随筆・評論 市民文芸作品入選集
特 選

周防路の一年生
大藪町 角 省三

 停留所には、来た道を引き返すはずのバスが時間調整をしながら、ブルンブルンとゆっくりとしたエンヂン音を響かせて止まっていた。
 バスに乗り込むとほかには乗客も無く、乗降口の近くの席に座った私は、どこからともなく漂ってくる瀬戸内海の潮の香りを嗅いだり、すぐ前に拝観してきたばかりの雪舟の作と伝えられる枯山水庭園のことを、ぼんやりと思い浮かべたりしていた。
 朝、山口市の常栄寺をスタートし、電車やバスに乗り替え乗り継ぎしてやって来たここ光市の普賢寺は、この日の三ヶ所目となる訪問地で、少し疲れも出ていたのであろうか、どうやらうつらうつらと居眠りでもしていたらしい。突然耳もとに聞こえてきた、
「オネガイシマース」
「おねがいしまーす」
 というキンキンとした黄色い声に驚いて、思わず我に返った。
 見ると、いかにも小学校一年生と思われる男の子や女の子達が、ランドセルを背負ってバスに乗り込んで来たのである。そして、それぞれが発する「オネガイシマース」という声は、バスの運転手に向けての乗車する時のご挨拶であることがわかった。
 生徒達をよく見ると、みんな同じ背丈で可愛らしく、左胸に名札をつけ、肩には、「交通安全」の肩章と、そしてランドセルには黄色のカバーがかけてある。どうやら小学校は岬の突端に近いこのすぐ近くにあって、学年別の下校の時間にぶっつかったということであるらしい。
 「オネガイシマース」「おねがいしまーす」の声はそのあとも途切れることなく続き、車内はほゞ満席となってしまった。私の隣りの空席にも男の子を一人座らせてあげたが、その子がきちんとした会釈をしてから腰をおろしたことにも驚かされた。生徒達につき添って来た先生らしい男性は、生徒達が二人掛けの座席に三人ずつ座るのを確認し、それを見届けた後にすぐ戻って行った様子である。
 運転手に挨拶をする、座席の三人掛けを当り前のように嬉嬉として受け入れる、そして見知らぬ人にもごく自然体で会釈が出来る、この今どき信じられないお行儀の良い光景に出くわした私は、さわやかでそして何となく満たされた気分に浸っていた。
 しかしながらそこは一年生、生徒達はおしゃべりの方もなかなか活発で、大声で友達の名前を呼び合ったりして騒がしく、その黄色い声と明るい笑顔を満載にしたバスは、間もなく山陽本線光駅に向けて走り出した。
 そして次に、もっと信じられないことが目の前に展開されたのである。発車したバスが三つ目だったかの停留所に止まった時のこと。そのあたりは住宅街になっていて、市街地に買物にでも出掛けるのであろうか、主婦など大人が六〜七名バスに乗り込んできた。するとどうだろう。座っていた一年生達は、我れ先にと立ち上がって、
「ドウゾ、ドウゾ」
「どうぞ、どうぞ」
 と、自分達が座っていた席をその人達に譲ろうとするのである。一人二人が立ち上がったのではない。その「ドウゾ」「どうぞ」という黄色い声は、後部座席の方からも、運転席に近い前の方の席からも、そして私の隣りの男の子の口からも、まるで蝉が一斉に啼き出して合唱が始まったかのように聞こえ、私はその声の渦の中に巻き込まれて、唖然として一人取り残された感じをおぼえたものである。
 いつも同じバスに乗り合わせている乗客もいたのであろう、席を譲られた大人達は、ニガ笑いともつかない、それでも優しい笑顔を生徒達に向けながら、そうしないでは納まらない状況の中で席についていた。
 途中で降りて行った隣り座席の男の子は、窓から眺めていた私に向かって「バイバイ」と手を振り、小さな身体に不均合いなほどの大きなランドセルを上下にゆすりながら、急ぎ足で駆け出して行った。そのうしろ姿に、ふと、六月に大阪府池田市で起きた惨烈極まりない学童殺傷事件のことが頭の中をよぎった。
 ニューヨークでの同時多発テロなど、殺伐とした事件に明け暮れようとしている新世紀の一年目。私は今世紀の先行きにやりきれない思いをつのらせていた。
 禅僧にして画聖といわれた雪舟等揚、その雪舟の築造とされる庭園を観て、心和む思いをして乗り合わせたバス。その車中で図らずもめぐり合った学童達と、彼等によって繰り広げられた心暖まるドラマ。それは、何でもない小さな出来ごとであったのかもしれない。が、私の心の中では増幅されて、未来への一つの黎明となったように思われるし、今回の晩秋の一人旅に、心安まる彩りを添えてくれたような気がしてならない。


( 評 )
 心温まる題材である。旅先でバスに乗り込んできた小学一年生たちの挨拶、礼儀正しさ、それを目の当たりにした驚き。筆者ならずとも「未来への曙光」を見る思いである。バスの中での情景と筆者の気持ちが過不足なく綴られている。
 言葉の意味を辞書で確かめて、正しい使い方を心がけることが望まれる。

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