入選 珊瑚の玉かんざし

本町一丁目 北村睦子


 たんすの小引き出しに小箱に入った紅赤色の珊瑚の玉かんざしがある。二センチ程の玉に金銀製の脚がついているごく古典的なものである。

 私は時折これを取り出しては眺めている。二十八年前主人のもとに嫁ぐ時、母から貰ったものである。じっと見ているとタイムトンネルを通って様々な思いが甦ってくる。そんな思い出のこもった宝物なのである。

 三方を山に囲まれた北陸の田舎町にある私の実家は、何度か増改築を繰り返しているが、記憶の中では一番古く、竈やつしというものがまだあった頃で、田の字型の間仕切りをした二階の一部屋に桐だんすが置いてあった。それは母が実家に嫁いで来た時に持ってきたものである。そのたんすの観音開きをあけると小引き出しがあり、かんざしはその中の赤いビロードが張られた紙製の小箱に納められていた。

 母が嫁ぐ時持ってきたたんすは他にもあったし、引き出しの中にはべっ甲細工の飾りもあったけれど、何故かこの紅赤色の珊瑚のかんざしが私の幼な心を魅了した。

 小引き出しは上段にあり、幼児であった私は踏台に乗って、当時勝手にたんすを開けると叱られると思い込んでいたので、そおっと引き出しから取り出し、暫く眺めては、頭にかんざしを挿した姿を鏡に映したりしていた。二階に誰も居ない時にこっそり秘密めいた気持で、ちょっと大人になった気分を味わっていたのである。

 昭和二十年代から三十年代中頃までは一部の人たちを除けば、生きるのに精一杯で、満足に食事がとれて、清潔な衣類を身に付けていれば、それで充分な時代であった。そんな時に頭に飾りを付けるということは、子供心にも浮き浮きして楽しかったのであろう。それに当時の子供達の多くがそうであったように、母親は忙しく働いていたので甘える閑も無かった。母親のかんざしを挿していると、母と一緒にいるような気持ちのする貴重な一時だったのかも知れない。

 目に届くはずもない場所にあったものが、そこにあるかをどうして知ったのか、今となっては思い出せないが、何故か忘れられない私の人生の一コマなのである。

 母は当時から田舎にしてはお洒落な人であったから、時代が豊かになるにつれて着物や洋服が増えていき、それにつれて指輪やネックレス等も増えていった。けれども私の記憶ではビロードの小箱が開けられて、かんざしが母の髪に付けられていたのは一度しか目にしなかったように思う。叔父の結婚式が母の実家で行われた時で、もう四十年程前のことである。

 この玉かんざしは嫁ぐ娘のために母方の祖父が揃えてくれたという。祖父は背の高い、子供の目にもなかなかの好男子で姿の美しい人であった。死ぬまで背スジがピンとしていたのを今でもよく覚えている。

 母は時々父に祖父の話をしていたが、明らかに祖父の自慢が滲み出ていた。
「私の父親はよく子供を可愛がり、やさしかった」といった具合である。そんな言葉を父は黙って聞いていた。下手に反論しない方が無難なのは子供心にも何となくわかっていた。今思えば母は多分父親コンプレックスだったのであろう。

 祖父に買ってもらった玉かんざしは母にとっても大切なものであったに違いない。

 私が嫁ぐ前に「このかんざしを欲しい」と頼んだところ、しばらくためらっていたが、嫁入り道具の桐だんすの中に黙って入れてくれた。

 現在同じ様に我が家の二階の部屋にそのたんすが置かれ、上段の引き出しの中に、小箱に入ったかんざしが納められている。三度ばかりこのかんざしが私の髪に飾られたが、祖父や母の姿がちらついて、一緒にいる様な思いにかられた。

 三十年近く月日がたち、小箱は色あせてしまったが、玉かんざしは全く同じ色や形をしている。

 近頃、貴金属は海外貿易が盛んになり、多くの鉱石が輸入され、細工の技術は格段に進歩し、そのあまりの豊富さと美しさはまばゆいばかりである。貴金属にあまり興味のない私だが、父が嫁入り道具としていくつか買い揃えてくれたし、また自分で買ったりもした。しかし玉ばかり大きいが、何の変哲もないこの珊瑚のかんざしは亡くなった祖父、母と私の思い出が詰まっていて他の何物にも代えられない大切な宝物なのである。

 娘が嫁ぐ時、このかんざしが欲しいと言ってきたら、母と同じ様に少しためらいながら手渡すであろう。その時は今までの思い出を話して聞かせようと思うのだが、娘はどのような顔をするのだろうか。淋しさと同時に楽しみでもあるが、何も言ってこないような気がしてならない。


(評)
母から受けついだ思い出の玉かんざしを大切にたんすの引き出しにしまい、時折そっと眺めて母の姿をなつかしむ。自分から娘へ玉かんざしは、どのように伝えられるだろうか。文中に娘さんの姿が、今少し表れていたならば更に深みが出たと思う。表記もよくよみ易い。


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