随筆・評論 市民文芸作品入選集
入 選

ぬかとわら
佐和山町 松本 澄子

 朝六時、玄関の戸をあけると「プン」といがらっぽいもみがらを焼く独特の臭いが、辺り一面に立ちこめている。

 霜月の朝は寒い。白いもやと煙がからみ合い、近くの山も林も淡くかすんで見える。

 土ひとすじに生きてきた年老いた人々には、体が自然にそうさせるのであろうか、秋の収穫が済むと天気の好い日を選んで、もみがらを焼く白い煙が、数本田圃から立ちのぼる様子が見える。いよいよ冬支度である。

 一日がかりでじっくり焼きあがり、黒い光沢をおびたもみがらは、来春の稲の苗作りや、野菜の種まきに、秋には、収穫した里芋などと一緒に厳寒の冬を越す支えにもなる。また、夏の暑いさかりには、酷暑から野菜の命である根を保護する役目も果たす。

 そして、土を掘りおこすときに焼きぬかやわらを土と一緒に鋤(す)きこむことにより、土が優しく肥え、保水力も増し太陽の吸収も働きよりよい土に還元できるのである。

 農家にとって焼きぬかとわらは、貴重な活用資源としか言いようがない。

 私の子供の頃は、父と母が火の気のない納屋で、うす暗いはだか電球を頼りに夜なべをして、冬仕事として働いていた。荒れた素手で一本のわらをも粗末にすることなく、米を納入する「かます」や「てご」をせっせと編んでいた。手ぬぐいで頬かむりをして、かすりもんぺの野良着姿の母を思い出す時、精一杯生きる親の姿を間近に見ながら、子供心に安心とやすらぎを感じていたものである。

 その頃、どこの農家でも貴重な役割を担っていたわらも、機械化が加速した昨今では必要性がなくなってきた。

 竹竿を使いわらを乾燥させる「わらばさ」や、雨を避け丁寧に積み重ねて保存するかやぶき屋根に似た「しょぼね」の風景も、高度な技量を要するだけに、今は、ほとんど見ることがない。遠い時代から脈々と受け継がれてきた先人の知恵が、一つまた一つと消えてゆくのがなんとも寂しい。

 近年では、秋、機械によって刈り込みが済むと、またたく間に一面の田圃は、切りきざまれたわらで枯れ野のようなありさまになる。

 そして、昔のように幾日も人手を要した取り入れ作業は、数時間で仕事が終るという軽作業に変わった。唯一変わらないのは、気象条件に左右されるだけに、収穫を終えた充実感や安堵感は、農業にたずさわる人でなければ味わえない温もりであろう。

 子供の頃、秋の取り入れが終わると生活にも余裕ができ、しかも、家にいることの多い親の顔を見ながら、ほっとしたものである。

 当時、父は旧国鉄に勤めていたが田畑があったお陰で、戦中、戦後の耐乏生活を強いられたいっとき、飢餓(ひも)じい思いをした記憶などは一度もなかった。

 物資の乏しい時代であっただけに、肥料はかますに入った砕けた鯡(にしん)と油かすであった。

 納屋に入った途端、魚独特のくさい臭いが鼻を突いていやであった。

 その頃、農具といえば鋤(すき)と鍬(くわ)、脱穀機くらいであり、それだけに休日の一刻を惜しむように体を酷使していた父であったが、反収は僅かに五、六俵であったように思う。

 湿田以外の田圃は、れんげ草とわらを土と一緒に鋤こむのである。

 春の暖かい風に、左右に首をふって咲く赤と白の小さな花のれんげの田圃は、まるで花園のようで何時間見ていてもあきることはなかった。ご飯は、蛋白な有機肥料のせいかおかずを必要としないほど、おいしく食することができた。それが今日では、化学と技術が進歩して米作りは、比較にならないほどの増収である。しかし、豊作を素直に喜べない現実が悲しい。転作面積は、毎年拡大されこの先どのようにして転作を処理したらよいものかと悩みはつきない。

 昨年の九月、名古屋地方を襲った東海豪雨は、普段、水量の少ない川が氾濫して一瞬に家や田畑をのみこんでしまった。原因は、開発による人災であると新聞は報じていた。

 雨は、時として干天の慈雨になり、降る量によっては、自然に驚異の災害をもたらす。

 幸い、わたしは、田圃の風景に包まれた中で生まれ、土と共に生きてきた。それだけに、これから先々、食糧危機という時代が訪れても即時に田圃に転換できるように、芒(すすき)や雑草の茂る荒廃という醜い姿にだけはしてはならないと思っている。

 二十一世紀の農業は、土壌や水系を汚さない持続可能な環境保全型農業が問われている。

 体力も気力も年々心細くなっていくなかで、どれだけ農を守ることができるかわからないが、食によって支えられている生命、人間が望み、土や環境にも適応する「わらやぬか」の持つごく自然で素朴な味、思い出のなかに生き続けるご飯の味、そんなコメ作りを目ざして今年も励みたいと心に決めている。


( 評 )
農と共に生きてこられた筆者のさまざまな思い出や、将来の農業のあり方についての考え方が綴られている。農業を心から愛する筆者のような方こそ、貴重な存在であると思う。冒頭の数行がとくに感覚的ですがすがしい。

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