軍医のミス 久米軍医見習士官は、こんな苦しみを覚えたのが、始めてであった。とても堪えられないと思った。自分の預かっている傷病兵の安楽死を命令されたのだ。 その日もいつものように朝早く三人の負傷兵の手当をした。日が上ると、いつロッキードやグラマン戦闘機の襲撃があるかわからない。手当といっても、傷口をリバノール液をつけたガーゼでふいて、包帯をかえるぐらいしかできない。その包帯も何度も下の沢の水で水洗いするだけであるから、色も変わってよれよれになっている。 見習士官ではまだ一人前の軍医とはいえないが、部隊に配属されたただ一人の医師である。 患者は軍医の幕舎のすぐ側で、三枚の天幕を結び合わせて収容されている。床には枯草を敷いてあるだけで、その上に横になっている。陸軍でいう仮包帯所にすぎない。 戦争が終る年の五月下旬、フィリッピンの一番北にあって、一番大きい島ルソン島の北部山岳地帯のことである。 首都マニラから中部の平原地帯を通って北に進むと、急に山岳地帯につきあたる。つづら折の急な道を千メートルほど登ると、そこに夏の首都バギオがある。 そこには、フィリッピン作戦の全体を指揮する第十四方面軍司令部があった。そして野戦病院もあって、前線からの負傷兵を受け入れて治療をしていた。 四月中旬になって、バギオは米軍によって攻略され、野戦病院は司令部と共に撤退して、傷病兵を受け入れる機能を失った。前線の部隊にとって負傷兵は久米軍医が預かった患者のような扱いしかできなくなっていたのだ。 軍医が自分の幕舎にもどると部隊長の伝令がきて、すぐ来るようにと命令が伝えられた。はて診察か薬か、といぶかりながら幕舎をでた。部隊長から呼びだしをうけるのは珍しいことである。 部隊長は、天幕を敷いただけの上にあぐらで座ったまま命令を伝えた。 「兵団司令部からの命令はもう伝えられてるはずだが、明日日が暮れたら、ボンドック道三十キロの地点まで撤退することになった。足をやられてる者の移動は、どう考えても無理だ。残しておけば結果ははっきりしている。かわいそうだが、薬で楽にしてやってくれ」 軍医は一瞬とまどった。予測してきたこととは違うし、部隊長の口調も、命令というより頼むというようにも受けとれる。胸がつまる思いになりながらも外に適切な手段は思いつかない。 しかし、軍隊では命令に正面から抵抗できない。 「はい、分かりました。その時は誰か将校一人立ってほしいと思うのですが」 ちょっと考えて 「私は、手の負傷で治療にきている中村少尉がよいと思うのですが」 「よかろう」 軍医は敬礼をして部隊長のもとを去った。人の命を救う、人の命を産みだす、それが自分の生きる道だと、熊本医大産婦人科講師になったのだ。それが軍医になると、戦場では薬を使って安楽死させる任務が与えられるようになる。そんな悪魔のようなことはとても堪えられない。でも、命令となれば……。 いくら考えても、気持の整理ができないまま、少尉のところに向かった。少尉は右手の親指と人差し指を残して、第二関節から指をとばしてしまう負傷をしているため、第二線の陣地に配備されているから近い。毎日治療にきているから気心も知っている。やりきれない気持をぶっつけられる頼もしい相手という気持にもなっていた。 戦場にいて、銃や軍刀も全く使えない身体になっているのに泣きごとをきいたことがない。そんな豪気なところに、自分にない強さを感じていたため、部隊長のところでとっさに頭に浮かんだのであった。 負傷した時のことは治療の合間の雑談で聞いていた。少尉は元船舶工兵で、米軍がリンガエン湾上作戦をおこなった時、その湾にある北サンフェルナンド港にいて、爆弾の破片創を負ったのであった。リンガエン湾は、緒戦で日本軍が上陸した地であった。応急手当の後、トラックでバギオの野戦病院に送られた。病院が撤退する時、治ったわけではないが退院させられて、この部隊に配属になった。負傷して四か月以上もたっているのに、まだ傷にはウジが湧いて軍医の世話になっているのだ。 手術した時は麻酔なしで、不覚にも気を失ったというが、不覚にもという言葉に少尉らしさがみえる。昔の武士が『不覚をとった』と自らを責めている趣があった。 丘を一つ越えて、少尉のいる陣地近くまでいくと、砲撃の音がひびいてきた。土煙が上って数秒たつと爆発音がする。一度に三発で、少し間をおいてまた三発と休みなく撃っている。味方陣地からの発射音は全くない。迫撃砲のようだ。米軍の総攻撃が迫っているようだ。 軍医が部隊長の命令のことを話すと、少し間をおいて、立会人となることを承知した。外に方法はないと考えたのであろう。 「で、いつ」 「今日の夕方。日が落ちる少し前と思っています」 「分かりました。誰が考えてもそういうことになるでしょう」 あっさり承知してもらった安心感から、軍医は少し口が軽くなった。 「部隊長には、久しぶりにお会いしたためか、かなりやつれているようでした」 「そりゃあそうでしょう。精神的に限界にきているのでしよう。緒戦のリンガエン湾では二十日足らずで、子飼いの部下九割も失ってしまったのですから。その後もナギリアン道に移って、我われのような寄せ集めの兵隊を与えられ、頭数はそろえたが、そこでも散ざん叩かれたときいています。五か月も第一線におかれたら、責任者は頭がおかしくなっても不思議ではないでしょう。それに我われと同じように甘藷と野草しか食べてませんから」 「つい余計なことを言ってしまいました」 少尉と別れた時は、日が高くなっていた。丘を越えようとした時、南の方からロッキードの鋭い金属音が耳をついた。三機だ。 木の繁みの中に身をひそめて、その動きを目で追っていると、道路を二度旋回した後、急降下して爆撃をはじめた。二十一キロ地点の兵団司令部の谷間のようだ。ロッキードが去ると、何事もなかったように、周りの山並は静まりかえった。 爆撃の合間には、赤トンボと呼んでいる日本の練習機と同じような鈍い音で、観測機がとんでくることがある。日本軍がひそんでいる陣地に「落下傘ニュース」や宣伝ビラを撤いていく。投降勧告ビラもあった。始めのころは、上の方から謀略だから拾ってはいけない、と命令までだされたが、いまではその命令もなくなった。 兵士たちは目の前の戦況しかみえないから、情報に飢えて自分たちの運命と考え合わせながらよく読んだ。中にはポケットにしまいこむ者もいた。 戦場ではデマが多い。敗勢にある時は、希望的観測や空想から生まれる。 「これから東海岸にでて、そこに迎えにくる潜水艦で日本に帰る」 ガダルカナル島の撤退作戦で、ここの病院に送られてきた傷病兵から生まれた妄想のようだ。 「いまに日本軍の総反攻作戦があって、ルソン島逆上陸作戦がある。その時は、内陸と海岸からの挟撃作戦で米軍をやっつける」 下級将校でも、デマ話は変わりなかった。 軍医も同じような思いでいたが、いまは目の前に重い命令があって、あれこれ考えたり、迷っている余地はない。 さて薬は何を使うか、手持ちの薬を頭に浮かべながら考えた。薬も、いまになっては極端に少ない。負傷兵の手術も麻酔抜きだ。この島で最も患者の多いマラリヤや赤痢の薬も全くなくなった。 やはりモルヒネにするかと決心した。極量はどのくらいであったか、注射なら三十ミリのはずだが。それも健康状態によって随分違うことがある。負傷して横になっているだけだし、食物も甘藷と野草だけで、栄養状態も極端に悪い。少し減らしてもよいだろう。 それに、この薬は少し残しておいた方がよいだろう。部隊長が負傷した時の痛みどめ。そればかりではない。自分も使わなければいけないところに追い込まれるかもしれない。あれこれ考えると、迷路に入ってしまう。 何よりも、人の命を助ける医師が、自らの手で人の命を奪ってよいものだろうか。悶々としながら、日が落ちてくるころには腹を決めた。 ここの戦場では、それも医師の任務になっているのだ。薬の投与量は二十ミリに決めた。 負傷兵は三人。一人は大腿部貫通銃創だが、骨に異状はないようだ。傷は少しずつ快方に向っている。他には踵に小銃弾をうけ、骨も傷んでいるのが一人と、足の甲を砲弾の破片で削りとられたのが一人である。見た目には、元気そうにしているが、痛みはひどく、側を通るだけで「痛い、痛い」を連発する。地面の振動が傷にひびくような気がするのだろう。 日がすっかり傾いて、谷間には夕暮れの色が濃くなってきた。少尉もやっときて軍医は薬の錠剤を手にした。 患者たちは、こんな時刻になぜ来たのだろうといった表情で見つめた。しかも将校までついている。 「痛み止めだ」と一言いって、一人に二十ミリずつ手渡した。薬を渡すだけなら、衛生兵でよいのにと思ったのか、やはり怪訝な表情である。それに痛み止めの薬はほとんど貰ったことがない。それでも軍医の否も応もない態度に安心したのか、三人とも薬を口にした。 翌朝早く、少尉の来るのを待って、患者の幕舎をのぞきに行った。一瞬どきっとしたが、すぐ事情はのみこめた。 三人とも目をぱっちり開いて、痛い方の足を横に投げだすようにし、上半身を起こしていた。大腿部負傷の高島一等がにっこりほほ笑んで言った。 「お陰さまで、夕ベは痛みがなくて、よく眠れました。本当にありがとうございます」 「おう、それはよかったな」 とまどいながら、軍医も笑みを返した。少尉の顔をみると、ちょっと目くばせをしている。この善後策を相談したいのであろう。二人は軍医の幕舎にもどった。 「薬の量が足りなかったようですね」 「どうしましょう、私にはもうできそうもありません」 「やはりもうできませんね。部隊長には、中村に確認してもらったと報告して下さい」 少尉の決断は早かった。軍医の気持ちを察して、自分の責任のようにして、事を処理しようとしているのだ。軍医は、少尉に救われたような気持になった。 しかし、命令違反ということで軍法会議にかけられ、処分ということにならないだろうか。そんな心配はずっと残っていく。撤退のどさくさの中で、部隊長の頭から負傷兵のことは抜けてしまってくれるとよいが。 それだけに、少尉の度胸と決断は頼りになった。太い眉、カ強い目付き、ひきしまった口元。その顔つきは、いかにも男っぽい。女性的面持ちで、学究肌といわれてきた軍医にとって救いの神になったのだ。 撤退する時は、できるだけの食料を残してやって下さいと頼んで、少尉は三人のところに行った。 「後続の部隊がくるから、その時まで頑張るんだ。決して命を粗末にするな。いいか」 そのように激励して去っていった。残される三人の気持を察して、撤退が近いことをにおわせたようだ。 この後も、軍医は残された者の運命について、どうなるのかという思いにとりつかれた。自分が手がけてきた患者なのだ。そしてそのことは、これからの自分の身の上にも予測されることでもある。 『自死』が、残置負傷兵の多くがとる道だ。戦闘の始めのころは、手榴弾の自爆が多かった。信管を抜いて、胸に抱いているだけでよい。その間、六、七秒のことで簡単で確実だが、今では手榴弾は使い果して、持ってる者はいない。では小銃か。銃口をのどに当てて、足の親指で引き金をひくという方法もきいている。 もう一つの道は投降だ。西欧では、十分戦ったら、投降は決して恥辱ではないと聞いているが、日本軍は違う。強い心理的鎖にしばられている。軍人精神からは遠い教育をうけてきた自分でも、そのくびきの強さから逃れられないでいる。 『戦陣訓』の「生きて虜囚の辱を受けず」の上、「常に郷党家門の面目を思う」と、二重にし ばりをかけられている。 その上、いつ、どこで、どんな状況の時、と想像してみても、至難のことに思われる。手を上げて出ても、銃を構えて気が高ぶっている敵兵が、すんなりと受け入れてくれるだろうか。 何よりも、これまで一緒にいる戦友を裏切ることになる。裏切り。これは堪えられないことだ。誰でも卑怯者にはなりたくない。投降はやはり大きい賭博だ。 軍医はそのことを確かめるような気持で、前に拾ってポケットに入れておいた「落下傘ニュース」と宣伝ビラを取り出した。 これは、三月ごろにいたバギオから西海岸に下るナギリアン道の陣地でよく撒かれた。ここでも時どき撒かれるが、回数は減っている。兵士たちは先を争うように拾った。 ニュースは新聞形式で、発行は米軍マニラ司令部となっている。首都マニラは、既に米軍の手に落ちていることを示している。 第一号は三月十三日付で、一面の見出しで「B29連続猛爆-東京・名古屋」とある。嘘ではあるまい。欧州ではドイツ軍が追いつめられて、敗戦の近いことも出ている。 第四号では、「比島作戦・残存目本軍を撃滅へ」として、日本軍はもう敗残兵扱いだ。そうしてみると、私たちの命運は終末が間近に迫っていることになる。 この陣地にきてからのニュースには、「ひどい医療手当-傷病兵に自決命令」として、私たちのことまで書かれている。ルソン島では、どこの戦場でも同じことのようだ。 単独のビラには「米軍のもとに来たら、生命は保障する。負傷した者は病院に入れて、十分手当をする。食事は満腹できるだけ与える」と、繰り返し強調している。その上、投降する時の心得まで、具体的に指示している。日本軍兵士の誇りを傷つけないように、言葉使いにも心くばりが見えるのは、心憎いほどだ。では日本軍はどうであったか。軍医が陸軍病院で研修をうけていた時、中国の戦線から後送されてきた患者が、捕虜はまとめて処分したと、その実状を話していた。中には斬殺の写真を隠し持っている者も知っている。 では撤退を明日に控えて傷病兵はどうするか。軍医には確信のある道は見えてこなかった。そして、辿りついた道は、次のようにしか考えられない、と思いなおした。 「これまでは、軍律でがんじがらめにされて進むも退くも、自分の意志ではなかった。どの道を行くにしても、全く自由に自分で決める余地が与えられたのだ」 その日の夕方近くになって、少尉のところから二十本ばかりの甘藷と塩少しが届いた。少尉らしい思いやりだ。 日の落ちるのを待って、軍医は五人の衛生兵を指揮して部隊本部の後に続いて移動を始めた。 ボンドック道は、バギオと山岳地帯の中央にある町ボンドックを結ぶ幹線道路だ。米国の植民地であっただけに、舗装された立派な道路だが、そこから側にそれると、獣道のような踏み固めた道しかない。 その道路は至るところ破壊されていた。工兵隊が爆破したのだ。谷間にかかると、道は消えて深く谷問に落ちこんでいる。薄明りの中での歩行は一歩誤ると谷底にころげ落ちそうだ。 衛生兵たちは、薬品の入った行李をかついでいる者もいる。崩れた崖に手をかけながら、横ずさりにゆっくり進んだ。 道路の破壊は、米軍の戦車と車輌の進撃を阻むのが目的だ。しかし、そのことを裏返していえば、日本軍には、もはや戦車や車輌はおろか、荷車さえもないことを示している。 斬込隊に出された兵士の話では、道路上で響くキタビラの音は、戦車ではなくて、ブルトーザーの音だったということである。シャベルとツルハシの手仕事からは、想像できない早さで復旧して当然だ。 道が平地になっているところに出ると、側の権木の繁みや草むらの中から、よく訴えるような声で呼びかけられる。 「水を下さい。少しでよいから飲ませて下さい」 マラリヤか赤痢で落伍した兵士だ。ズボンを下ろしている者は、たいてい赤痢だ。軍医は脇目に見ながら、身を切るような思いで、通りすぎるしかなかった。 その上、あの臭が流れてくる。屍臭だがもう馴れてしまった。先にこの道を行った部隊の落伍兵であろう。まさに「草むす屍」である。 軍医はこんな時に、戦争の惨めさが最も強く身にしみた。 こんな中で撤退するこの部隊こそ、敗残兵だ。日本の新聞は中国戦線の報道で、よくこの言葉を使った。米軍のニュースでは、この言葉をさけている。軍医には、そんなことにも、戦争に向かう日本軍と米軍の姿勢に、大きな違いのあるのを感じた。 この後、部隊は三十キロ地点から三十九キロ地点と、戦いを続けながら撤退した。 五十六キロ地点で幹線道路を放棄し、アグノ渓谷をへて、大きな山に入った。プログ山である。次第に戦線を縮少しながら、七月下旬になった。終戦を迎えたのはこの山であった。 最初に戦争が終わったことを知ったのは、やはり米軍のビラであった。中には、「将校は白旗をかかげ、部下を引率して米軍に投降せよ」とあった。振り返ってみると、連日、迫撃砲の射撃をうけていたのだが、その日からはピタッと止んだ。定期便のように、頭上を通っていたにぶい草色の輸送機も、まったく見えなくなった。 九月上旬、部隊と一緒に軍医も米軍に投降した。これまで命をかけて対峙していた米軍の兵士たちは、銃を構えることもなく、思い思いの姿勢で迎えたのは、軍医の目に奇妙に映った。威圧したり威張るような空気は全くなかった。野球の試合が終わって、相手チームと向き合うような雰囲気なのだ。 これまで辿ってきた道を逆に進んで、ボンドック道五十六キロの地点に上った。米軍の警戒兵は、数十人の日本兵に一人の割合で呑気そうに銃を下げて一緒に歩いた。その軍服は、戦塵にまみれたふうもなく、こざっぱりしていたのは軍医には不思議にみえた。 道路上には既にトラックが待っており、すぐ南下した。途中の破壊された道は、どこが破壊されたか気付かないほど復旧していた。五か月もかけて、戦いながら撤退した道は、二時間ほどでバギオに着いて、仮収容所に入れられた。この道は、日本軍の司令部の予測では、行軍させられるはずであった。 そこから、更にトラック、無蓋貨車、またトラックと乗りついで、夕方にはマニラ南方の収容所についた。 その時のことである。 荒れた原っぱに下ろされた。すぐに米軍の作業服をきた二人の日本人に迎えられた。終戦前の先輩捕虜らしい。ズボンにはPWとペンキで書いてある。近くには深い穴が掘ってあり、持ち物や、身につけている衣服は、総てその中に棄てるよう指示された。この先輩は、米さん米さんと言って、すべて米軍からの指示だということを強調していた。 間もなく、草色の作業服、毛布などが、雑然と運びこまれた。 軍医が作業服を着ていると、横の方から突然声をかけられた。 「久米軍医殿ではありませんか」 顔を見たが、見覚えがあるような、ないような。誰か分からなかった。 「足の負傷でお世話になりました。高島一等兵です」 そう言われても半信半疑だった。軍医の頭の中では、あの負傷兵は鬼籍に入っている。過去の人として頭の中では整理されている。 軍医の怪訝そうな顔を見て、また言った。 「このキャンプで通訳をしております。送られてきた名簿に、軍医殿の名前があったので来ました」 通訳ときいて、やっと思いだした。そういえば、高島は軍隊の前は、外務省に勤務していたのだった。 「生き残ってこられて何よりでした」 そう言って、大形のチョコレートニ枚手渡した。 「何か困ったことがあったら、相談にきて下さい。向こうの丘の上にあるキャンプの事務室にいます」 夕日に向かって去っていく後ろ姿には、大腿部貫通のあとは全くみえない、軽やかな足どりであった。 |