詩 市民文芸作品入選集
入 選

手 押 車
南川瀬町 谷 敏子

意識不明になって二十日間入院し
息子に連れられて
老婆は病院からホームに戻って来た
老人ホームの生活が二十五年
九十七才を迎えていた

夢のつづきを見るには
余りにも賑やかな
仲間の笑顔
優しいことばに引き戻されて
老婆は空ろな目であたりを見た

――このまま寝ては車椅子か寝たきりです――
――食事も流動食ですよ――
告げられて
わかる? の問いに
 「わ・か・る・よ」
大好きなアンパンを手渡されて
瞳をかがやかせた

ベッドから起きては靴を履き
手押車につかまっては歩き
はらはらと汗をこぼす
遠い記憶の坂道を
壊れそうな老いの哀しみを駆りたてる
同じような車を押し
行商をしながら幾百里歩いたことか

――おやつですよ――
――自分で歩いていけますね――

晩秋の日射しが長い廊下を暖めている
集い合う声がわらべ唄のように流れ
手押車はふるえながら老婆を歩かせていく


( 評 )
 長い生活の中で馴染んできた、いや生活を支えてきた手押車がいまの老婆にとっては命の支えになっている。老婆を労わる周囲の目が優しく、とても完成度の高い作品だ。

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