入選 親父指南

普光寺町 寺田源三


 春が来るといい事ずくめ、鳥は歌い、花は咲き、人は活動期に入るのである。また、家を訪ね来る人も多い「お客さんが来ているから、ちゃんと挨拶しろ」小学生の頃は人に挨拶て出来るものではないが、恐い父の指図だから仕方がない「上へ揚る時は足を拭け」掟に従わないと、庭箒で頭を叩かれる。昭和ひと桁の頃の履物は藁草履で、遊んで帰る頃は足が泥で真白になっているのであった。

 お客の接待は父は抜群である。気を反らさず相手の調子に合わせる事が大切と言う、父の母親は、言葉丁寧に、淑やかに接待されていたから其の血を受け継いでいるのであろう。茶菓子とか、食事だと料理を執拗に食べる様勧める、また、客を招待する時は、大盤振舞いをして、平素は始末する事を教えた。従って買い物をするにも一理ある、この品物を全部買うから何円にしろ、と言った具合に何かに付けて、押しもある程度なければ世渡りがまずいと言う。そうして父は世渡りが上手か、金廻しが上手で大金も持たないが、無一文もなかった。小遣い稼ぎに野菜を売ったり、八百屋の売出しを手伝い給金を貰っていた。またその金で魚を買って帰り料理して、自分等に食べさせてくれた事は数えきれない。元来は魚捕り名人で趣味と実益を兼ね、釣り、投網等、何でもやっていた。公害のない湖沼の魚は種類も多く、美味であって飽きる事がなかった。父が魚を料理するのは夕方暗くなる頃で、電気の引いていない厠だから電池か、石油ランプを持たされた。その間料理の方法を見覚え時たま包丁を握ってみたが、中々うまく行かなかったことが記憶にある。

 父は酒の下戸で晩酌など見た事がなかった、その変り甘いものや、油濃いものが好きですき焼きなど砂糖をどんどん入れて食べた。翌朝はすき焼きの残りをご飯に掛けて、醍醐味を満喫していた。

 日中事変に従軍し牛、豚、鶏など存分に食べて来たようだ。戦地を中心に転戦しながら歩いた集落等の話を詳しく語ってくれた。だから自分たちも中国に行っている錯覚さえ感じた。中国服を着て、中国帽子をかぶった父の写真も時折見るが髭も立派で凛々しい。鶏の解体も父は上手だったが、自分も見真似で覚えた結果、今ではプロと自負できる程である。立派な体格の父も昭和四十年代、軽い脳梗塞になった。それも高血圧筋で仕方がなく以来もの覚えも悪く、話す事も少くなった。母は変った父の面倒を見るのにより気丈にならなけれはならず大変だったと思う。

 自分たちは厳格な父に躾られた事が今大きく飛躍しているのである。親に教えられる事も数多いが、親を見て知識や技を自然と身につけるのではなかろうか。多い子供を育て一人前にして片付けた昔の親の苦労は計り知れないと思う。何一つ贅沢をせず百姓ひと筋で一家の生計を立てて行った事は立派で、今の若い人達には分からないと思える。

 自分も何時しか親の脳梗塞にかかった年齢に達したようであるが「親父の指南」が働き、川の流れのように自分の体の中を流れ、息子の体の中を流れて行くのが見えるのは確かだ。親として子に言うべき事は、しっかりと言ってやる事が大切で将来、本人の人格形成になる要素を含んでいるのである。今の若者はすぐ反発するがそれを恐れてては何もできない。

 堂々した指南とは、子供に尊敬されるような親に成りきり教え導く事ではなかろうか。幸いにして自分は今、人に信頼される様にまで成長した事を誇りとしている。子供もこのように生きてほしいと願うのである。事実子供も親を、しっかりと見て学んでいる。従って包丁さばきも分からない時、聞きながら自分のものにしている様である。

 父から学んだすべては、金で買う事のできないものであり、一つの財である。自分の身についているものを、強いて上げれば、子供の頃から十分に手伝った農業の技術的な面、見ながらにして会得した世渡り上手なコツ、金廻しのコツ、物の保守保全のコツ、趣味では魚捕り、魚の料理、印象に残るのは、八キロの鯉を捕り解体した事。他の料理も失敗をしながら習うのも楽しい。味付けも匙加減で九分通りでき自慢してもよい。菊作りは父の得意で出展しては多くの賞を受けた。

 自分はまだ駆け出しであるから頑張りたい。西瓜作り、これは十分な指南を受けて来たから及第である。そして社交もまあできていると思う。親父に似て下手なのは金作りで大きな金を儲けた経験がない。金が多ければまた、災いの元になりかねないのでこれで良いとしておこう。「親父指南」に息子が有難く思うのは何時だろうか楽しみである。そんな事を考えていると桜が笑いながら散っていった。


(評)
かつて、父親にきびしく躾られて育った故に身についた人生観、父親の指南に対する感謝の気持がよく表現されている。それを受けつぎ息子に対して精一ぱい生き方を示そうとする作者の真摯な姿勢と心意気に打たれる。文字、段落等、更に勉強を重ねられるように願う。


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