随筆・評論 市民文芸作品入選集
入 選

母のべそ
平田町 鎌田 淡紅郎

 手元に母からの手紙一通が残っている。いまとなっては、ただ一つの形見のように思われて、棄てきれないでいる。受け取ったのは、私が秋田の北部第十七部隊にいた時であるから、もう五十七年も前のことになった。

 その手紙のひと言が、折にふれてもの哀しく思い出されてくる。

 「船が出る時、敏夫さんがいないので甲板に出て探した。すると、手すりにもたれて、遠くの山並みを眺めている姿を見付けた。声をかけると、くぐもった声でとぎれとぎれに、早く兵隊に行きたい、そうすれば淡紅郎さんにも会えるから、と言った。」

 淡紅郎は長男で、敏夫は六人兄弟の一番下で、小学校二年生であった。この年では、見知らぬ異境の地に移住しなければいけない詳しい事情などわかるはずはない。ただ無性に心細く哀しかったに違いない。

 昭和十八年夏のことであった。

 私は北海道に新設された北部軍教育隊で、下士官になるための教育を受けていた。一家がそろって満州(中国東北)に移住したことを知ったのは、教育が終わって原隊に帰った時のことである。軍隊で外出が許された時、翼を休めに行く家庭が突然奪われてしまって、事情は理解できても、父に怒りを覚えた。

 父は私が進学して東京に出るのと前後して、満州(中国東北)の新京(長春)の中学校に単身で赴任した。進学に伴う家計費の負担を、外地勤務手当で補うことが主な動機になっていたことは、私にも推察できた。百円足らずの月給では、地元の学校ならともかく、東京では後に続く四人の子どもをかかえて家計がもたない。その上、三年後にはすぐ下の弟の進学もひかえていた。

 それに、折角苦労して得た高等教員の免許も、てづるがなくて生かされないのも、新京に新設された建国大学でなら実現できるかも知れないという期待もあったようだ。

 四年間単身で暮らして、いくら催促しても動こうとしない母にしびれをきらし、夏休みを利用して転居させたようだ。

 そんな中での家計のやりくりは、苦労が多いはずであったが、母はそんな素振りはみせたことがなかった。私の学費の仕送りもきちんとしていた。だが後になってあれこれ振り返ってみると、叔母なんかに借金していたようであった。

 ある時は、国鉄工機部の購買部で、炭が安く手に入るということで、六キロはなれた叔母の家に出かけた。十五キロの炭一俵荷って、夕方家に着いた時は台所の上り口にへたりこんでいた。小太りだが、小柄な母にそんな力があったのかと、子供心に不思議な思いをしたことがあった。

 そうかと思うと、神経質で小言の多い父から解放されたようなところも見えた。

 ある時夕食を早めに済ませて、子どもたちに留守をさせ映画をみに行ったこともあった。帰りには罪滅ぼしのように、みんなに鯛焼きを一個ずつ買ってきて、自分も一緒にほおばっていたこともあった。

 そんな楽天的な母でも、生まれ育った秋田を離れることには、不安とも哀しいともいえるやりきれなさがあったに違いない。叔母にはどうしても満州に行きたくないと洩らしていたようだ。

 私への手紙には、敏夫の口を借りて、自分のやりきれなさに堪えて、べそをかいていることをうち明けたと読めてくる。

 そんな母の思いにひたっていると、同じ港から満州にわたった農業開拓移民のことに思いは広がってくる。

 昭和十三年には、分村計画として国の移民政策が進めらられた。日本の零細農家は、満州に行けば広い土地が与えられるという宣伝で、開拓農民として送りこまれた。その数は百五十万人をこえた。まさに民族の大移動である。その上、少年開拓義勇軍として、十四歳以上の少年が八万人以上も送りこまれた。この方は関東軍参謀長の通達で行われているから、単なる農業政策によるものでないことがうかがえる。

 こうして生まれた農業移民の戦後は、残留孤児の問題につながってくる。ロシア軍の攻撃の中での逃亡は、悲惨とも残酷ともいえるが、言葉で表現しきれないものであった。

 更に、満州に住んできた中国人にすれば、自分たちの土地を銃剣で奪われたのであるから、これも言葉で言いつくせない苦難があったに違いない。

 首都とされていた新京に住んで、逃避行もなく恵まれていた母も、日本の土をふむことはできなかった。私の進学は、母の涙の上で成り立ったのだという思いにさせられる。

 そして、その涙は開拓農民たちの民族の大移動の涙にもつながってくる。


( 評 )
母からの「私」あての手紙がこの作品のバックボーンになるのかと思ったが、そうではなかった。筆者自身にはさまざまな思いがあって、そのすべてを書き込みたいのであろうが、やはり出来るだけテーマを絞って書き込むことが大切だと思った。

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