特選 祭りによせて
大薮町 岩倉喜代子
以前海津大崎の桜見物の途中菅浦に寄り道をしたことがあった。「菅浦文書」と言われる古文書が伝えられるこの集落は淡路島に配流された淳仁天皇が島を脱出されてこの菅浦で里人たちに守られ隠れ住まわれた……との伝承のある所である。
琵琶湖添いに長く、山を背にした静かな里の入口には「四足門」と説明板の立つ古い門と神社があり、境内の桜は丁度満開であった。神社の前扉が開け放たれて神輿が据えてあり、前の小屋には大幟が何枚か並べられ更に祭礼の道具らしい物や衣裳も干されてあった。懐かしい物を見る思いで陽なたに座っている古老らしき人に尋ねると昨日祭りがあったとの事だった。祭りの翌日の静かなこの菅浦も、昨日の祭りには満開の桜の下に大勢の人が集い賑やかだった事だろうと、子供の頃の故郷の祭りと重ねて想像するのだった。
私の故郷の飛騨でも高山祭りを代表として祭りが大変盛んである。神社のある町内には必ず祭りがあり、私の字でも百軒程の氏子が神社を守り毎年春祭りを執り行っていた。同じ雪国でも東北地方は「青森ねぶた」「秋田竿灯」等のように夏や秋の祭りが多いようだが飛騨は春祭りが多い。降り積もった雪が解けて野山が芽吹く春に満開の桜に囲まれての祭りは本当に風情があった。
祭りは先ず一ヶ月前の夜稽古から始まる。大人達の獅子舞、太鼓等、子供は「鶏芸」と称し頭に鳥の羽根を付け黒面をつけて鉦を打ちながら踊る中学生男子。「踊り子」は女の子の着物を着て花笠をかぶって踊る小学生の男子。小・中学生女子は采女と浦安の舞を舞う。神社に近い私の家には稽古の音が聞こえて時々覗きに行っては自分も早く小学生になって采女になりたいと憧れたものだった。その後何度か采女になって晴れがましく舞ったことを思い出す。
祭りの一週間前には町境に大幟が立ちハタハタと風になびく音を聞くと祭りの近いことが実感となり気持ちが弾んだものだ。
祭り当日は、家の玄関先に家紋入りの長提灯が下がる。祭りに出仕する生徒たちは二時間目には無条件に早退できるのも嬉しかった。早退してくるとすぐ社務所で化粧が始まる。白塗の顔のおでこに黒丸が二つ、口紅はおちょぼ型、長い髪の付毛を頭の後ろに下げ、不安定な冠をかぶる。白、赤、紫の着物に緑色の袴をつけて采女が出来上がるのだが、高松塚古墳の壁画の衣裳に何となく似ていると思った。そして、衣裳を付けるとお転婆な少女もしおらしくなるのが不思議だった。
祭りとは、神社の奥深く鎮もる神様を年に一度神輿に乗せて町内を遊覧したり、氏子が舞を見せたりして接待する日……と言うのが氏子の役員をしていた祖父の口ぐせだった。だから獅子舞や采女の舞を奉納し、町外れのお旅所まで行列をつくっての巡行が終わる夕方には「神渡し」のクライマックスとなる。
もっと遊びたいといわれる神様を無理を神社に戻すために鉦、太鼓、獅子等総出で神社前の石段を駆け登ったり下ったり。酒の入った神輿担ぎの千鳥足がヨタヨタと右往左往する有様が如何にも帰りたくないとダダをこねて居られるようで子供心を共感を覚えたことだった。
柳田国男が「祭禮と世間」という大学の講義録の中で「村の人々が祭りを面白い、と表現するがその面白いというのは天磐戸以来の古い言葉である」と言っている。祭りとは正しく神も人も面白くなければならないのである。神社の境内には金魚すくいや綿菓子の店も出て、久し振りに出逢う人との語り合いもまた祭の楽しみでもあり面白いことでもあった。
神渡しが終わり神輿を社殿に納めると次は各家で祭りの宴が始まる。「盆と正月が一緒にきたようだ」と言うが祭りは準備も出費も正にその通りだった。親戚、会社の同僚、更には通りがかった人にまで接待する風習で来客が多いと「今年はいい祭りだ」と父が喜んでいた。家を離れて働いていた私にも年頃になると故郷から縁談が来るようになり、交際中の男性を初めて連れて帰ったのも祭りの日だった。どさくさに紛れて一族に紹介するという作戦だったが故郷からの縁談はその後無くなった。それから三十数年、夫婦で、子供連れで、親しい友人を伴って、と何度故郷の祭りに帰ったことだろう。年々祭り見学に来る人たちの顔に見覚えがなくなり、来客の中に叔父叔母の姿が減ってきた。そして神仏の行事を殊の外大切にしていた父も三年前、祭りから一週間後に長い旅に出ていった。祭りへの郷愁は年と共に切ないものとなっていく。
そして今年も花便りの時期が来て「祭りに帰って来ないか」との誘いがあった。久し振りに帰ってみようか、とほころびはじめた桜を見上げながら考えている。
菅浦に立ち寄ったのは、お祭りがすんだばかりの静かな日、ふと作者の思いは、故郷の祭りへと移っていく。少女の頃過した飛騨の祭りの情景が次第に鮮明に描き出されていく。書き慣れた手法、なめらかな文体にひきこまれて行きよみ易い。文のはじめの菅浦が、文の最後の桜に結びつかないのが惜しい。 |