或る怠惰の風景 知らず知らずの間に、自分が最もつまらない人生を歩んできたことに気付いている人間は、世界にどれ位いるのだろう? ―かくいう僕も、その一人だ。 あんなに苦労して、地元の某大学を卒業したにもかかわらず―現在は、無職の身。 今、僕は実家の一室に引き篭っている。 その辺りの住宅街を見渡せば、何処にでもありそうな、木造の一戸建て。その二階の、西向きの小部屋が、僕の棲息領域である。 現在、この家では、両親と僕の三人が暮らしている。 哲学者の父は、とっくに定年退職し、今は書斎で研究書の執筆に専念している。廊下で顔を合わすたびに、僕の引き篭り生活をなじる父だか、僕に云わせれば、父だって立派な引き篭り生活者だ。僕は、夕方の散歩以外、父が外出している姿を殆ど見たことがないのである。 もっとも、同じ《引き篭り》でも、学者だの芸術家だのといったお偉いさんの「それ」と、僕みたいな《ぷぅ太郎》の「それ」とでは、やはり、雲泥の差があるだろう。それが、世間の価値観というものだ。 * ―暗鬱な惰気に充ちた一室であった。 無論、それは居住者の精神的惰性の故であろう。 窓は西向きではあるが、別段、採光が悪いわけでもないし、カビが生えているわけでもない。 にもかかわらず、この部屋のイメージといえば―ジメジメとした、陰湿なものしか感じられない。ナメクジでも這っていそうな雰囲気である。 そういえば、大学を卒業後、本格的に引き篭るようになってから三年になるが、年々、歩ける余地が少なくなっているような気がする。 そう、この部屋の陰鬱なイメージは、本棚に入り切らず、床に蓄積されるようになった漫画や雑誌、ビデオテープの類が喚起しているのであろう。 ちなみに、両親は、もう三年以上、この部屋に足を踏み入れてはいない。 * 年末に向け、家中がバタバタと忙しくなり始めたある日―遂に、母親が、僕にある種の引導を渡した。 その封書は、僕の部屋の扉の中央に、セロハンテープで貼られていた。僕がそれに気付いたのは、近所のコンビニから帰ってきたときのことである。 自宅から歩いて三分のコンビニは、ここ数年、僕の唯一の外出先であった。 大学を卒業後、僕はすっかり外出恐怖症に陥っていた。街中で擦れ違う他者の眼が、酷く気になるのである。 特に、ご近所の住人と擦れ違う時などは、劣等感と自己嫌悪の融解液に、胸中を焼かれる思いがするほどだ。 ―いい歳して、平日の昼間に何ブラブラうろついているんだ? 顔見知りと外で遭遇するたびに、僕は、そんな言外のメッセージを受け取ってしまうのだった。 勿論、それが単なる被害妄想であることは解っている。そもそも、自分が、自分で思っているほど他者の視線を浴びているわけでもないことだって、ちゃんと理解している。 そう、理解してはいるのだが―駄目なものは、やはり駄目だ。 かくして、僕は引き篭る。 別に、巷の流行を追っているわけではないことだけは、信じて欲しい。 そんな僕に業を煮やした母親が、僕に渡した引導―それは、一枚の《請求書》であった。 それは、A4サイズのワーブロ用紙に印字されていた。母親が、パソコンを使って自分で製作したものであろう。 今後、我が家のぷぅ太郎様に対し、毎月、以下の金額を請求します。 * 思えば、数年前、母親にワープロソフトの使い方を教えたのは、他ならぬ僕であった。恩を仇で返すとは、まさにこのことだ。 「ちっ……最近は、調子いいみたいだな」 自室の扉の前で、僕は思わず独り言を漏らした。 母親は、僕が幼い頃、胃の手術を受けて以来、重度の躁鬱病を患うようになった。周期的に、躁と欝の波が、交互にやってくるのである。 シューマンなどの音楽家の場合、躁期には旺盛な創作意欲を示したそうだが、うちの母親の場合、僕に対する小言が圧倒的に増えるばかりである。いや、小言というよりは、罵詈雑言と形容したほうがよろしい。 しかも、大抵の場合、躁期の母の憤懣は、周囲のあちこちに飛び火する。 鬱のときの方が、よっぽど静かで良いんだが―などど、いつか父親が零していたのが、酷く印象的であった。 そう、鬱のときの母親は、人が変わったように大人しくなる。普段は威勢の良い声音など、怪談の幽霊さながらに細くなるのだ。もっとも、不必要なくらいに「ごめんなさい」を連発するので、これはこれで嫌だ。 それにしても―困った。 実家に住むことの最大の利点は、やはり、家賃や食費を節約できることである。親の小言さえ我慢すれば、これはこれで気楽なものだ。 無論、親からすれば、廃品回収の業者にすら引き取ってもらえぬ、厄介な荷物を抱えているに等しい。とりあえず、"生命"という防腐処理を施された"生ゴミ"といったところだろうか? それとも棄てれば回収費を徴収されてしまうので、棄てるに棄てられぬ"粗大ゴミ"といったところだろうか? ちなみに、うちの両親は、明らかに「人間の存在意義は生産性である」と、確信しているような人種である。 先日、母は云った。 「あんたが生産しとるもんっていったら、洗濯物くらいやわ」 もっともである。 まさしく、躁期の絶頂期に相応しい、痛烈な一言であった。 ちなみに、母親が僕の自室の扉に何かを貼り付けるのは、何も今回が初めてではない。 躁期の母は、険悪度も大幅に上昇するため、思わず眉を顰めたくなるような置き土産に遭遇することも、しばしばであった。 その最たる例が、通称・『ダンボール・レポート』である。 母は、新聞や週刊誌にホームレスの取材記事が掲載されるたびに、それを切り抜いて、僕の部屋の扉に貼り付けていく。とんでもない悪癖である。 毎回毎回、扉に張られた灰色の紙切れは、都会の悲惨なホームレス事情を報じている。 母親の意図は、明瞭だ。 ―さっさと就職せんと、あんたもいずれこうなるんやで! と、息子を脅迫しているのである。 人間、年齢を重ねると、角が取れて丸くなるか、性悪になるかのどちらかだが―明らかに、母は後者である。 ちなみに、父の方は、意外にも前者に当てはまる。 戦前生まれの父は、それはそれは厳格な人である。今でも、僕にとって、父は畏敬の対象である。いわゆる《父性》が喪失しつつある昨今、僕の父のような存在は、きっと絶滅寸前の天然記念物であろう。 そんな父だが、最近は、意外に丸いのである。昔の父なら、僕の《引き篭り》を絶対に赦しはしなかっただろう。 もっとも、単に著述活動が忙しくて、愚息に構っている暇がないだけなのかもしれないが……。 * 「母ちゃん!母ちゃん!」 階段を駆け下りるなり、僕は母の姿を探した。が、閑散としたリビングに、母の姿はない。だが、気配はする。何処からともなく、ゴソゴソと、誰かが蠢く気配―。 そのとき、母はトイレ掃除をしていた。 「なあ……これは、何の冗談や?」 ドアの脇で僕が訊ねると、母はぴかぴかの便器に映る自分の相貌を、様々な角度から眺めつつ、 「冗談ちゃうよ、それ」 素気なく、答えた。 僕は、唖然としたまま、その場に立ち尽くした。 「……つまり、息子から生活費を徴収するってことか?」 「そや。これから毎月、しっかり払ってもらうからな」 「……つまり、この僕にバイトせえってことか?」 母は雑巾で便器の外縁を磨きつつ、冷淡に答えた。 「就職せえってことや。とにかく、この家に住む以上、きっちりと払うもんは払ってもらうから」 * 困った。 本当に、困った。 毎月―五万円? 地元の銀行に就職した友人ですら、「手取りなんて十万にも満たない」と嘆いている昨今―ぷぅ太郎の僕に、毎月五万を払えというのか? 無論、ワンルームマンションで独り暮らしをすることと比べれば、遥かに安いのも事実である。両親としては、せめてもの慈悲のつもりなのだろう。 もっとも、今の僕に必要なのは、慈悲ではなく、金なのである。 一応、僕名義の口座に、三万五千円ほど残っていた筈だ。 あと―一万五千円。 請求書を受け取った翌日―僕は金策のため、姉の住むマンションを訪れた。 姉は、駅から徒歩五分、僕の家からは自転車で十五分ほどの、高級マンションに住んでいる。 玄関で僕を出迎えたのは、今年で三歳になる姪―木乃葉ちゃんだった。 「ママーッ!ぷぅちゃん来たよぉ!」 また、その呼び名か―。 僕は情けない気分で一杯になった。 ぷぅちゃん―姪は僕のことを決まってそう呼ぶ。以前、姉が余計なことを吹き込んだ所為だ。 「こういう奴のことをね、世聞では《ぷぅ太郎》って云うのよ」 それ以来、木乃葉は、僕のことをぷぅちゃんと呼称するようになってしまった。 本当は、「お兄ちゃん」と呼んでほしかった。何故なら、僕は末っ子だからだ。 だが、現実は―これである。 僕は、木乃葉ちゃんと一緒にリビングのソファを占領するなり、姉に訊ねた。 「あれ?義兄さんは?」 「仕事に決まってるでしょ?今日、何曜日だと思ってるの?」 紅茶を淹れる姉の声は、辛辣であると同時に、何処か澱んだ重力を感じさせた。 「……土曜ちゃうんか?」 「火曜日よ」 「はは……」 思わず、僕は微苦笑を漏らした。 * 大学及び大学院を都会で過ごした姉は、とっくの昔に関西弁を口にしなくなっていた。 今でこそ、平凡な中年主婦にしか見えないが、姉は薬学の博士号を取得している。その辺の主婦とは、明らかに一線を画しているのだ。 数年前、見合い話を持ちかけた母親に対して、姉はこう云い放ったそうだ。 「私より学歴の低い男なんて、相手にならないわ」 そう―分野こそ違えど、姉は、学者である父親の血を、しっかりと受け継いでいるのだ。一人娘が大きくなれば、また、何処かの研究所に再就職するつもりであろう。 さて―。 姉が淹れた紅茶を飲み干し、木乃葉ちゃんとTVゲームに興じつつ、僕は模索する。 ―如何にして姉から現金を引き出すか? 無論、歯の浮くようなお世辞が通用する女ではない。かと云って、ストレートに懇願しても、相手にされないのは目に見えている。 そもそも、姉は昔から、低学歴の僕を疎んじている節がある。下手な頼み方をすればざまぁみろと嘲笑され兼ねない。 「ねえ、ぷぅちゃんの番だよ?」 突然、姪に袖を引かれ、僕は我に返った。透き通った瞳が、不満げに僕を見上げている。 「ああ、ごめんな」 そうだ、今はゴルフゲームの真っ最中だった。僕は、慌ててコントローラーのボタンを押す。 画面上―キャラクターが、クラブを大きく振り被り、ショットを放つ。 だが、ボールはバンカーに落ちてしまい、プレイヤーを揶揄するような音楽が鳴り響く。木乃葉ちゃんが、「ぷぅちゃん、下手くそぉ」と、笑い転げる。 * 木乃葉ちゃんが、遊び疲れて眠りに落ちた頃―既に、外は薄闇に閉ざされようとしていた。 「もうこんな時間か。ほな、帰るわ」 コートを羽織った僕に、夕食の準備を始めた姉が、キッチンから声をかけてきた。 「……で、結局あんた、うちに何しに来たのよ?」 僕は、適当に言葉を濁した。 「―いや、単に木乃葉ちゃんと遊びたかっただけやって」 「…………」 姉は、何も答えなかった。僕も、それ以上、言葉を連ねたりはしなかった。 玄関先で、不意に姉が云った。 「ねえ、あんたの人生ってさ……まるで蚊取り線香だね」 「はあ?何云って―」 わけが解らず、問い返そうとした僕の鼻先で、厚い扉が閉ざされた。 僕は、首を捻りつつ、エレベーターに向かって歩き出した。 姉夫婦の部屋は、エレベーターとは反対方向の角部屋なので、各室の扉が立ち並ぶ通路を、延々と歩かねばならない。 その途中―間の悪いことに、仕事帰りの義兄に出くわした。 「やあ、久し振り」 研究所に勤める義兄は、およそ杜会人とは云い難い服装をしている。一言で云えば、田舎の学生風。勤め先では、実験三昧の日々を送っているため、綺麗なスーツなど不要なのである 「あ、どうも」 僕は、とりあえず会釈する。 「そうそう、聞いたよ。お母さんに請求書を突きつけられたんだって?」 「……っ!」 僕は、眼を瞠った。義兄は、ただただ、苦笑を浮かべている。 「昨日、お母さんの方から、うちに電話があってね……近いうちに、君がうちを訪れるかもしれないけど、絶対にお小遺いをあげたら駄目だって……」 なるほど―すべてお見通しというわけか……さすがは我が母。躁期においては、頭の冴えも尋常ではない。 「はは……そうでしたか」 何とか平静を装いつつ、答える。 「最近は、木乃葉の養育費も莫迦にならないからねえ、さすがに五万円も援助するのは無理だけど……」 そう云うと、義兄は、財布から一万円札を一枚取り出し、僕の手に握らせた。 「目標額の五分の一だけどね」 僕は有り難く礼を云い、頂戴することにする。これで、目標額まであと五千円。義兄の慈悲に、心から感謝する。 「それじゃあ、また。そうそう、木乃葉の奴、君のこと結構気に入ってるみたいだから、また遊んでやってくれ」 「はあ……」 万札を右手に、僕は義兄の背を見送った。 それにしても―本当に、僕は姪に気に入られているのだろうか?単に、莫迦にされているだけのような気もするが……。 いやいや、ここは前向きに考えよう。そう、被害妄想は、僕の悪い癖だ。 とりあえずは、あの暗鬱な惰気に充ちた一室に戻ることにしようじゃないか。 * 翌朝、自室で新聞を読んでいると、いわゆるフリーターには、およそ三つの区分が存在するという記事に出くわした。 (1)無目的タイプ (2)やむを得ずタイプ (3)夢追いタイプ (1)と(3)は、別段珍しい存在ではないのだか、不況の昨今、(2)のタイプが急増しているらしい。 無論、僕などは(1)に該当する。就職したくてもできない(2)でも、芸術家や俳優などを目指している(3)でもない。 もっとも、それ以前に、僕はフリーターですらないことを、改めて痛感する。 そう―僕は、無職無収入の"ぷぅ"なのだから……。 と、突然―ノックも無しに、扉が開いた。 母が、戸口で仁王立ちしている。その形相もまた、仁王のようであった。 「ちょっと!昨日、お姉ちゃんのマンションに行ったんやって?」 「げ……もう聞いたんか!」 「まったく!どういうつもりや?」 「別に。木乃葉ちゃんの遊び相手をしたっただけや。姉ちゃんに、金くれなんて一言も云ってへんし」 「とにかくっ!真面目に働くんや!今のままやったら、本当にホームレスになってまうで!……ったく、ダンボール被って冬の夜を過ごす勇気も無い癖に!」 痛烈な罵倒を飛ばすや、荒々しく扉を閉めた。まるで颶風だ。 「はあ……」 自然と、溜め息が漏れる。椅子の背凭れに背を預け、背を反らす。 灰色にくすんだ天井が、視界を埋めた。 「なんか……嫌や」 まるで、自分の人生が、ある起点を境に間違ってしまったという感覚。 少なくとも、子供の頃は、こんな感覚とは無縁だった。 ―お前は、橋の下で拾われた子なんや。 そんな他愛のない冗談に、笑っていられた時代が、こんな僕にもあった。 確かに、あったのだ。 だか、もし今― 「実は、お前は本当に捨て子やったんや」 などと、両親に告白されたとしたら― 僕は、意外に冷静に受け入れることができるかもしれない。 どう考えても、僕の存在は、高学歴の親族ばかりの中において、異様なまでに浮いている。 いっそ、自分が本当に橋の下で拾われた子供だと考えた方が、気分的にはよほど楽なのではあるまいか? もし、僕を棄てた実の親とやらがこの世に存在しているのであれば―僕は、迷わずそいつ等を捜す旅に出てやろう。それは、無目的人生からの脱出を意味する。 そして、運良く再会を果たせたときは、こう叫んでやるのだ。 「まったく―慰謝料払え!とりあえず、毎月五万円で赦したる!」 * 翌日、母はボランティア活動のため、朝早くから外出した。父は、例によって、書斎に篭っている。 虚ろな気分で自室の天井をぼぅっと眺めていた僕は、突然、呼び鈴の音で我に返った。 木枯らしを避けるように、玄関に飛び込んできたのは、姉と姪だった。 「ねえ、ちょっと悪いんだけど……これからあたし美容院行くからさ……この子、暫く預かってくれない?」 僕は、少々うんざりとなった。既に三十半ばを過ぎたインテリ女だが、意外にお酒落なところがあるのだ。 「幾らで?」 「………時給千円でどう?」 「了解」 即答した。 姉のことだ。大方、駅前のカリスマ美容師とやらの店に行くに決まっている。 無論、こんな片田舎のカリスマなどたかが知れてはいるが、いつも満員御礼であることに変わりはない。どんなに早くとも、三時間から五時間は要する筈だ。 つまり、もし木乃葉ちゃんを五時間以上預かることができれば、目標額の五万円に到達できるのだ―。 「じゃあ、木乃葉、いい子にしてるのよ?」 姉は、木乃葉ちゃんの頭を撫でると、嬉々として玄関を飛び出した。 * 生憎、この家に木乃葉ちゃんの好奇心を充たす玩具などは無かった。運悪く、子供向けのテレビ番組も、この時間帯は放映されていない。 「……ねえ、ぷぅちゃん。外で遊ぼ」 木乃葉ちゃんは、先程から、頻りに僕を促してくる。 「外かあ?外は、めっちゃ寒いで?」 外出恐怖症の僕は、とりあえず、無駄な抵抗を試みる。 「ええ?寒くないよう」 まじまじと、僕を見上げる木乃葉ちゃん。 これ以上渋ると泣かれそうなので、不承不承、僕は重たい腰を上げた。 書斎には、父が居る。万一、木乃葉ちゃんの泣き声が書斎に届いたりしたら……僕が大目玉を食らってしまう。 まあ、平日のこの時間帯なら、知人に遭遇することもあるまい。 「ほな、行こか」 僕がそう云うと、花が咲くように、木乃葉ちゃんは笑った。 * 最近の子供は、TVゲーム三昧かと思いきや、木乃葉嬢は、砂場で楽しげに遊んでいる。何やら、城のような建築物を築いているらしい。 僕は、砂場の脇のベンチに腰を下ろし、煙草に火を点けた。 木枯らしが、僕が吐き出した煙を、あっという間に浚っていく。 ―寒い。 腹が立つほどに風通しの良い、近所の児童公園。遊具といえば、ブランコ、ジャングルジム、滑り台、そして砂場―それだけであった。 「なあ、木乃葉ちゃん……これから、ゲーセンにでも行かへんか?ゲーム、好きなんやろ?」 さりげなく、僕は訊ねた。 「いや!これ造るから、ぷぅちゃんも手伝って!」 生憎、木乃葉嬢は、まったく寒さを感じないらしい。キティちゃん柄のトレーナーに、デニムのキュロットスカート―そんな薄着で、どうして寒くないのだろう? 「はあ……子供は風の子、か」 僕は、吸殻を足元に放り棄て、踵で踏み潰した。 「ん?」 ふと、僕は、足元に妙な感触を覚えた。踵が、ベンチの下に存在する異物に触れたのである。 「これは…………」 僕は、その異物を膝の上に引き上げた。 それは、ぺしゃんこに折り畳まれたダンボール箱であった。全部で、四箱ある。この公園では、よく町内の行事が行われるので、そのときに生じたゴミの類だろうか? 不意に、母の罵倒が脳裏に甦った。 ―ダンボール被って冬の夜を過ごす勇気も無い癖に! 「……ふん。やったろやないか」 僕は、ダンボールを地面に敷き、即席の寝床を作る。 と、いつの間にか、木乃葉ちゃんが興味津々といった眼差しで、僕を見ている。 「ぷぅちゃーん?何してるの?」 「寝る場所を作っとるんや」 「ぷぅちゃん、ここで寝るの?」 「そや」 「じゃあ、一緒に寝ようよ」 「……別にええけど」 僕と木乃葉ちゃんは、一緒に横になり、ダンボール箱にくるまる。 ダンボールには、布団のような柔軟性がないので、なかなか身体に馴染んではくれなかった。まるで、ベニヤ板を抱いているような気がした。 それに、酷く背中が痛い。殆ど地面に寝ているのと大差ないのだから、当然といえば当然である。しかも、公園に敷き詰められた砂利の感触が、ダンボール越しとはいえ、否応無く背中に突き刺さる。 「わあ、おもしろーい」 だが、意外に木乃葉ちゃんは、御満悦のようだ。子供の感性とは、かくも不思議なものである。 暫くの間、木乃葉ちやんはゴソゴソと蠢いていたが、やがて―俯せのまま、眠ってしまった。 ふっくらとした頬を、折り重ねた両腕の上に乗せ、すやすやと寝息をたてる木乃葉嬢。 「……寝たら死ぬで?」 生憎、僕の冗談は、木枯らしに吹き飛ばされてしまった。 * もし、今の僕にとって最も迷惑な現象を一つ挙げよと云われれば―僕は、迷わずこう答えるだろう。 ―それは、僕がこの世界に「生まれた」ことである、と。 そう、人生二十五年を経た今―僕は、はっきりと気付いている。 「生まれる」とは、要するに、この《人間牧場》という檻の中に放り込まれることなのだと。 そこでは、徹底的な弱肉強食制度が敷かれており、弱者は強者の許で搾取された挙句、朽ち果てるのみである。 どんなに強者に憧れたところで、選ばれし者はほんの僅か―庶民にとっては、「自分以外の者にはなれない」という絶対の真理が、絶対の足枷となる世界。 「あ―そういうことか」 不意に、その"答"が胸中に舞い降りた。 ―あんたの人生ってさ……まるで蚊取り線香だね。 自分以外の者にはなれないが故に、人は、常時自己研鑽に励まねばならない。 だが、僕は―若いうちに、それを怠ってしまった。今や、二十五歳を過ぎて何の資格も特技も持たない僕。 そう、僕は―蚊取り線香的な人生を歩んできた。 ぐるぐると、内に向かって回り続ける蚊取り線香。 自分の軌道によって、到達点を幾重にも閉じ込めてしまう、あの形状。 気付いたときには、もう、何処にも逃げ場は無い。 そして、最後には―灰と化し、ぽろりと落ちてしまう。 そう、僕は―蚊取り線香なんだ。 * 陽射しが傾き始めた頃―文字通り、僕は叩き起こされた。他ならぬ、木乃葉ちゃんの繊手によって。 「ほら、ぷぅちゃん、起きて!」 「……わっ!僕まで寝てしもたんか!」 慌てて跳ね起きようとした。だが、ダンボールが顎につかえて、上手く起き上がれない。 四苦八苦した挙句、漸く、僕は立ち上がった。足腰が、軋むように痛い。 途端、僕はくしゃみを連発した。どうやら、僕にはホームレスの適性など皆無らしい。 まだ、夜にもなっていないというのに、この寒さ―とてもじゃないが、僕などに耐えられるとは思えなかった。 そんな僕を笑いながら、木乃葉ちゃんが云った。 「楽しかったね、ダンボールごっこ」 「はは……」 厳密には、《ダンボールごっこ》ではなく、《過酷なホームレスごっこ》なのだが。 「また、やろうね」 無邪気な視線が、僕を見上げる。笑いながら、僕は適当に頷いた。もう二度とゴメンだと、内心で呟きながら。 「ほな、そろそろ帰ろか」 「うん!」 木乃葉ちゃんの温かい手を取って、僕は歩き出した。 腕時計を見ると、姉が木乃葉ちゃんを僕に預けてから、約五時間経過している。 とりあえず、今月は―僕の勝利だ。 * 帰途―僕は、ふと思った。 僕自身の「生」は、確かに迷惑な現象である―少なくとも、当事者の僕にとっては。 だが、木乃葉ちゃんはどうだろう? この、ぷよぷよとした温かい手。 この、一切の穢れを知らぬ、無垢な笑顔。 こうして同じ時を共有しているだけで、ほんわかとした気分にさせてくれる三歳児。 思えば、本当に残酷な世界だと思う。 こんな僕と木乃葉ちゃんが―同じ生命存在だなんて。 存在しているだけで疎まれる僕。 存在しているだけで喜ばれる姪。 こんなにも違うのに―。 「なあ、木乃葉ちゃん」 不意に、僕は歩道の片隅で立ち止まった。 「なぁに?」 「一つだけ、約束してくれへん?」 冷たい風が、木乃葉ちゃんの前髪を揺らす。 「なぁに?」 「君は。蚊取り線香みたいに、内側に向かって回ったらあかん。君は―どんなときでも外側に向かって、まっすぐ突き進むんや」 「……よくわかんない」 木乃葉ちゃんが、口を尖らせる。 「ええんや。いつか、解るときが来るから。ま、要するに―"ぷぅちゃん"にはなったらあかんっちゅうことや」 諭すように言葉を紡ぎつつ、僕は徴苦笑を漏らした。すると、木乃葉ちゃんの顔が、ぱっと輝いた。 「あ、それなら解るよ。だって、いつもお母さんに云われてるもん」 自慢げに、胸を逸らす木乃葉嬢。 「はは……」 寒風が吹き降ろし、裸の街路樹の枝を揺さぶる。 まったく、酷い姉貴である。 この僕が、可愛い姪に唯一教えられる教訓をすら、実に呆気無く奪い去ってしまったのだから―。 【了】 |