随筆・評論 市民文芸作品入選集
特 選

言の葉に委ねて
松原町 山口 一

 ビデオテープに録画した子供番組を、夜一歳四カ月になる息子と見るのが日課となって久しい。

 息子は熱心なことに、朝の放送夕方の再放送も欠かさず見ているらしく、僕と見るのはその日三回目ということになる。同じものを一日に三度も見て、よく飽きないものだと感心しながら付き合っている。

 番組は三十分。歌や人形劇や体操、それにインドネシアの民族舞踊をモチーフにした簡単な踊りなどが盛り込まれていて、そのテンポのよい構成と内容は、なるほど言葉を話す前の幼児までをも夢中にさせる。

 番組で唄われる歌は、いわゆる童謡や唱歌は少なく、オリジナルなものが多い。覚えやすいメロディと歌詞は健在だが、アレンジは驚くほど現代風で多様化に富んでいる。

 その中に「シアワセ」という題の、僕たち親子揃ってのお気に入りの歌がある。

 その歌詞の内容は「シアワセ」という言葉に初めて触れた子供が「シアワセ」って何だろう、何処にあるのだろうと考えるところから始まる。

 そして、自分にとって思い当たる幸福を次々にあげてゆくのである。

 朝が来た────シアワセ
 空が晴れた────シアワセ
 お弁当────シアワセ
 新しい友達ができた────シアワセ
 おかあさん────シアワセ
 おとうさん────シアワセ

 歌は「シアワセ」はきっと君のそばにあるんだよ、というエンディングをむかえる。

 僕はこの歌を初めて聴いたとき、不覚にも涙が出そうになった。以来、この歌を聴くたびに足ることを知る大切さをあらためて噛みしめるのである。

 テレビに合わせて口ずさむ子供たちは、お母さんが幸福なのか、それともお母さんといっしょにいる自分が幸福なのか、という疑問は抱かないだろう。

 おかあさん─シアワセ

 それこそが感性であり、言霊の力なのだと思う。

 「シアワセ」を聴くと思い出す大好きな一篇の詩がある。

 昭和を代表する抒情詩人三好達治の「雪」という詩だ。

 「雪」は氏の処女詩集「測量船」に収められた、わずか二行の詩である。

 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ
 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ

 僕はこの詩を読むたびに、安心しきった子供の寝顔と、昔話の押し絵に見る綿のような積雪を思い浮べ、まるで太郎自身にでもなったような安らいだ気分になる。

 子供番組の歌と並べて考えるのは失礼かもしれないけれど僕は「シアワセ」にも「雪」にも同じくらい心を揺さぶられる。

 それは「簡単で明瞭」な言葉というものはときに底知れぬ深さを以て人を魅了するからだと思う。

 去年のこと、朝刊のコラムを読んでいて愕然としたことがあった。細かい部分は忘れてしまったが、こういう内容だったと思う。

──三好達治の「雪」を学生に読ませたところ、約一割の生徒が「眠らせ」の部分を「殺して」と解釈した──。

 コラムの筆者はテレビドラマやゲームの影響だろうかと憂いでいたが、俄にはその内容が信じられなかった僕は、何度もそのコラムを読み返した。

 やがて読み違いなどではないことがわかるにつれて、当初の苦笑いは消え、かわりに背筋にかるい寒気さえ覚えた。

 人の生活において、文学的な感性の有り様がそれほど大きな影響を与えるとは思わないけれど、感性の枯渇がもたらすものが、人間的な情緒までもを奪い去ってしまうとしたらそれはやはり恐いことだと思う。

 一割という数字が多いのか少ないのかはわからない。そのうちのいくつかは、設問を深読みしたための誤答にすぎないのかもしれないとも思う。

 言葉の意味を、観念ではなくある種の直感によって感じ取ることを、特殊な能力にしてしまってはならない。子供のころは皆「シアワセ」のような歌を、きっと笑顔で口ずさんでいたのだから。

 僕を狼狽え怯えさせたのは、若者たちの想起した残虐な光景ではなく、むしろその心に付いた乾いた傷跡だったのかもしれない。

 そう考えると、現在、社会が大人たちが全力でもって早急になさねばならないことも同時に見えてくるような気がする。


( 評 )
「感性」のみずみずしさを大切にしたいとの筆者の思いに心から同感する。良質とはいえないテレビやマンガが氾濫し、そのため詩や文章を通じて豊かな想像を広げるという力を失いつつあるのが現代の若者の悲しい現実だ。具体的な二つの例を引いて、要領よく纏められた一文である。

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