ほんこさん 近年、五木寛之氏の随筆本がベストセラーになっている。私もそのうちの何冊かを読んだのだが、親鸞聖人・蓮如上人といった名前が度々書かれていて、懐かしいような、ホットするような気持ちになった。親鸞聖人は浄土真宗の開祖である。一方蓮如上人は浄土真宗中興の祖といわれ、北陸に真宗王国を築き、朝夕仏壇に手を合わせて正信偈を唱えるというお勤め形式を信者の間に定着させた人である。 私の生まれ育った郷里に「ほんこさん」というちょっと珍しい宗教行事があった。秋の農作物の収穫が終わり、年の瀬の準備をする前、十一月下旬頃から十二月中旬までに各家々で親類・近所の人達を招いて毎年執り行われていた。これが「報恩講」という親鸞聖人の恩に報いるための法会であると知ったのは後のことであった。 実家では一年中で一番忙しい十一月の恵比寿講の大売出しが終わると、ほんこさんの準備を始めた。仏具のお磨き・障子の張り替え・家の掃除。客用の膳・湯飲み・座布団・火鉢等を揃えていく。料理の手配もする。 当日は朝から隣近所や親戚の女の人達に来てもらっていた。各部屋の襖や障子が取り払われ大きな広間となった。一段高い仏間には四枚戸の観音開きになった仏壇が安置され、中にはお灯明・ろうそくが灯され、仏花やお供え物で華やいでいた。その前には赤い綸子の大きな座布団が敷かれおり、家のお祭りのようだった。 願い寺のご縁さんによる読経が始まり、年寄りから幼児まで一緒に正信偈を唱和するのだ。私は足の痺れを我慢しながら早く終わらないかと思っていた。 我ャサキ、人ヤサキ、ケフトモシラズ、アストモシラズ……サレバ朝ニハ紅顔アリテ、ユウベニハ白骨トナレル身ナリ。 これは『御文章』の中に書かれている一節だが、ほとんど理解できなかったお経の中でここだけは納得した。いまだにふと口にすることがある。 勤行がすむとお膳が運ばれ夜の会食となる。子供たちは大人に混じって膳の上に箸・猪口・椀等を並べて行く。料理は親鸞聖人が好物だったという小豆と南瓜の和え物、年によっては南京が里芋になったりしていた。他に白和え・きんぴら牛蒡・赤蕪の酢の物・味噌汁。中でも変わっているのが「お平」といっておよそ十センチ四方で、厚さ三センチ程の生厚揚げである。この食事が終わる頃にほんこさんはお開きとなる。 末席ではあったけれども大人たちと同様に客用座布団に坐り、同じお膳で同じ物を食べるということは一人前に扱われたようで誇らしい気分だった。仏の前では全ての人間はみな平等であり、仲間であるということなのだろう。何軒か御呼ばれや手伝いに行ったりしたが、膳・椀・献立等は家格や貧富の差に関係なく、だいたい同じようなものであった。 しかし昭和三十年中頃になり、日本が経済成長し始めた頃から人々は忙しくなり、一カ月程の間に何軒もの家へ行くことは時間的に難しくなった。準備の大変さに加えて新しい食材が食卓に上り、決まりきった精進料理に魅力を感じなくなったのも一因であろう。この行事は次第にすたれていった。現在では人を呼ぶこともなくなり、お寺さんにお経を上げてもらっているだけだという。やめてしまったところも多いと聞いている。戦後は物資も乏しく、経済的にも苦しい状況であったろうが、戦時中に一時中断していた報恩講を、何はさておいても再開したにもかかわらず、高度成長という大きな波に呑み込まれてしまった。 自分なりに「ほんこさん」とはどのようなものであったかを考えてみると、読経の間に部屋を抜け出して、従兄弟達とトランプ等で遊んだりしたことは、日頃疎遠にしていた絆を深めることができて楽しい思い出である。郷土料理の作り方を自然と覚え、人前での行儀作法を学ぶことができた。幅広い年齢層との出会いでもあった。宗教行事でありながら社会教育の場であり、家庭教育の場であった。こういった報恩講を民衆の間に広めたのも蓮如上人である。 現在、子供や若者達がこれほど多様性のある行事に参加することは無いのではないか。近年、考えられないような凶悪な事件が起きている。もし、ほんこさんのような地域全体の助け合い的行事があれば、その幾らかでも防げたのではないだろうか。しかし同じような報恩講をするように頼まれたとしたら断るであろう。一家の主婦としてそれを取り仕切る労力と気苦労は並大抵のことではないのだ。他の多くの奥さん方も同様だろうと思う。何かこの矛盾を解決する良い方法は無いものだろうか。 |