食は命なり 夏の田舎の朝は早い。 朝食の後片づけを済ませ、洗濯物を干す。 朝の一通りの役目を終へて、ほどよい疲労を覚えた後の一杯のコーヒーは、気分を落ち着かせ一日の元気を貰う。 朝の涼しい間にと西瓜や南瓜等の夏やさいの後始末に畑に出掛ける。 しるしばかりのほんのしめりの夕立が二回あったが、ここ二週間は降雨はない。 白く乾ききった土・大地の恵みを充分に吸い込んだ無数の太い根っ子。 そんな酷暑にも雑草は、沢山の種をつけている。強靱な生命力は、執拗に子孫を残すことに懸命である。 二宮尊徳の言葉に 「百草の根も木も枝も花も実も、種よりいでて種となるまで」 とあるが、種の大切さ必要性を忠実に守っているのであろうか・・・・・・ 四方八方に深く根を下ろした雑草は、揮身の力でひっぱってもびくともしない。まるで草と綱引きしているようだ。鎌で根を切ろうとしても、深い亀裂の出来た硬い畑の土は、鎌もよせつけず、根元からひきちぎれてしまう。鎌を使うたびに土埃が辺りに舞う。 拭いても拭いても汗は流れる。頭と顔をおおっている手拭いが、汗でびしょびしょでプーンと汗臭い。慣れた畑仕事とは云え、炎天下での草むしりはきびしい! 毎年、七・八月の夏やさい作りには、猛暑と日照続きで、四苦八苦の日々であったが、今年は、そんな自然を相手にほんの少しの工夫をした。 苗を植えつける畝の面積を通常の三倍の大きさにとり、深い畝の土の中には、保水力のあるぬかやわらを多めに埋めこんだ。根を保護する敷わらも、普段より多めに敷いたので連日の猛暑も根には届かなかったようだ。 年令に関係なく脳は、使う程、高性能になるとは過日の新聞記事であるが、挑む気持は時間と知恵ですんなりと解決してくれた。 お陰で畑の南瓜の葉は、幾重にも重なり繁って小山ができ、一本の苗から数十個の見事な実をつけ、畑に出掛けるのが娯しみの日課となった。 沢山の夏やさいを作り出し、大仕事を終えた畑は、冬どりのやさいの播種までの二週間は、ゆっくり土を休ませ鶏糞やこぬか、敷わらを細かく切り刻んで土になじませ、土の酸度調整も済ませ、豊かな土にと表情を変える。 化学肥料を使わないので空気まで新鮮に感じる。太陽の恵みは、次の新しい作物へのチャレンジを生む。 今、店頭に並んでいるやさい達は、出荷の前進傾向が多く、本来の味を忘れた品物が多いが、やはり旬の命あるやさいの味は格別である。たっぷりと有機肥料で育った西瓜や南瓜は、沢山の人々によろこびと娯しみを届けることができ、舌を満たせたようだ。 私には、更なる仂く意欲と活力を全身に貰う。 「農と食」への意識が、年々低下しつつある今日の表われであろう。田舎でも開発食品の種類もぐーんと増え、都会生活が浸透し今ほど安全、安心な食糧を問われることはないだろう。 食糧が健康をむしばんでいる現実、そして、生物の存亡にかかわりを持つ生命の営みであるだけに、農の果たす役目と責任は重大であろう。 木枯らしが吹き寒さに当ると冬やさいは、特に甘味を増しおいしい! 収穫を終えた新米は、ふっくらと柔らかくたきあがり、純白の真珠のように輝き、一口食むとご飯のもつほどよい甘みと香ばしい薫りが、口の中一ぱいにじんわりと広がる。 そして、里芋と白かぶらと油あげの味噌汁。 柔らかいかぶらを舌の上にのせると、とろけるような舌ざわりは、いつまでも口の中に含んでいたいようで咽に送るのもいとおしい。 口の中を充分によろこばせ、五臓六腑にも染みわたるおいしさである。 食材は、裏の畑で調理寸前に収穫しただけに、野菜の旨味は格別である。正に究極の味噌汁である。 生産者、農家しか味わうことのできない幸せ、ぜいたくであろう。食事が、娯しければ人生も幸せである。 江戸時代の人生の指導者、水野南北氏の 「食は命なり」 の言葉を深く心にきざみ、これからも農をたのしみ、「安全と味」にこだわりながらやさい作りに励み、舌をもっともっとよろこばせご飯を娯しみたいと思う。 |