入選 再会
東沼波町 郡田和夫
心待ちにしていた同窓会会員名簿が、先日ようやく私の手許に届いた。昭和二十年三月、大阪の旧制○○中学校を卒業して、五十年の歳月が経つが、やはり気になるのは同期生の消息である。A君やB君は元気でいるだろうか、共に同じ学舎で学び、遊んだ懐かしい数々の思い出が、彷彿として瞼の裏に浮かんだ。
過ぎし時代の残香を嗅ぐように、一枚、一枚、丹念に頁をめくっていった。旧中二十九回生の所で私の手が止まった。懐かしい面々が名を連ねていた。A君の名がすぐ見付かった。元○○高等学校校長と書いてある。彼は四年生で旧制高等学校に合格した優秀な学生であったが、共に机を並べていた誼みで、そんなことは意に介せず、対等の付合いをしていた。彼も偉くなったものだ。だが、B君の名が見当たらない。まさかと思ったが、末尾の物故者欄に彼の名が小さく記されていた。太平洋戦争の末期、私の疎開先に彼が在籍している大学にくるように勧めてくれた手紙が儚くも永遠の別れになろうとは……。彼とは旧交を取り戻したいと思っていたのに、私を待つことなくすでに旅立っていた。
数日後、私はようやく気を取り直して今も健在でいる筈のA君の自宅に電話を入れた。受話器を持った奥さんと一言、二言挨拶を交わしているうちに、察知したのか、彼が受話器を取った。
「やあ、お懐かしい。どないしてはりますか」
大阪弁丸出しのあの懐かしい声が受話器に響いた。声といい、少し間をおいた喋り方といい、昔の彼と向き合っているようであった。簡単に近況を交わした後、同窓会名簿を見て、B君が亡くなっていることを告げると、彼はあまり驚かなかった。遠い昔に忘却した彼の記憶を蘇らせるには、五十年の歳月はあまりにも長かった。それから十日後の日曜日、彼と京都駅で再会することになった。
その日の朝は陽春の日が降りそそぐ快晴の天気であった。私は予定より一時間早く家を出た。彼と再会することへの期待と不安が交錯して、私の胸は高鳴っていた。田園地帯を通り抜け、県境の東山トンネルを越えて、正午過ぎ京都駅に着くと、改札口を出て、帰りの時刻を確かめた後、一旦構外に出て、雑用をすませ、約束の十分前に再び中央改札口の方へ向かった。間もなく彼が改札口の方へやって来た。一見して彼と分かった。顔こそ昔の少年時代というわけにはいかないが、それでも年よりずっと若く見えた。長い間教職に携わっていたせいか、端然とした出立は聖職者としての風格をにじませていた。
「やあ、しばらく。気にはかけとったんや」
歳月を感じさせない彼の第一声に、先づはほっとした。
私の口利きで、近くのレストランに入り軽食を注文した。型通りの挨拶をして、二人が五十年の空白を埋めるのに時間はかからなかった。いつの間にか、何の抵抗もなく、俺、お前という言葉を使って懐古談議に花を咲かせているうちに、一時間以上が瞬く間に過ぎ去った。話が出身校のことに及ぶと、彼は意外なことを私に語り始めた。
「俺はどうもあの学校の出身者としての誇りが持てないんや。今でも同僚に自分の出身校の話をしたことは一度もないよ」
「だってぼくらの同期生は政治家、学者、作家など、多士済々やないか」
「昔はとにかく、今の学校はプロ野球の養成所みたいなもんやんか。この間も学校へ電話で注意してやったんだ」
学校は勉学に励む所という学校教育に対する彼の理念が分からぬではないが、生徒数が年々減少を続ける今日、私立高校が生き延びていくために、スポーツに力を入れていくのも止むを得ない選択の一つだと思った。だが、私は彼と議論するのを避けて、「まあそんなこと言わんと、今度甲子園に出場したら、一緒に観戦に行こうや」舌鉾をかわすと、一転して彼は笑みを浮かべながら、「ウン」と頷いた。その表情には過ぎ去った少年時代の面影が覗いていた。
別れのときが来た。立ち去り難い思いを断ち切るように、彼が私の制止を振り切って、勘定をすませると、レストランの外に出た。
「ありがとう。今日は愉しませて貰ったよ。来年また出会おう。奥さんを大事にな」
と言って彼は私に握手を求めて来た。家内が大病をして入院していたことへの、心遣いを忘れなかった。その真摯な眼差しに、彼の心の優しさを見た。私はあらためて、彼を友人に持ったことに、誇りを感じた。広がる人の波のなかに消えてゆく彼の後姿を見送りながら、同級生最後の友人として、彼がいつまでも健在でいることを祈った。
五十年振りに届いた同窓会名簿を複雑な思いでみつめる作者。旧友A君との再会までの経過、そして再会、別れと感情をおさえて坦々と綴られている。出会の情景、会話などから作者の温かく繊細な心をよみとることができる。文章表記、構成ともによい。 |