小説 市民文芸作品入選集
入選

木炭通り
正法寺町 井 豊

 大型台風との予報を信じて、父が朝から家中の雨戸を閉めて市役所に出勤したので、家の中は真っ暗だった。高校が臨時休校になった僕はすることもなく、居間のソファでごろごろしながらテレビの台風情報を見たり、マンガ本を読んだりして過ごした。
 祖父は、軒下に並べている自慢の盆栽を車庫や玄関に運び込んだ後、木炭通りの住宅跡地に作った温室の窓を閉めに行った。昔、小さな川港のはずれに木炭屋が三軒並んでいたことから、川と旧街道を結ぶわずか百メートルほどの路地を、いまでも年寄りたちは木炭通りと呼ぶ。古い土蔵造りの建物に挟まれた木炭通りは、川に向かって少し下りになっている。
 母は台風だからといって、いつも特別なことはしない。風の入る隙間もない新しい家は、雨戸さえ閉めておけば台風なんてあっという間に過ぎてしまう。毎回、いつの間にか風がやんで物足りないくらいだ。
 昼になってインスタントラーメンを食べた。食べ終わるや、母は大急ぎで食器を洗って片づけた。その後は退屈だった。母も祖父もさすがにこんな時は、ごろごろするなとか、勉強しろとは言わない。特別何を話すでもなく、刻々と近づいて来る台風を待って、外にも出ないで、じっとテレビばかり見ていると息がつまる。携帯メールをとがめられた僕は、あくびばかりしていた。
 予報どおり、午後から暴風圏に入ったようだが、家の中にいると、テレビのリポーターが、わざわざ防波堤に打ちつける水しぶきを浴びて叫んだり、街路樹の枝が揺れる様を緊張した声音で伝えるほどの緊迫感は感じられなかった。昔川港だった川べりは、りっぱな護岸工事がされていて「水辺の公園」までできている。僕が生まれてから一度も溢れたことはない。雨戸をたたく雨や風の音が少しはゴウゴウ鳴るが、いつものことだ。祖父だけが、明日は公園の掃除がたいへんだ、とつぶやいていたが、誰も返事をしなかった。
「良子」 
 律義にテレビを見ていた祖父が母を呼んだ。
「いよいよ暴風警報が出たぞ。今夜は早めに飯の支度をしろよ」
 祖父はたまに機嫌のいい時は、母を子供の時の呼び名で「よっちゃん」と呼ぶのだが、最近はあまり聞かなくなった。「大丈夫よ。近頃のテレビは何でも大げさで、ちょっと風が吹いてもすぐに警報出すんだから。大したことないわよ」
 母は面倒くさそうに答えた。じっとしていると気持ちばかりでなく身体までなまってくる。僕も冷蔵庫まで牛乳を取りに行くのさえ億劫で、ソファに寝転んだまま我慢していた。祖父が何か言いたそうにこぶしを握りしめている。僕は見ざる、言わざる、聞かざるを決め込んだ。
 僕の家も祖父の代まで木炭屋だった。近在の農家が冬仕事に焼いた炭を集めて、港から船に乗せて出荷したり、近隣の店の厨房や旅館や町家を相手に商売をしていたらしい。祖父が廃業を決めたのは、町内に六軒あった「うなぎ屋」が、いよいよ炭焼きをやめて便利なガスを使うようになった時だという。僕が生まれるずっと前のことだ。そのあとも「木炭屋」の看板だけは長い間そのままになっていた。
 婿養子の父ががんばって、街道をはさんだはす向かいに土地を求め、家を新築したのは数年前。僕が中学一年の時だ。川のそばの倉庫だけを残して、隣接した古い住宅部分を取り壊す時、ようやく倉庫の看板もはずされた。母はその時
「四十を過ぎて、やっと炭屋の娘の肩書きから解放されたわ」と言った。
 新築の家は、全部母の希望が入れられた。古くて黒い炭屋のイメージを払拭するために、壁も家具も白やベージュで統一された。台所はオール電化のシステムキッチンになった。すき間風の入る、古くて暗い、広いばかりの土蔵造りの家から、一晩で僕たち家族は洋風の白い家に移った。
 その頃から、母と祖父の仲はぎくしゃくしだした。何十年も前の在庫の木炭を、古びた倉庫に残したまま処分を許さず、いつまでも未練がましく出入りする祖父を、家が汚れると母が嫌うのだ。「俺は、こんな狭くて真っ白な家は落ち着かん」と祖父も負けてはいなかった。
 炭やガスと違って、熱くもならず炎も出ないIHの台所は、安全、安心なのだという母に、祖父は、炎も出ないようなまやかしの火で炊いたものが信用できるか、と事あるごとに悪態をついた。そして最後は「木炭だって、一旦熾ると煙も出ないし炎も出ないぞ。でも本物の火だ」と締めくくった。

 祖父と母のやり取りを、息を潜めてやり過ごしているうちに、やがていつものように、大した被害ももたらさずに風がやんだ。朝から雨戸を閉めて、外にも出ないで、準備万端整えて待っていたのに、ちょっと期待はずれの、不完全燃焼のままの不快な気持ちを抱いて僕は目を閉じた。祖父も母もまだ動き出す気配はない。テレビは相変わらず、まだ吹き返しがあるので注意を怠らぬように、と気象台の言葉を親切に唱えつづけている。
 その声がふいに止んだ。同時に部屋の明りが消えた。
「停電よ」
 しまった、という気持ちのこもった母の声がした。
「飯はどうする」
 祖父の声がとがった。朝はパンを食べた。昼はラーメン。目を開けると、蛍光時計の針が六時を指している。
「風が収まったら支度をしようと思っていたのよ」
 母が言い分をするように言った。オール電化の台所は真っ暗だ。
 祖父が、仏壇から持ってきたロウソクをテーブルに立てた。僕の記憶にない祖母のいる仏壇を、祖父は熱心に守っている。少しおどろおどろしい灯りの中で三人はまた黙った。僕は冷凍庫のアイスクリームが溶けないうちにとひとつ食べた。
 時計の針が六時半を指して光る。懐中電灯の明りを頼りに祖父と二人で雨戸を開けると、外はすでに暗くなっていた。電子レンジも、もう電気ポットのお湯さえ使えない。
「コンビニ開いてないかしら」
 母がつぶやく。
「こんな時に。どこだって自分のことで精いっぱいだ」
 祖父が叱った。
 テレビに代って、携帯ラジオが県内全域の停電と、復旧の見通しのつかないことを、繰り返し伝えている。まさか今夜夕飯抜きで、シャワーも使わずに寝ることになるのだろうか。僕はため息をついた。
「倉庫に木炭も七輪もある。雨も止んだし、飯を作るぞ。冷蔵庫にあるものを持って来い」
 突然、祖父が懐中電灯を手に立ち上がった。
「こんな時に倉庫火を使うなんて。火事でも出したらどうするの」
 母の金切り声は、いつも僕の心を逆なでする。
「木炭は昔から家の中で使うものと決まっとる。それに、俺は何十年も木炭を扱ってきた。手も汚さずに安全、安心ばっかり唱えているおまえたちとはわけが違う。おまえは停電くらいで家族に飯も食わせんつもりか!」
 八十を過ぎた祖父の声が太い。
「ラジオは念のためにおおげさに言ってるだけよ。もうちょっと待てば、九州電力が停電くらいすぐに復旧させてくれるわよ」
「九州電力をいくら拝んだって、でけんことはでけんのだ。台風のあとの、この真っ暗闇の中で復旧作業をする人の身にもなってみろ」
 ローソク一本の灯りではよく見えないけれど、祖父と母はにらみ合っているようだった。ふたつある懐中電灯のひとつが電池切れで役にたたず、念のために早めに夕食の支度もしなかった母の言い分は、少しずつ迫力が抜けていった。
「何んでもかんでも人を当てにして待ってるだけじゃだめだ。陽介、手伝え!」
 しぶしぶ母が差し出した、凍った残りご飯とアジの干物を受け取ると、祖父は僕に大きな両手鍋とペットボトルに入れた水を持たせた。消火用も含めて、ペットボトル四本を入れたデイパックを担いだ僕は、祖父と一緒に、今度は身震いするような真っ暗の中に出た。九月の関西はまだ残暑の季節だが、台風が去ったばかりの大気は湿気を含んだまま冷やされて、奇妙な涼しさがあった。それが、首や腕にゆるく張り付いた。
 どこの家でもまだ雨戸を閉めたままなのか、窓からこぼれる明かりもなく、まだ早い時間だというのに、しんとして人の気配もない。家の前の街道を横切り、アスファルトの木炭通りを倉庫まで歩く。土蔵造りの建物に挟まれた細い通りに、小さな懐中電灯の明かりだけが命綱のように光る。祖父の足元を最優先で照らしてやるが、祖父はまるで明りなどなくても道が見えてでもいるかのように、足音も立てずにどんどん歩いて行く。

 小学生の頃まで、僕は祖父と一緒に倉庫の前で、炭火であぶったスルメや干物をよく食べた。七輪の炭火であぶったものは、母が作るカレーやハンバーグとは違って、男の味がした。母が見たら行儀が悪いと叱る、いつもと違う食べ方は、何だか大人になったようで、胸がわくわくした。
 七輪の焼き網の上には定番のスルメの他に、ししゃもや鰻やとうもろこしなどが乗っていた。冬にはもちやみかんや漬物までも乗った。祖父は何でも網に乗せた。この楽しみは女、子供にはわからん、と祖父は言ったが、僕だけは特別に仲間に入れてくれた。まわりにはいつも年寄りたちが二人、三人と古びた椅子に腰掛けていて、お茶を飲んだり、炭火であぶったものを食べたりしていた。時には一升瓶もあった。
 祖父はスルメをあぶりながら、昔栄えた川港の話をしたり、木炭に話をしたりした。有明海の潮が満ちるのに合わせて、たくさんの船が川を上ってきた。焼物に使う陶石をはじめ、塩や肥料や衣類などが運ばれてきた。反対に米や焼物や木材などが積み出されて行った。じいちゃんの木炭も、ここから船に乗せて遠くの町まで運んだのだ。祖父の話はいつもここにたどり着く。港にはたくさんの商人や人夫がいて、荷車が行き交い、にぎわった。
 やがて陸上運送の発達につれて川港の役目が終わった。しばらく打ち捨てられていた川港は、いまは水辺の公園となって整備されている。昔の川港を知らない僕は、祖父の話に合わせて、見たこともない川の向こうの遠くの町を想像した。川港を出た祖父の木炭は、長い旅をして、大きな海の港に着く。
「陽介、木炭の音楽を聞かせてやろう」
 少し酒が入ると、祖父は木炭を二本取り出してたたいた。そして歌った。木炭はキーンキンと空を切って細く鋭く鳴った。
「これが木炭の一等賞の音だ。よおく覚えておけよ」
 じいちゃんの扱う炭はみんな一等ばかりだ。すでに木炭の市場がずいぶん小さくなっていた時期にも、なじみの農家から持ち込まれた木炭を、祖父は最後まで買い取ったという。高い天井の倉庫の中には、ぎっしりとじいちゃんの木炭が詰まっていた。

 辺りに響き渡る軋み音をさせて、祖父が倉庫のシャッターを開けると、外よりなお深い闇が襲いかかってきた。何か得たいの知れないものが潜んでいるようで、僕は恐ろしくて、夢中で懐中電灯を振り回し倉庫の隅々までを照らし出した。
 中学に入学してからは部活や勉強で忙しくもあったが、もう祖父の話やスルメの味が、以前のように楽しくもなくて、しばらく顔を出していなかった間に、倉庫の中はすっかり空になっていた。記憶とのあまりの違いに、僕は一瞬とまどった。
 新しい家に引っ越してからも、祖父がいつも倉庫に出入りしていたのを知っている。倉庫の隣に建てた小さな温室で、祖父は、ボケやヒメリンゴや雑木などを育てている。見ごろになったものを季節ごとに入れ替えて、玄関や床の間に飾るのだ。祖父は祖父なりの理由のある、毎日の倉庫の片づけを終えると、鉢物や水やりをする。それから、水辺の公園をひと回りしてゴミ拾いをする。これが、八十を過ぎた祖父の日課になっている。
 公園のゴミ拾いも、母の気に入らないことのひとつだった。
「人が捨てたゴミを、頼まれもしないのに、毎日拾ってやる必要はないわよ。あんまり熱心にしていると、当てにされてバカをみるわよ。市が管理してるんだから、行政にまかせればいいのよ」
 さり気なく父が逃げ出すのを、横目で見ながらまくし立てる。
「ゴミは捨てる人が悪いのよ。それを野放しにして、善良な市民の好意に甘えているのは行政の怠慢よ」
 母はバカをみるのが一番嫌いなのだ。
「何でもかんでも責任の所在を追及するのは俺は好かん。自分の庭先のゴミくらい、自分で拾えばすむことだ」
 母の言葉を、ふん、と鼻を鳴らして無視すると、祖父は毎日木炭通りを通って出勤した。木炭屋を廃業した後、祖父は町村合併前の役場に臨時採用されて定年まで勤めた。定年後も数年、守衛として働いた。昔の役場は人情があった。祖父は言う。暮らしに困った市民に仕事を与えてくれた。人間、受けた恩は返さにゃならん。公園の掃除くらい何でもないことだ。今は、何か事があると、何でもかんでも役所のせいにするけれど、昔も今も、役所は何も悪くない。中にいる人間が悪いのだ。
 一日の日課を終えると、天気の良い日には、温室の前の空き地に七輪を出して一服する。祖父の一服も母は嫌いだ。居間に灰皿はあるが、祖父がたばこに火をつけるとすぐに母が換気扇を回す。隙間風も入らない部屋は、たばこのにおいもきついけれど、白い壁が黄ばむのだと母は言う。祖父は換気扇の唸る音が嫌いだ。
 長い間眠らせておいた木炭を、祖父が積極的に使い出したのは僕が中二の時、夏休みにクラスでキャンプに行くことになった時だ。グループ分けをしている教室に、突然、木炭を抱えた祖父が担任の先生を訪ねて来た。
「私は昔、炭屋をやっとりました。在庫がたくさんありますもんで、よかったら使うてください」
 敬礼せんばかりに律義にあいさつをする祖父の姿に教室は大騒ぎになった。キャンプの夕食のメニューは、現地で枯れ枝を集めて定番のカレーと決まりかけていたのだが、急遽バーベキューに変更になった。メニューの変更にみんなはやんやの喝采で喜んだが、倉庫の中から、形の崩れていない炭を選んで束ね直して持って来たという、黒く汚れた祖父の手が僕は恥ずかしくてたまらなかった。クラスの友達は炭など見たこともない者ばかりだ。
「陽介君のとこ、なんでそんなものがあるの」
「炭屋て何」と聞く者もいた。
「知らん」と僕は答えたが、それからは学校での出来事も、行事も、あまり祖父には話さないことにした。木炭屋という商売が昔あったことなど、友達は知らない。本当のところは僕も知らないけれど、それでも、一年前に「木炭屋」の看板がはずされた時の母の言葉や、祖父の姿を覚えていた。祖父は、もう文字もはっきりしないような看板を抱いて、何度も、タオルで拭いていた。家族の心に引っかかっているものが、僕の上にも及んでくるのはうっとうしかった。
 僕が嫌っているのを知っても、翌年も祖父は夏休み前の中学校に顔を出した。水辺の公園を抜けて、みなと橋を渡ると、大通りの向こうにスーパーと中学校がある。僕が卒業した今でも、祖父はまだ木炭を抱えて通っている。
 水辺の公園で開かれる老人会のゲートボール大会や、子供会の焼肉会や、地区の夏祭りなどのイベントにも顔を出しては、木炭を提供するようになった。その上、何かと理由をつけての仲間たちとの懇親。少しずつ在庫が減るのはあたり前のことだが、それでも、祖父の木炭の在庫は無尽蔵だと、なぜかずっと思い込んでいた。
 深い闇をはらんだ倉庫の中で、久しぶりに祖父の手際を見た。やみくもに懐中電灯を振り回している僕を尻目に、祖父はどこからともなく七輪と木炭を持って来た。それから、小さく束ねた小枝を持って来た。公園で拾い集めた木の枝や、盆栽の剪定で出た枝も無駄にせず、街道の並木が剪定される時にはそれももらって、温室の裏に広げて乾燥させたあと、、小さく束ねて焚き付けを作っていた。
 懐中電灯の明りを七輪の底に当てさせると、祖父は小さく丸めた新聞紙を入れ、その上に焚き付け用の小枝を乗せた。その上にひとつ、ふたつ木炭を置いた。チャッカマンの小さな火種から炎が上がり、それが小枝に移ると、祖父はまた少し、新しい小枝を足した。小枝の火力がしっかりしてくると、祖父はその上にまたひとつ、ふたつ木炭を乗せた。
 ゆっくりとした動きで火力を調節する祖父の手元を見ているうちに、ついに、小枝の炎が木炭の表面を舐めるようにゆらいだ。
「よし」と、祖父が声をあげた。
 いよいよ炭火が熾り、やがて七輪いっぱいに、赤々と、祖父の言う本物の火が広がった。そこだけ闇が払われ、祖父と僕の居場所を定めた。
「炭を熾す時はあせらず、じっと待ってやると自分の力で燃え付くのだ」
と祖父は言った。
 自分の力で燃え付いた、熾のあいだあいだから青い炎が立ちのぼって、ゆらぎ、試すように僕を見ていた。これから飯を作るのだ。僕は覚悟を決めて、少し傾いた椅子をふたつ、七輪をはさんで置いた。焼き網の上にアジの干物をのせると腹の虫が鳴った。一日中何もしていなくても腹が減った。祖父はアジのしっぽをつかむと箸も使わずひっくり返し、またひっくり返した。 
「役得だ。食え」
 二人で、焼きあがったばかりのアジの干物を半身ずつ食べた。ふっくらと満遍なく火が通っていた。本物の火が焦がしたアジの身は、香ばしさが鼻をついて、なつかしい大人の男の味がした。
 凍ったご飯は、コンメソスープとしょう油の味付けで雑炊にした。祖父は、昔の戦争のことは滅多に話さないけれど、兵隊に行ったことがある。
「人間、どんな時でも食べなきゃいかん」
 傾いた小さな木の椅子に座り、鍋を照らす懐中電灯の明かりの中で祖父は言った。
「食べて生きなきゃいかん。便利だけでは食べられん」
 七輪の炭火の明かりは鍋で塞がれている。いつ切れるともしれない電池の寿命が心を急かす。
「いつか家を出て一人暮らしをする時には、自分で飯を作れ。病気とけんかはしちゃいかん。どっちも心細いもんだ」
 倉庫いっぱいの闇を背負っていると、すぐ向かいにいるはずの祖父の存在が不確かで、ふっと心細さが身にしみた。僕は、両親が期待するほど勉強はできなかった。高校も希望ではない。それでも、来年僕はまた受験生になる。いまでも模擬テストに追われているが、テストの結果次第では、自分がどこに行くのかわからない。僕は勉強も、もめごとも嫌いだ。そう思ったけれど、うん、とだけ返事をした。
 停電は翌朝復旧した。祖父はいつもより早く、木炭通りを出勤して行った。

 雑炊とアジの干物の夕食を腹いっぱい食べたはずなのに、なおも母は祖父の倉庫通いに不服を言った。
「そんなにまだ在庫が残っているのなら、もっと早くスーパーにでも卸せばよかったのに。そうすれば安くたっていくらかにはなったでしょうに。ただであっちこっちに配り歩いたって、先方だって迷惑してるかもしれないわよ」
 僕と同じように、もう何年も倉庫をのぞいたことのない母に、僕は倉庫の中がすっかり空になっていたことを言わなかった。
 僕は土曜や日曜の午後、再び倉庫の前をのぞくようになった。木炭通りを歩いて行くと、潮気を帯びた風が川から吹いた。日当たり良好、風通し良好の小さな空き地に、七輪を囲んで相変わらず年寄りたちが集まっていた。近所の古い仲間はもちろんのこと、老人会の会長さんや、祖父が会員になっている盆栽教室の仲間や、時々は婦人会の会員だという人たちも混じっていた。夏から秋にかけて、水辺の公園でのイベントも増える。イベントを終えた人たちが、そぞろ通りすがりに、休憩所代りに立ち寄っていくこともある。
 台風の後、僕が始めて顔を出した時、
「一蔵さんの孫かい。ずいぶん大きくなったなあ」と、見覚えのある顔が驚いた声をあげた。祖父の同級生だという虎男さんだ。小学生の頃は時々会っていたはずなのに、もうずいぶん会わなかったことになる。
「ますます、いっちゃんに似てきたようだな」と言ったのは昌介さんだ。
 そうかい、と祖父は虎男さんと昌介さんと僕を交互に見やり、にんまりとした。 七輪の網の上には、もうかつての定番スルメはなくて、だれかの差し入れの、やわらかいチクワや丸天が乗っていた。

 僕が七輪の回りに集う人たちに少し慣れた頃、祖父が倒れた。倉庫のシャッターの前に座り込んでいるのを、通りがかりの人が見つけて知らせてくれた。救急車で運ばれ、そのまま入院している祖父は、みるみるうちに食欲を落とし、痩せていった。点滴で栄養補給をしていたが、検査も終わらないうちに肺炎を起こして、あっけなく人生を終えた。
 病院から呼び出しで駆けつけた僕たちを前にして、祖父は母の名を呼んだ。
「よっちゃん、俺が死んだら、家は狭かろうから、葬式は斎場でいいが、その際すまんが、木炭通りを通って連れて行ってくれんか」
 酸素マスクをつけられ、もう目を開ける元気もないはずの祖父が、突然しゃべり出した。泣き崩れかけていた母は「ひえっ」と頓狂な声をあげた。
 生まれた家の見納めじゃけん。酸素マスクの中で祖父の唇が動いた。僕は、祖父は本当は、木炭を積み込んだ港を見たいのではないだろうか、とふと思った。
 祖父の生きた港の風景を僕は想像する。ゆるやかに蛇行する潮高川の葦原の中を、帆柱の高さを競うように、木造船が潮に乗って上って来る。岸辺の水鳥を追い払いながら、あとからあとから船が着いて、商人も人夫も見物人も集まり、港が一気に活気づく。やがて荷を降ろし、荷を積んでまた港を出て行く。祖父の木炭を積んだ船も出て行く。若い頃の祖父の声が響く。荷車が走り、人が走る。港に活気があった頃、人はみんな生きていた。
「わかったわ。何とかします」
 祖父の頼みに母は殊勝に何度もうなずいた。せまい木炭通りは、川向こうのスーパーに行く近道として年寄り達が歩いたり、通学時に学生が自転車で通ることはあるが、車はほとんど通らない。僕は、母がいいかげんに返事をしているのだと思っていた。
 苦しい息の下から「よっちゃん」と、また祖父が呼んだ。「初七日は身内だけで簡単にいいが、特別に昌ちゃんと大ちゃんと虎ちゃんとおハルさんを呼んでくれ。尋常小学校からの同級生で身内みたいなもんじゃから」
 母はまた「ヒエッ」としゃくりのような声をあげて、とうとう泣きそびれたままメモ紙を掴んで名前を書きつけた。僕は祖父のことを、いっちゃん、と呼んでいた昌介さんの顔を知っている。大声で笑った虎男さんの声も知っている。大ちゃんとおハルさんはわからない。
「よっちゃん。炭屋の、娘で、すまんかったな」
 目を開けないまま、祖父は喘ぐようにつぶやいた。胸がゆっくり上下している。医師が腕時計を見ている。
「もう、倉庫は、解いて、更地にしても、いいぞ」
「わかったわ」
「よっちゃん、盆栽は、園芸教室の仲間に、引き取ってもらってくれ」
「はい」
「よっちゃん」
祖父は際限もなく母の名を呼んだ。母は呼ばれるたびに返事をした。
「陽介」
 ふいに、思い出したように祖父が僕を呼んだ。僕は母のようには、返事ができなかった。
「どんな時でも、飯を食え」
 祖父は大きく、息を吐いた。つめの間にかすかに黒いものを残した祖父の手を、母はずっと握っていた。僕は誰にも聞こえないように「うん」とだけ返事をした。

 土蔵造りの古い庇をかすめるようにして、せまい木炭通りを、祖父を乗せた車が下って行った。水辺の公園を横切り、みなと橋を渡って大通りに出て、斎場に向かう。潮気を含んだ川風がひとしきり吹いた。




( 評 )
 台風にそなえる母と祖父のやりとりを高校生の僕は息を潜めて見つめている。かつて木炭屋だった祖父には炎も出ないIHのきれいな台所はなじめず、炭への思いは尽きない。時代の移り変わりが家族の暮らしを通して巧みに描写されている。とりわけ祖父の人物像は魅力的である。

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