随筆・評論 市民文芸作品入選集
入 選

ふたつの天寧寺
高宮町 木村 泰崇

 この冬、妻とふたりで尾道の辺りを旅した。尾道は私にとっても妻にとってもはじめて訪れる町で、旅に出る数日前からまるで子どものように胸踊るものがあった。あこがれの町を潮風を受け旅情に浸りながら歩いているうちに、私は見覚えのあるお寺の名前を目にしたのだった。それは天寧寺、道端に建つ石にその名前がしっかりと刻まれていた。

 ホテルを出て、ロープウェイに乗って千光寺山の頂上まで行こうと歩いていたふたりだったが、瞬時にして呼び止められてしまった私は訳がわからない妻の手を引っ張って天寧寺に向かう石段を登ってしまっていた。山門をくぐり抜け、尾道水道を見下ろす境内に入って、私は思わずあっと息を飲んだ。本堂横に羅漢堂があって、そこにはなんと五百羅漢があるというのである。

 誠に失礼ながらそそくさと本堂で手を合わせ、羅漢堂に急いだ。木の戸を開け、薄暗い堂内に入って、食い入るような目でもって尾道の五百羅漢と対峙した。するとすぐさま妻が私の腕をつかんで「恐い」と言った。うん、わかるよ、そうだろう、そうなんだな、これって、本当に恐いんだよ………私は妻の一言に心の中でそんなふうに答えながら、もうひとつの天寧寺の、もうひとつの五百羅漢との出会いを思い出していた。

 彦根は里根町にある天寧寺の五百羅漢を私がはじめて見たのは、もう十年以上前、私が三十歳になるかならないかの頃だったように思う。あの頃、私は、この世の中というものが、いやというより自分の人生なるものがそうやすやすと簡単に自分のおもいどおりには運ばないものだということを、理屈ではなく体でもって、砂に水が染み込んでいくがごとく感じはじめていた。それは、ひょっとしたら、まわりの人たちよりも随分と時間の遅い了解だったのかもしれないが、とにかく自分自身の力への過信が自分の中で崩れ去っていくような、ひとつの転機の中で毎日あがいていたように思う。

 季節は思い出せないが、ある晴れた日、私はふらりとひとりで訪ねていた。琵琶湖を見下ろす羅漢堂の真ん中に立って、ぐるりと自分を取り囲む五百の羅漢に、羅漢の千の目に見つめられて、私は素直にごく自然に胸の上で手を合わせてしまっていた。あの時、私は五百羅漢に畏怖の念を感じた。ちょうどまだもの心もついかない子どもが夜の闇や燃える火を恐れるように。

 あれから十数年の時が流れて、まさか尾道の地で、まさか同じ天寧寺という名前の寺で、五百羅漢に出会えるとは夢にも思わなかった。

 尾道の天寧寺は室町幕府二代将軍足利義詮が建立した寺であり、彦根の天寧寺は周知の通り井伊直弼の父である井伊直中が自分の過失で手打ちにした腰元と孫の菩提を弔うために建立した寺であり、ふたつの天寧寺を結び付けるものは歴史的に何もない。ふたつは偶然同じ名前であり、偶然同じ五百の羅漢があった。

 それだけの話だ。偶然なのだ。でも、何故かしら気になった。その偶然が、ものすごく気になった。十数年の時間、彦根と尾道、時の流れと場所の違い、その縦糸にも横糸にも、自分の心は引っ掛かっていた。そして、隣にいる妻を横目で見ながら、あの時はまだ自分は独身(ひとり)だったと思った。

 偶然、奇遇、突然、意外、奇跡、いつのまにか、あっという間に………そんな類いの言葉を枕につけて語られる巷の世間話ではないが、それにしても、人生というやつは自分の意志や思いとは別のところでも、実はさまざまなことが次から次へと起こり続けて行くものだと、この頃、私はつくづく思う。偶然の産物を人は一生の間に一体どれだけ受け取るのだろう。幸せはほんのちょっとしたことで不幸せに変わり、絶望は何かがきっかけとなって歓喜にも姿を変える。人も、家族も、社会も、その自らの意志とは無関係に、思わぬ方向へと流れて行くこともある。

 五百羅漢に畏怖を感じてからこの十数年の間の私は、そんなことを、時々ぼんやりと考える。そして、そんな中で、私たちは生きて行くのだと改めて思う。もちろんそれは、ふたつの天寧寺が建立した時代から、ずっとずっと………。


( 評 )
手慣れた文章の運びである。尾道にも天寧寺があって五百羅漢が祀られている驚き。そして、いっぽう、彦根の天寧寺に初めて詣でたときの「自分」。筆者は、このふたつの天寧寺と「人生に対する己の感慨」という糸で繋ぎ合わせようとしているのが、読む側にそれが十分に伝わってこない残念さがある。

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