を言い、洋平に困った顔をさせてしまった。

「小さい頃にあったテレビのことをよう覚えているなぁ。それって僕らが五才くらいの時のと違うの」

 洋平は私を自分と同年代だと信じているようだった。

「私、洋平君より年上よ。だから番組だってよく覚えているのは当たり前です」

 私は冗談ぽく言ったが、この男とこんなふうに会話ができるのもこれが最後かも知れないと思った。たぶん洋平は十も離れている女を相手にはしたくないだろう。それに私もこんな若造を相手にしている場合ではない。

 加代やさくらに言われるまでもなく、私は人並に結婚もしたかった。洋平とつき合う時間があれば、結婚のために何かをしなくてはいけないのである。

 しかし、誰でもいいから結婚したいという気持ちはない。友達の結婚式に招待されるたび、あの子のだんなよりいい男と結婚するんだと思っていたが、そういういい花婿候補がごろごろしているわけはなく、それで私は今も結婚していないのであった。親友と称するさくらが紹介してくれる男たちも気のせいかさくらのだんなよりおちる男のような気がして、私はさくらと連絡を取るのを避けるようになってきていた。

 おりしも季節は梅雨で、私は蒸し暑い世界でじたばたとしていた。その中での清涼剤がこのコンサートだったのに、洋平と会って私は現実を直視することになってしまったのだった。

 結婚するなら背が高くて顔が良くて、などと高望みをしていたのはずっと昔で、今もそういう気持ちがないではないが、一緒にいてて楽な人というのが第一の条件になりつつあった。そして何より、結婚てそんなに大事なことなのかしらと考えるようになり、結婚すると名前が変わってしまうのは女が多いし、仕事を辞めるのも女の方なのはどうしてだろうと思うことも多くなった。男女平等というのに、こんなに不都合な制度もあったものではない。いったい結婚をする女たちはこういう制度に疑問を感じないんだろうか。

 しかしたぶん、もし結婚が決まれば喜々としてそのセレモニーに突入するだろう。所詮、私はそういう人間なのだ。

 私は物を食べる洋平のよく動く顎を見ながら、そんなことを考えていた。洋平はサンドイッチもピザもむしゃむしゃと食べていた。彼のよく動く細い顎は生きずれていない感じがして、私はそこに手をやりたくなった。うすあおい髭の剃り跡が日焼けの色に隠れていて、ちょうど青年と大人の男の間で果物が熟していくみたいにいい匂いを放っている気がした。

 しかし何より私の目が引きつけられたのは洋平の指だった。指先にソースや野菜の切れ端がつくとそれをぺろりと舐め、また新しい獲物へと手を伸ばす。長い指はしなやかに動き、しかしそれはしっかりと太いのだった。そしてその指は年をとっても今のしなやかさを失わず動いているだろう。

 洋平はだいたい食べ終わって自分の指のマヨネーズを名残惜しそうになめると、ナフキンで音をたてて指を拭いた。それから私の眼をのぞき込んで、

「な、僕とつき合わへんか」

と言った。食べた後にそんなことを言うなんて考えればへんな奴だが、洋平の場合は別に不自然ではなかった。

「私、君よりずっと年上やってば」

 私はさらりと言ったが、どのくらい年上だと彼に思われているか心配で洋平の顔をのぞきこんだ。

「年なんか関係ないって」

 しかしたぶん洋平が私の年を想像しているより実際の私は彼より年上なのである。洋平は、私のブラウスを褒め、よく似合っていると言い、今度いつあえるか日にちを聞いた。

 会いたいけど、私すごく年上なのよ。

 もう少しでいいたくなる言葉を飲み込んで、私は手帳も開いて空いている日を洋平に言った。洋平は手帳を何も持っていなくて、私は自分のメモを破って電話番号も教えてしまった。


 「曜子、ごめん。助けてほしいねん」とさくらから電話があったのは、じりじりと太陽が照りだした午後のことだった。

 さくらは高校を卒業して勤めに出たが、それからすぐに結婚した。短大へ行きそれから十二年も勤めている私とは全く違う人生を歩んでいるのだけれども、どういうわけか馬があう。

 さくらには二人の子どもがいたが、やんちゃざかりの子どもの世話でいつも、目がつり上がったような顔をしていた。時々さくらの住むアパートへ遊びに行くが、そのおもちゃ箱をひっくり返したような部屋でさくらの金切り声と子どもたちの騒ぎ声を聞いただけで、結婚なんかせんでよかったと思うくらいである。ところが、私と同級生とはとても思えないくらい年とってみえるさくらが、「結婚てええわよ」にこりと笑って言うと口や眼の回りに深い皺があるにもかかわらず、妙な説得力があったりして、私は落ち着かなくなってしまう。

 さくらは仕事場へ電話をしてくることはめったになかった。

「あっ曜子、仕事中ごめんな。下の子の具合が悪いの。それで今、病院なのやけど、弘也のお迎え頼みたいの」

 弘也というのはさくらの長男である。

「だんなのお母さん、足が悪いとかで頼めへんし、うちの母も具合が悪て。それで曜子に無理を言うんやけど。ね、お願い、弘也の保育園へ迎えに言ってくれへん」

 私は一言もしゃべらせてもらえなかった。

 受話器の向こうは病院らしい音が響いており、切迫した空気が伝わってきた。

「うんん、仕事が終わってからで間に合うから。保育園にはちゃんと連絡しておいたからね、大丈夫、弘也は私より曜子の方が好きみたいやし。うん、うちへ連れて帰ってもらったら、家にはどっちかのおばあちゃんが来てるはずやから。うん、だんなが出張でいないんや、このたいへんな時に出張で、いやになってしまう。会社には連絡したから帰ってくるかもしれんけど、すぐには無理やと思うの」

「それで隆ちゃんは大丈夫なん」

 私はようやく聞きたかったことを口にした。

「ああ、あの子、腸重積になって。でもバリュウムで高圧浣腸をしてもらったから、もう大丈夫なん。ただ、二、三日入院をしましょうって。今、点滴打ってもらって、寝てるわ。腸重積というのは腸がいれこみたいになる病気なんやけど、弘也も四か月の時、腸重積をしてな。どうもうちの子は腸がいれこになりやすい体質みたいやわ」

 そう言ってさくらはガハハと笑った。もう二人も同じ病気をしているとなれば、余裕もあるのかも知れなかった。

 さくらは夫の悪口を二つ三つほどいってから電話を切った。

 保育所へ行くと、はいはいしている子どもたちと一緒に弘也は待っていた。時計をみると六時前だった。

「弘也ちゃん、聞いた。隆ちゃん悪いんやて。曜ちゃんと一緒に帰ろうな」

 私のことをおばちゃんとは呼ばせない、お姉さんというのもなんだから、曜ちゃんと言っている。

 弘也は保育園の滑り台へ走っていきそこで十五分ばかり一人で遊んだ。その後、私の腕にぶらさがりながら「帰ろう、帰ろう」と歌うように言った。

 私たちは手をつなぎながらさくらの家へ向かった。他の人から見れば、私と弘也は親子に見えるだろうと思った。

 こういう日常も悪くはないと私は思う。夫がいて、夕方になればみんなが帰ってくる時間。時には誰かが病気になって心を痛めることもあろうが、それはまた、みんなが揃った時に一層の喜びとなるのだ。

 弘也と手をつないでいる私の頭の中に、洋平の顔が浮かんでくる。

 洋平となら日常の時間を作っていくこともできるかしらと考え始めて、そぐに頭をふった。それは考えてはいけない。洋平に私が三十二歳であることを告げ、そしてそれでも彼がいいと言った時、初めて考えていいことなのである。

 でも私はたぶん、本当のことを言わないだろう。

 洋平とは何もなくて、いつまでも男の心の中にいい女として住んでいたいから。

 もし歳のことがばれれば、洋平をからかった、あるいはへんな女にひっかかったとして彼の心の中に染みのように残るのではないかと思うのである。

 さくらの家では、年輩の婦人が私たちを待っていた。

「灰谷さんですか、すみませんね、お手数かけて。私の足が悪いものですから」

 と謝り、そして一片のメモを見せた。「御迷惑をおかけついでですけど、買い物に行ってきてもらえませんやろか。さくらさんがメモを書いとかはったさかいに」

 私はそのメモをつかんで、スーパーへ走った。七時閉店の店へ飛び込んで、私はメモに書かれているものを買いあさった。

 日常というのはこんな雑用に裏付けされて成り立っているのか、と思った。

 もう閉店なのにといらいらしている店員の目、欲しいものがどこに陳列されているのかわからず、眼をきょろきょろさせる時のあせり。もう「螢の光」が鳴りだした、篭は荷物でずっしりとし、腕に食い込む。はたして上腕にはくっきりと篭の取っ手の痕がついた。

 両親と暮らしている私には、こういうことは初めてといっていい、母親と買い物に行くことはあっても、時間を気にしながら買うことはほとんどなかった。

 生活というのはこういうことなのか、と私は思った。メモには病院でいるものから明日の食料らしきものが書かれていた。さくらがこんなに手回しがいいとは知らなかった。

 そのメモはボールペンで書かれていた。私は鉛筆でもペンでもない、ボールペンという事実に打ちのめされていた。


 部屋の中はクーラーがきいているが、さぞ外は暑いことだろう。

 子どもたちは夏休みにはいって、この図書館へもたくさんやって来ていた。騒いではいけませんと言い聞かせてはあるが、時々大騒ぎをして館長ににらまれたりしている。

 一応、子ども専用の場所が設けられていて、児童図書はその部屋に集中しているのだが、中には好奇心おうせいな子もいて、本館と呼ばれている部屋へやって来たりする。小学校三、四年生くらいだろうか。男の子が大人に混じって、本棚を見あげているのは悪くない光景である。

 手を伸ばしてても、背伸びをしても届きそうもない本を見上げている少年に、私は洋平とだぶらせてしまう。これが女の子なら鼻もちならないところだが、男の子というのがいい。

 どうしてだろう、と私は考えた。

 大人の本棚を見上げるのは少年だと自然で、少女だといやみに思う。たぶん私はその少女に私自身をだぶらせているのだ。

 こんな仕事に就いているということは、本が嫌いでないからだし、たいした読書歴もないくせに印刷や紙の匂いがすると心躍ることがあるが、それでも本当の好奇心や探求心から頁を繰ることはあまりない。つれづれの暇つぶしか、やりきれなさのはけ口、それが私と本を結びつける。

 そうして、私は空想する。もし私が男の子だったら、宇宙のこととか科学のこととか、何かすごく知りたくなって、でも子どもの本では飽きたらなくて辞典に手を伸ばす。あの太い背表紙の中には何が隠されているのだろう、そんなことが知りたくなって、届きそうもない本に手を伸ばしてみる。

 児童館にはおもしろそうな本や紙芝居もあり、時々館の人がお話大会をしてくれるが、本館も覗いてみたい。

 ああ、きっとそうだ。そんな思いで少年は本館にやってくるのだろう。

 けれども、女の子の場合は多分に背伸びしたいからである。大人の読みそうな本を手にとっている私はどんなに賢そうにみえるだろう、そう思って少女は本館にやってくる。読めない漢字や意味のわからない文章、そんなものをさもわかっているように読んでいる私、かっこいいったらない。

 見栄はりでかわいらしくもなんともない嫌みな存在、私は本館へ来る十歳過ぎの少女に嫌悪を感じていた。しかしそれはかっての私の姿でもあった。

「何、考えてんの。ちゃんと仕事せなあかんでしょう」

 男の声が頭の上でした。

 洋平だった。

 私は慌てて、書類を重ねたり本を動かしたりした。

「ちゃんと仕事してるわよ」

「そうかな、なんか考えてたみたいやったけど」

「今日は何。本の返却ですか」

 わざと他人行儀に尋ね、返却のためのカードを捜す体勢に入った。

「つれないなぁ。この間は結構仲よしやったやん。なんか怒ってるんか」

 洋平は私の顔を覗き込み、こうされると私も弱くなってしまう。つい頬がゆるんで、笑ってしまった。

「やっと笑ってくれた。今日はデートのお誘い。仕事が終わったら夜ご飯でも食べへんかと思って」

「あら、今日はお華の日なの。お稽古ごとをしているからデートはだめやわ」

 そう言いながら私は書類をもう一度、机の上に立てて重ねた。別にしなくてもいいことなのだが、私の動揺を彼に知られたないために。

「残念でした。僕は学生やで、もう夏休みです。曜ちゃんの都合のいい時間に迎えに来るわ。夏休みは僕、バイトだけやし、いくらでも都合つけるで」

 私は何も言えない。悪い気はしないが、いや本心は嬉しいが、でも洋平とこのまま行ってしまっては駄目だという気がしている。

「私、今仕事中なの。他の人の迷惑になるから、また後でね」

 私の声はだんだん小さくなる。心に反したことを口にすると声も小さくなるらしい。

「ああ、嘘つき」

 洋平も小さな声で私に言った。

「仕事中て言うて、紙に絵を描いて遊んでるやん」

 彼は書類の一番上にあった用紙を取り上げた。それは、さっき本館へ入ってきた少年の姿をデッサンしておいたものだった。鉛筆派の私はノートの切れ端にもちょこちょこっとメモのような絵を描くことがある。

 この少年の絵はそれよりも丁寧に描いたがいつでも何か思いつくと、メモやノートに絵を描いていた。

 こんな漫画めいたものを描いていると私は関口加代のことを考えてしまう。加代は高校生の読書離れを防ぐために現代の学生の実態をアンケートして調べたり、高校生より小さい子どもたちを対象にして読書会を開いたりしている。私もこういう仕事をしているから、時々その会へ手伝いに行ったりするのだが、加代みたいに、すべてを図書の世界に自分を打ち込ませることもできないでいた。

 私は加代のようになれない。私はときたま加代の人生をつまみ食いしているだけなのだ。だから私は万年筆は持てない、2Bの鉛筆で絵とも文章ともつかないものを描いているだけ。

 だから、洋平が取り上げた絵は、なんとしてもとり戻さなくてはならなかった。

「あっ、それはあかんて」

 洋平に自分の一番恥ずかしいものを見られてしまった気がした。

「へえっ、これも仕事ですか。いろいろたいへんやね」

 洋平はデッサンを空中にひらひらさせて私を挑発した。

「返して、駄目よ、あかんて」

 からかうようにデッサンを高く持ち上げ、私はそれを取り返そうと立ち上がった。手を伸ばしているうちに、だんだん声が大きくなってしまった。

 いけない、と私は思った。

 館内の人がこちらを見ている。私は姿勢を正すと、洋平をにらんだまま、

「仕事中にそんなことをして私が悪かった。認めます」

と言った。洋平はいたずらっぽく笑って、じゃあデートしてくれると聞いた。私はまだ彼をにらんでいた。

「決定、ほんまのデートの相談をするため、今日仕事が終わったら、予備デートをします」

 小さい声で、それでも宣言するかのように洋平は言った。予備デートというのが、浪人していた洋平の予備校時代の名残のような気がしておかしかった。

「笑った、じゃ決まりやな。何時に終わるの、そのお華というのは。終わるくらいに迎えに来るから教えてよ」

 私は洋平と六時からという約束をした。本当はお華なんか習っていないのである。

 洋平は本も借りずに帰っていった。

 私はさっき描いたデッサンを抱きしめてからもう一度見た。

 私は時々、色鉛筆や水性絵の具を使って、デザイン画というかイラストというかそんな簡単な絵を描いている。最近はこんな幼稚な絵でもコンテストがあったりして、それに応募することもあるが、たいていは部屋の壁に張ったり、時には館内の飾りやお知らせに使ったりするだけである。

 けれども少年のデッサンはお知らせなんかには使いたくなかった。これはもっと色や設定を考えて、何か一つの作品にしたいと思っていた。洋平をほうふつとさせる少年像は、もっと大事に育てていきたかったから。

 私は返却された本をもとの本棚に戻しながら、少年のテーマを考えていた。あの好奇心にかられて本館を覗きにきた少年、届かない本に手を伸ばし、それは宇宙だの科学だのの世界に手を伸ばそうとしているのだろうか。

 でも誰もが科学者や天文学者になれるわけがないのだ。たいていは普通のおじさんになってしまう。

 洋平は少年の頃、どんな夢を持っていたのだろう、どんなことに興味を抱き、何を追いかけていたのだろう。むしょうに洋平に会いたくなってきた。さっき会ったばかりなのに。あんなにつれなくしなければよかった。洋平の子どもの頃はどんなことをしていたのか、聞いてみたい。

 洋平がピザを食べていた時に見せた指の動きを私は思い出していた。あの指を思い出しただけで私の体は熱くなり、胸がどきどきとした。


 夕凪というか、急に風がぱたりと止んだ。アスファルトの上に立っていると、木陰だというのに、汗がじわりと出てくる。そんな中、洋平が走り寄ってきた。

「ごめん、遅くなって。待ったか」

 私は首を振った。

 こんばんは任せて、バイト頑張ってきたからと言った。

 これから洋平と食事をすることになっていた。ということは、また彼の食べる様を見ることができるのだ。洋平の顎、指がどんな風に動くか、それを見ることを私はいつの間にか楽しみにしていたのだった。

「何かご希望、リクエストがありますか」

 洋平はポロシャツにハーフパンツといういでたちで、私に聞いた。洋平のご馳走はどうもフランス料理とかではなさそうだった。

 洋平がご馳走と言った時、少し期待したのだか、しかしそうでなくても別によかった。

 洋平が私をエスコートしてくれたのは中華料理店で、しかも大衆食堂タイプだったが、それでも私は嬉しかった。

 洋平と食べる嬉しさ、彼が私にご馳走してくれると言ったこと。そして洋平が案内してくれる店が嬉しいと思える自分。もし高級な店じゃないと満足できなくなっていたら、こんな心の弾みはなかったはずだから。

 私はどんな店へ連れていかれてもとけ込めるように、ブラウスに明るい花柄のフレアースカートという服を着ていた。バックの中にはイヤリングをいくつか。もし、ありえないことだか、懐石料理なんてことになったら小さな石のイヤリングで、ファーストフードなんて場所なら大ぶりのもの、イミテーションの赤い石が連なったものも入っているから、ある程度は変身する自信はあった。

 これが同じくらいの人間とつき合うのだったら予想はつくのだが、大学生となるとちょっと配慮もいる。

 それでも私はそういう自分を楽しんでいた。なんだか大人になったなと思って。以前の私なら、場違いの服装をして恥ずかしい思いをしたことが何度かあったし、予想がつかない時は出かけるのがおっくうになっていたのだ。

 今は洋平が中華料理店へ連れていっても、少し派手めなイヤリングをしてすまして食べることができる。

 しかし、そこはおいしかった。

「ここ店は汚いけど、味はおいしいんや」

 大皿で運ばれてきた麻婆豆腐や野菜炒め、海老やいかのソース煮、そんなものを洋平はおいしそうに食べた。

 餃子を注文しようとして、顔みしりらしい店員に「いいんですか、きれいな人と一緒なのに」と言われてそれはやめたが、そういうところも好きだなと思った。

「デートやのに、こんなとこ、失礼やったかな」

 それを聞いていた店員に、

「こんなとこで、悪かったですね」

 と言われているのも、いいと思った。

 若いと言えばそれまでだが、洋平の飾りのない様子に人間の質のよさみたいなものを私は感じるのだった。

 軽くビールを飲んだせいか、私の歯止めはなくなってしまっていた。聞かないでおこうと思っていたプライベートなことがらに私は話題を向けていた。

 洋平が二人の姉を持つ末っ子で、しかし両親が経営するスーパーマーケットは姉夫婦が手伝っているということを聞いて、急に接近したと感じるようになった。それで彼は甘えるようなところがあり、それでいて私の気持ちを酌みとるのがうまいのだ。

 だめなのに、と私は胸の奥で考えていた。洋平の生活を少しでも知れば、私は彼の毎日を想像してしまうだろう。そうしたら忘れようと思っても、ひきつった傷痕のように心に痛みとして残ってしまう。

 空が割れるかのような音が鳴り始めた

「始まった、さ、行こう」

 洋平はかけださんばかりに私を引っ張る。今夜は花火大会があって、食事の後は一緒に見る約束だった。打ち上げられている浜辺近くにたくさんの人が集まっているのが、遠くに見えた。

 オレンジ、赤、青。閃光のような火花が散り、腹の底へ音が響く。見物人のため息、歓声。うちわを扇ぐ音までが私の心をせつなくさせた。

 だめなのに、だめなのに。そう言いながら洋平に手をひかれて私も走っている。

 一つの花火が空に映るとそれに重なるように次の花火が打ち上げられた。これでもか、これでもかとばかりに次々に花火が空に散った。白い光がオレンジの光りに変わる時、私はもうたまらなくなって、洋平の腕をつかんでいた。

「すごい、きれいね、すごいね」

 近くで見る花火は本当に頭の上で光り、もう少しで触れるくらいの迫力で迫ってくる。また花火が弾けた。

 私は歓声をあげ、洋平の腕をぎゅっと握った。洋平も私の肩を抱いた。


 帰り道、ゆかた姿の二人連れがそばを歩いていた。

 まだ二十歳くらいだろうか、男も女もゆかたがまだ板についていず、それが何かほほえましかった。

 そんなことを考える私はもうずいぶん生きているという気がした。花火が終わった今、私は冷静になっていた。

「どうしたの、急におとなしくなって。何考えているんや」

「今日の花火、きれいだったと思って」

 私は嘘をついた。

 花火は毎年、きれいになっていく。私が二十歳の頃の花火は、こんなのではなかった。一つ一つの花火が間隔をもって打ち上げられ、それでも私はすといと思ってそれを見たのだ。

 今、二十歳の女の子は重なるように上げられる花火をそういうものだと思って見ているのだ。

 洋平はこの子たちとそう変わりはない。彼の隣を歩くのは私ではなく、前を行く女の子たちの方が普通なのではないか。

 洋平のためというより、私は自分のために今のうちに別れなければと思っていた。さっき洋平の腕にしがみついた私はもういなかった。


 空が透き通るようになっている。青さが薄れて、雲が空にとけ込むようになっていた。

 夏は終わろうとしていた。洋平と花火を見に行ってから、二人で出かけるのは初めてである。私はずっと、洋平に会うのをのばしていた。

 私は少年のデッサンをケント紙に写しかけはじめている。この絵ができる頃、洋平と別れているかもしれないと思いながら。

「曜ちゃんを連れていきたいとこ、あるんや」

と洋平は言っていた。

 私は彼が連れていきたいと考えていた場所に行ったら、歳のことを話そうと決めていた。彼に会えば会うほど洋平に魅せられていく自分が恐かった。洋平と別れる時、冷静でいられるように、ブレーキをかけておく必要があった。

 洋平は白い普通車で私を迎えに来た。私は自分の家から少し離れた市役所の駐車場で彼を待っていた。ティシャツにパーカーを引っかけ、ショートパンツをはいた私は三十二には見えないだろう。けれども今日はそれを話すつもりでいた。

 洋平は自動車のドアを開けながら、にぃっと笑った。

「天気になってよかった」

 日焼けが洋平の肌に定着していて、彼が忙しい夏を過ごしたことを物語っている気がした。

「これ親父の車。僕は学生やし、二浪もしてるから車、買わせてもらえへん。ま、その甲斐性もないのやけど」

 洋平は運転しながら、そう言った。洋平の運転は慣れているふうで、私は安心して乗っていられた。

 洋平が私を連れていきたいと言ったのは、国道三六七号線にある花折れトンネルという場所であった。

「何かあるの」

「いや、ただのトンネル。けどその名前がええやん」

 洋平は高速を飛ばし、大津の街に向かうのだった。

「どんなところやろうと期待していたのに、ただのトンネルやて失礼やわ」

 私は怒ってみせた。洋平とのとぼけたような空気をこわしたくなかった、なによりも自分の歳のことを知らせるという決心の前で私はおびえ、それを隠すために多少ははしゃいでいたのかもしれなかった。

「トンネルに怒ってもしようがない。じつはな、そこに幽霊がぁ」

 洋平もおどけて私の方向を向いて口を開けた。「前、前見て運転してよ」

 笑いながら私は応じたが、二人とも今日はお互いに何かを隠していると思った。

 洋平の言うトンネルは排気ガスで黒くすすけたコンクリートのトンネルだった。車の往来が激しく、そこに止まってトンネルを見るなどということもできそうにない

「ほんまにただのトンネルやったね」

 急に黙ってしまった洋平に私は言った。これから比叡山のドライブウェイにでも行こうということになり、私たちはまた車に乗っている。

 自動車というのは、その空間が二人だけのものだから好まれるのだろうか。でもどちらかが黙ってしまうと、ものすごい重圧になる。

 夏の最後の楽しみを求めて、若者や親子連れが車を走らせていた。私たちもその中に飲み込まれて、ところてんのように押されながら走っていた。

「あんなぁ、さっきの花折れトンネル。ほんまは花折れ峠という名前やったんや」

 洋平が突然口を開いた。

「昔は京都や大阪へ行くのにあの山を越えたんやろう、その一つの峠やったんや」

「きれいな花がたくさん咲くとこやったのかしら」

 私はその名前からロマンチックな想像をした。

 昔話が残っている、と言って洋平が話したのは、ある少女の話だった。昔、花売りの娘たちがこの辺にはたくさんいて、中でもある少女は心ばえが優れていて、みんなから好かれていたそうである。しかし、それを妬む仲間が、ある日娘を川へ突き落とした。少女は死んでしまい、その亡骸が流れる時、川端の花々が折れて見送ったそうだ。

「話によると、花が折れて少女の体をすくい上げて命を救ったというのもあるけど。なんか僕、その話の優しい女の子と曜ちゃんが似ているような気がしてなぁ」

「いややわ、私。そんなに優しくなんかない」

 私は少し赤面した。

「うん、いや、心ばえとかの問題と違って、花折れ峠の話は少女の心の中の問題という気がするんや。うまく言えへんけど、曜ちゃんがまだ少女のところがあって」

 洋平はそこまで言って、言葉を呑んだ。

 子どもっぽいってこと、と私が言いかけた時、洋平のキスがとんできた。運転しながらさっと唇を私に重ねた。一瞬のことだった。

「危ないやん」

 私は怒鳴ったが、たぶん迫力はなかったように思う。

「ごめん、でも僕言いたかった。曜ちゃんに少女の感じがあって、折れてしまいそうで折れない。なんか、そんなところ好きやなぁとずっと思ってた。けど、それを言うのは、花折れ峠の話をしてからと思っていた。ずっと我慢していた。そしたら今日まで延ばすのやもん」

 今度は私が謝る番であった。

「ごめんなさい、でもねでもね」

 それでも私は言えない。三十二なんてもう言えない。洋平がそれを言えなくしてしまったのだ。

「歳のことやろ」

 洋平は私の手を片手で握った。

「わかっているって」

「でも洋平くんが考えているよりずっと上よ」

 洋平は前を向いたまま、まぁええやんかと言った。

「歳のことなんか。僕は曜ちゃんがええんやさかい、しょうがないやん」


「私、ずっと歳上で、今はいいかもしれないけど、でもでも」

 そう言う私の口を洋平は手でおおった。

「遊びと違う、本気なんや」

 それでも私は、でもと言いかけた。

「曜ちゃんは僕のこと嫌いなの」

 私は首を横に振った。なぜだか涙が出てきた。

「やってみよう、二人ならなんとかなる」

 私は洋平の手に触れた。熱くてしっかりした指が私の手をぎゅっと握りしめた。洋平の体温が私の手にじんわりと伝わってきて、私は自分から彼の指を握り返した。

 私たちはカーブの多い道にさしかかっていた。上りの山道で、木々が車にかぶさるように迫ってくる。

「延暦寺へ行ってみる?僕ら修行する必要があるかもしれへんで」

「洋平くん、一人で行ってよ。私は、心の美しい少女がそのまま大人になったような女ですから修行なんかする必要はないわ」

 洋平は大声で笑った。

 私も負けずに笑った。笑いながら私は、帰ったら、どんなスケッチをしようかと考えていた。洋平の横顔、この道の曲がり方。山々の連なり。

 ただ今夜からは鉛筆だけでなく他の道具も使って絵が掛けそうな気がする。コンテもいい、筆に墨を含ませてもおもしろいかもしれない。もう鉛筆だけで絵を描くのはおしまい。うまく描けなくてもいいから、ペンやパスも使ってみよう。油絵の勉強も始めようかな。

 洋平の運転が荒くなった。飛ばすぞ、と彼は叫んでいる。

 車はカーブを曲がり、新しい景色の中に飛び込んだ。

「まだ死にたくない、洋平くん、安全運転してよ」

 私は夢中で叫んでいた。そして彼の腕に自分の腕を巻きつけ、肩に頭をのせ「何でこんなに好きになっちゃったんやろ」とつぶやいた。少し開けた窓から風が私の頬をさっとなでた。いい気持ちだった。


(評)
導入部分では物語の展開に読者の心を惹き付けるが、終章に入ってありきたりの展開で締め括られたのが惜しまれる。小説は終章が最も肝心であることを知って頂いて次作に励んで欲しい。細かい部分も辻褄をきっちり合わすことが必要。


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