詩 市民文芸作品入選集
入 選

「苔の匂い」
西今町 谷口 明美

祖母が米を磨(と)ぎ
わたしが顔を洗っていた
川の始まりに向かって
幼い旅をしたことがある
小さな関(からくり)に出あえるだろうと
たったひとりで

木苺(いちご)の茂みや柴(しば)栗林
薇(ぜんまい)谷のぬかるみを抜けた先の
わたしの絵地図が知らない茨坂で
迫る気配とざわめきに
心はおののくのに
足だけが憑(つ)かれたように
川筋の先へ先へと挑んだ
登っても上っても 蛇行するばかりで
容易に辿りつけない試み

行き詰め行き着いた
一漏(る)の陽もない霊境で それが
岩間をちろちろと
滴り落ちる苔の匂いだ と
知ったとき わたしは
ただ 畏ろしいものを見てしまったように
とっさに 往路を駆け下った
逃げても逃げても追ってくる
自分の足音───
求めた思いと戻る道のりの遙かさに
靴先をつめ 顔中で泣きながら

ようやく 見えた人里から
わた菓子のように あたたかで
やわらかい空気が寄せてきて
そこに 父がいて
母がいるだけでよかった

あの滴りは
もう 道沿いの小川にとどいて
老婆の大根を洗っていた


( 評 )
よい素材を得ながらそれを十分に生かし切れないことは惜しい。大袈裟な表情をもつことばには注意してほしい。

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