犬上川
「若さんの代になって法事のお経が短こうなって、助かりますわ」
昨春に胃癌のために浄土へと還った私の父は、法事というと朝の九時から十二時過ぎまで二度の休憩を挟み長々と丁寧にお経をあげていたが、父に代わり真光寺の二十五世住職となった私は朝十時に行って一度休憩を入れて十一時半過ぎには膳並べの時間もいるだろうと都合のいい理由でもって早々とお経を終えていて、確かに真光寺のお経が随分と短くなったことは事実である。それを指摘する人によっては嫌味ともとれる微妙な言葉も、健次さんの歯切れがよく威勢のいい声にかかれば裏表のない率直な褒め言葉としてだけ心地よく聞こえてくる。
私の目の前で胡坐を組んだ健次さんが盃を差し出してきた。めったに着ないであろう白のカッターシャツの袖から出ている手はたっぷりと太陽を浴びた働き者の手だ。
「若さんは今年でお幾つになるんです?」
私は五十二という数字を小声で告げながら、出された杯をいただいて、健次さんから注いでもらった酒をすぐに飲みほし返杯した。
「男盛りですやんか。若さん、よろしおますなあ。今のうち、やりたいこと、思い切りようさんしとかんと、もったいないです」
その言葉、その考え方、その言い方、その顔の表情、その手の仕草、何もかもが健次さんは、今日の法事、十三回忌の仏様である杉浦竜之介、竜さんに瓜二つであった。五分刈りの形のいい頭、真っ黒に日焼けした顔、百八十センチ近い大きな体、太い腕、熱い胸板、竜さんの次男である健次さんは竜さんの男らしい部分をすべて受け継いでいる。もう七十二だということだが、六十前後にしか見えない若々しさだ。健次さんは今、田んぼを二十町歩程やっていると聞いている。この辺りは三反、四反と少ない田を耕作していた家が多く、それらの家々が米作りから次々と手を引いていき、その都度健次さんがその田での米作りを引き受けるようになって、あっという間にその数は二百反にふくらんだようだ。もっとも健次さんによると、ここ近江は湖東においても近年は健次さんと似たような人が多く出てきているようで三十町歩、四十町歩と手広くやっている人はザラだということだ。それだけ、昔のように、自分の家族が食べる米を自分の田で賄う形の自給自足のような形の零細農家がほとんど姿を消してしまったということだろう。市町村合併の規模や速度よりもはるかに大きく田舎での田んぼの合併は進んでいる。竜さんの次男である健次さんは一反の田んぼすらも持っていなかった。健次さんは六十まで、地元の建設会社で働いていた。
「この前、中学校から講演の依頼があって、生徒の前で喋らせてもろたんよ。なんかこの頃、職場体験いうのを中学校ではやってるみたいで、その一環としてわしの講演もあったんやわ。百姓はこれからの仕事やで、ようさん田んぼやって、春から秋まで思いきり汗かいてガバッと働いて、そしたら、冬は長期休暇や、ハワイとかグアムとか海外旅行にも行けるでって、上役にぺこぺこせんでええし、自分のペースで仕事ができるし、タイムカードもない、これからの時代、農業はあこがれの仕事やで。そないに話してたら、生徒らみな目輝かせとったわ」
健次さんはどこまでも陽気で楽しい。自慢話も鼻につかない人徳のある明るさを持っていて、この点でも今は亡き父、杉浦竜之介とそっくりだ。
「健次、たいがいにしとけよ。しょうもない話してんとちゃんと若さんに給仕せんとあかん」
一番下座に座っている竜之介の長男、健作さんの声が聞こえてきた。健作さんは今年七十六歳になり、私の寺の檀家総代をしてもらっている。定年まで地元の役場に勤めていた。八反の田んぼを役場勤めの傍らやっていたが、今は健次さんに作ってもらっている。健作さんは私の父と同級生だった。健作さんの長男の宏君は私より一つ下だ。健作さんは母親似なのか竜さんに顔も性格もあまり似ていない。似ているところがあるとすれば身長が高いところぐらいだ。
健作さんが健次さんに代わって私の前に座り、杯を勧めてきた。酒がめっぽう強いところは健次さん同様健作さんも竜さんの体質を受け継いでいる。この兄弟の杯攻めのおかげで私は父の代役で来た竜さんの三回忌の法事で情けないことにこの座敷で酔い潰れてしまっている。
二百五十万円したという買い替えたばかりのピカピカの仏壇の上には〈無量寿〉の額の隣に紋付羽織姿の竜さんの大きな写真が飾られている。今、座敷には、かなり耳が遠くなった九十一歳になる竜さんの妹のふみさん、ふみさんの長男の和夫さん、竜さんの長男の健作夫妻、孫の宏夫妻、曾孫の十八歳の優作君、十七歳の愛さん。竜さんの次男の健次夫妻、孫の達也夫妻。竜さんの長女の七十五歳の夏子さん、竜さんの次女の六十九歳の秋子さん、総勢十四名の竜さんのファミリーが揃っている。竜さんの写真を見ていると、一昔前の映画のタイトルではないが『ゴッド・ファーザー』の言葉がふっと浮かんできてしまう。
十三回忌になる杉浦竜一郎は、一九一二年、大正元年の生まれである。近江は湖東に位置する、犬上郡多賀町の敏満寺という現在二百七十戸程の字に生まれ育ち、出征兵士となりインドネシアから生還し、米を作り、野菜を作り、あられを作り、庭師をし、よく遊び、よく飲み、よく喋り、よく動き、そうして、私の心の中に実に多くのものを残して、敏満寺を流れる犬上川の川原で八十五歳で死んだ。
クーラーが入っていて閉め切られている座敷の硝子障子の向こうに庭が覗き、見事なまでに横へ横へと地面とは平行にまっすぐに伸びる松の木が見える。葉刈りをしたばかりなのか形が涼やかだ。私は幼い頃からこの家に来る度、その松の姿が竜さんに重なったものだった。それは、まさに竜だった。何者をも恐れず、どんな相手に対しても常に正面からまっすぐに立ち向かっていく竜だった。
犬上川
私と竜さんの犬上郡多賀町敏満寺は、人口十一万人の湖東随一の彦根の町から六、七キロ離れていて、鈴鹿山脈の山々の麓に位置している。多賀町は扇を広げた形をしていて要の部分に多くの人が住み暮らし田畑が広がっているが、敏満寺もその要の部分にある。扇の紙が貼られた広い部分はすべてが山で、その千メートル近い山々の向こうには岐阜県があり三重県がある。
人口僅か八千人余りの多賀町には正月の三日間だけで約四十五万人の参詣者を全国から集める多賀大社があって、多賀大社こそが多賀町のシンボルだとすることは今日誰しもが認めるところであるが、中世つまりは平安時代から室町時代にかけては、敏満寺こそが多賀町の主役であったと言って過言ではない。今、名神高速道路の多賀サービスエリアとなっている敏満寺の台地一帯にはまさしく湖東地方の比叡山とも呼べるような堂塔四十八か所の巨大な寺院が存在していたという。その巨大寺院は、まず浅井長政によって火を放たれことごとく焼け失せ八百余人が殺されたという、さらに復興し始めた矢先に織田信長によって残りの堂塔もすべて焼かれ、残念ながら跡形もなく消滅してしまった。かくして敏満寺という名は字名だけに残った。
多賀町には二つの大きな川が流れている。一つは長年にわたり準備されていたダム建設が近年中止となり新聞紙上等で大きく取り上げられた芹川であり、もう一つは敏満寺を流れる犬上川である。どちらの川も、鈴鹿の山から多賀町を通り抜け彦根市に向かって流れていき、琵琶湖へと行き着く。
私は幼い頃、どちらの川でも泳ぎ、どちらの川でも魚つかみをしているが、私が幼い頃から抱くイメージは、芹川が女、犬上川は男である。芹川にはどこか上品で貴婦人のイメージがあり、犬上川にはどこか粗野で荒くれ男のイメージがある。
その男川である犬上川が、今年十三回忌を迎えた杉浦竜一郎の川だ。
それは昭和七年六月。杉浦竜之介はちょうど二十歳だった。
激しく玄関の戸を叩きつける音が竜さんが寝ている部屋まで聞こえてきた。まだ外は薄暗い。隣の納戸で寝ている竜さんの母が何事かと起きてきて慌てふためいて大声で竜さんの名を呼んだ。母の後ろに布団から上半身だけ起こし目をこすりながら不安げに見つめている十四歳の竜さんの妹のふみさんの顔がある。
「待っとけよ。今すぐ行くしな」
竜さんは裸の体に作業服を素早く羽織りながら玄関の向こうの突然の来客に声を張り上げる。
玄関の戸を開けると、夜明けの群青の空の下、作造と喜平の二人が泥だらけの体を震わせ殺気だっていた。二人とも顔が腫れ上がっていて、作造の腕は血で赤く染まっているのが暗い中でも見てとれる。
「竜さん、えらいこっちゃ」
そう言う喜平の唇が引きつっている。
「太一郎が井堰から連れて行かれよった。わしら、がんばってなんとかしたろう思うたけど、向こうは六人おって、このざまや」
あったことを懸命になって伝える作造の右の手首の辺りからはまだ血が出ている。
「ほんで太一郎はあっちの村に連れて行かれよったんか?」
「ほうや、太一郎、何しろこの空梅雨の日照り続きやさかいわしら敏満寺の田んぼがみなあかんようになると思い込んで、まだ真っ暗な間に井堰の水をちょっとでもこっちに流しとこうと川の中入って、ひとりで鍬振り下ろしとったんや。それを来よった川向こうの監視役に運悪う見つかってしもうてな、川原でもうボコボコされよって、悲鳴聞いたわしらが駆けつけた時には、倒れとって気失のうとった。わしら連れて帰ろうとして川原に下りて行ったら六人に取り囲まれてしもうてごらんの通りにやられてしもて、ほいで太一郎はあいつらにかつがれて連れて行かれよった。村のどこに連れて行かれよったかはわからんけど」
「まあ、とにかくわしは井堰まで行ってみるで、おまえらは怪我の手当しとけや。はよ顔冷やしとかなそのうちお岩の顔になるぞ」
両手を上げた竜さんは二人の肩を叩いて、そう言うが早いか犬上川に向かって韋駄天のごとく走り出した。「竜さん、ひとりでだいじょうぶかいな」と心配する喜平の声はあっという間に遠ざかる竜さんの背中には届かなかった。
犬上川の土手伝いの道を川上に向かって竜さんは走った。竜さんが井堰まで走る辺りの犬上川の東側は敏満寺であり、西側はJ村である。
走る竜さんの目に、井堰が見えてきて、そして、J村の監視役の二人の男が西側の土手に立っていた。竜さんは土手を駆け下り、空梅雨のせいで僅かにちょろちょろ程度に流れている水を跳びまたぎ、腹まで伸びている夏草を掻き分け掻き分け対岸へと進んだ。
「うちの村のもんを捕まえてどこにやってくれた?」
仁王立ちしている監視役の二人の顔がはっきりと見えてくると、竜さんは叫んだ。
「取り決めに違反するせこい反則をしたんはおまえらやぞ。悪いことしたもんが捕まるのは当たり前やろ」
二人の前に立った竜さんは二人の目を代わる代わるに見て、その視線の強い方の眉間に黒子のある男に絞り出すような声でもう一度聞いた。
「太一郎をどこにやった?」
黒子の男はなかなか肝が据わっていて何も答えない。とぼけた顔をして明るくなってきた空を見上げた。その瞬間、振り上げた竜さんの右の拳が男の頬にぶち当たった。さらによろめき倒れそうになる男の胸倉を鷲掴みして、竜さんは体を大きく揺さぶりながら鬼の形相で問い詰めた。
「はよ言わんかい」
男の鼻からどす黒い血が流れ落ちる。隣りにいるもうひとりの痩せた男がびびってしまい、逃げ出すためか助けを呼ぶためなのか踵を返してJ村の方へと一目散に駈け出して行く。竜さんが今度は男の腹に膝がしらをぶち当てる。それでも黒子は白を切り、竜さんは左手で胸倉を掴んだまま、右手で顎を砕かんばかりに打ちのめした。男の口の中から血が滝のように噴き出してきて流れ落ちる。
竜さんは虫の息になった黒子の男からなんとか聞きだしたJ村の神社へと向かった。犬上川はまるで国境のように敏満寺とJ村を分け隔てていて、犬上川を挟んで一キロ程しか離れていないにもかかわらず近くて遠い関係にあるJ村だ。竜さんもJ村には子どもの頃から滅多に行ったことはない。けれども神社だけはすぐにわかる。J村で森があるのは、神社だけだ、家々の屋根の向こうに煙突のように突き出た木々を目当てに走れば神社にたどり着く。
神社に着いた。人の気配はなかった。境内は気味悪いくらいに静かだった。朝日が木漏れ日となって竜さんの足元に落ちている。近くの家の鶏が一声鳴く。
竜さんは喉を潤そうと清めの水に近づこうと歩きかけ、ふと拝殿の右横の大きな杉の木に目をやった。
大木の地面から五メートル位の高さのところにロープでぐるぐる巻きに括りつけられた丸裸の太一郎の哀れな姿があった。
「太一郎」
竜さんが声を掛けるものの太一郎は言葉を発しない。死んではいないようだが、完全に意識を失っている。
「すぐに下ろしたるさかい」
そう言った時、竜さんの後ろから大勢の足音が近づいてきた。鳥居の辺りには鍬を持ち鋤を持つ二十人以上のJ村の男たちがいた。そのうちのひとりがよく通る声で言った。
「おまえもああなるでよ」
犬上川の水をめぐっての敏満寺とJ村との争いは、実に三百年の歴史を有している。田で米を作ることは命に等しい、田に引く水のため、生きていくため暮らしていくため、三百年の長きにわたり、互いの村の住人達は争い、何度も何度も血を流してきた。そのため一体幾度犬上川の水は赤く染まったことだろう。
小学校一年で東京オリンピックを迎え、中学校一年で大阪万博を迎えた、文字通りわが国の高度経済成長と二人三脚で大きくなった私の世代は、恥ずかしながら、米はスーパーで買うもので、水もペットボトルでコンビニで手に入るものといった思いの近頃の十代、二十代とそんなに違わない米や水に対する感覚であり、竜さんの世代までの三百年、同郷の人たちが水をめぐって体を張り命を賭けていたことがまったくの夢物語に感じられてしまう。
手元にある『多賀町史』を見ると、犬上川の水争いは、記録に残る最古のものが延宝四年( 一六七六年) の 「ねずみ搗き事件」であり、井堰を無断で開けた者がねずみ搗きで突き叩かれ負傷したとのこと。以降、天和二年( 一六八二年)、享保六年( 一七二一年)、宝暦八年( 一七五八年)……という具合に古文書に水争いの記述は明治、大正、昭和に至るまでずっとずっと続いていく。
私は竜さんから犬上川の水争いのことを聞いた。私の知るところの水争いは、古文書に残るものではなく、竜さんの時代の、あくまで竜さんから聞いたことだけである。竜さんが体験したことだけである。ちなみに、先程のJ村の神社でのトラブルにおいては、竜さんも二十余人の男たちに殴られ蹴られ失神させられ裸にされて太一郎が括りつけられた木のすぐそばの木に縛り付けられたという。そして、その後駆け付けてきた敏満寺の三十人近い男たちによってなんとか杉の木から下ろされたという。
「若なあ、記録に残ってるもんなんて、ほんの一握りやで。官憲が動きよったもんしか書かれてないわ。ほんなもん、夜中に井堰を無断で操作したとか、水番同士の胸倉つかみ合いのとか数人同士の殴り合いとか、そういうのは日常茶飯事やったで」
と、水争いのことを尋ねると竜さんは言っていた。人は誰しも過去を美化するものだし、少し尾ひれをつけたりもやや脚色したりもどうしてもしてしまいがちだ。だから、竜さんの話もそういうところがあるのかもしれない。でも、私は竜さんから聞いた話をできる限り正確に伝えたいと思っている。
二十歳だった竜さんにはすでに父親はいなかった。十七歳の時に元来病弱だった父は結核を患い死んだ。以来母親と二人で田畑の仕事をし、あられを作り、竹籠を編んだ。そして、冬場などには建設現場の人夫として彦根や長浜まで働きにも出ていた。十四歳の妹のふみさんは学業優秀で彦根の中学校まで通っていた。竜さんにはもうひとり、一つ年上の美しい姉、ゆうがいたが、父親が死んだ翌年、縁談がまとまり祝言の日取りまで決まっていた矢先に夕暮れまで田で働く母親を見に行った際犬上川の土手道の辺りでどこかのならず者に強姦されて井戸に身を投げ自殺した。夜中に傷だらけ泥だらけの体になって帰ってきた姉、翌日の白昼井戸から水だらけの体になって引き上げられた姉、その二つの姉の姿の夢を八十代になっても竜さんは夢に見ることがあると言っていた。
「姉を襲いよったんはJ村のやつに決まってるって、わしはずっと勝手に思ってたな。川の水争いで、わしが怖いもん知らずでJ村のやつらに挑んでいったんは姉のことがあったからかもしれんなあ」
二十歳の竜さんは、敏満寺の田の水を守るリーダーになっていた。
犬上ダム
『多賀町史』によると、竜さんの幼少の頃だけの記録を見ても、大正六年、七年、十三年、昭和二年……という具合に犬上川の水争いの記述は賑やかである。たとえば大正七年五月十七日付の『朝日新聞』では「警官隊の援護にて、犬上川の堰止めを破壊す、農民上下に分れて堤防上に相対峙して、同地方一帯に殺気みなぎる」の見出しで大きく報じられている。
さて、その水争いの話を昭和七年の夏に戻そう。竜さんがJ村の神社の杉の木に括りつけられて、それからの話だ。
その夏、空梅雨続きの後、三日間降り続く大雨となった。そして、敏満寺とJ村の両者が争い続けてきた井堰が決壊した。井堰が壊れると、当然その井堰の復旧工事が必要となるが、その工事が問題である。敏満寺もJ村も、互いに自分の村に損がないよう、相手の村が得にならないよう、不正がないように、厳しく目を光らせる。
その井堰から目と鼻の位置にある敏満寺の八幡神社の境内に村の若衆たちが二十四時間交代で集まる日が始まった。鋤、鍬、斧、鎌、竹やりなどの武器が敏満寺の家々から境内には集められ、鉢巻をし、腹には晒を巻いた若衆たちが殺気立つ。もちろん、その若衆たちの輪の中心に、竜さんがいた。
犬上川の土手に竹やりを持つ二人の監視役が立っている。監視役の足元にはリヤカーがあって、普段は真光寺の本堂内に掛けられている半鐘が載せられていて、何か不穏な動きが発生したら乱打され、八幡神社に待機する若衆が押し寄せて行く。さらには、敏満寺の家々にいる住人たちももちろん駆けつけて来るという寸法である。
八幡神社の境内には、女もいた。竜さんと同い年の松子だ。髪を後ろで束ねモンペをはき襷掛けの格好だ。松子は敏満寺の生まれである。一人娘だったため昨年養子をもらった。その養子が山仕事で大怪我をして今入院しているため代わりに来ている。竜さんは松子が出てくることを止めたが、気性の激しい松子は聞く耳を持たなかった。
立ったまま炊き出しの握り飯を頬張る松子に竜さんが声をかける。
「おまえも入院せんならんかもしれんぞ」
すると、松子はキリッとした目で竜さんを見て、
「うちの心配はいらんで」
と言い返す。
「女は愛嬌やぞ」
竜さんが笑ってからかうと、
「愛嬌はうちの主人にだけやがな」
とまたやり返す。まわりの男たちがどっと一斉に笑った。「竜さんも松さんの前ではたじたじやなあ」と言う声に「ほんなことあるけえ」と竜さんがちょっとムキになり、またみんなは笑った。
みんなの輪から離れ拝殿の縁に小さく身をかがめるようにしてぽつねんと座っている男の姿があった。小字の総代をしている佐々木家の長男の稔だ。二十四歳になる稔は田畑の仕事もろくにせず家に籠って本ばかり読んでいるとの噂がある。争いごとは苦手なのだろうが、総代の家の長男とあって立場上来ないわけにはいかないのだろう。
「稔さんよ、半鐘が鳴ってもな、ここにいといてええよ。ここに残って、ここを見守る人間もいるさかいな」
竜さんがそう言うと、稔は思わず顔を上げ、安堵の表情を浮かべて、竜さんにぺこんと頭を下げた。
誰かが川の向こうで煙が上がっていると言った。
「向こうはこのくそ暑い時に焚き火でもしとるんかいな」
と作造が言うと、喜平が、
「豚汁でも作っとったら、襲撃して奪いに行きたいなあ」
と握り飯を口の中でもぐもぐさせながらとぼけた顔をして喋る。
きれいな夕日が犬上川の堤の向こうに沈んでいく。晴れの日が続く本格的な夏の到来を思わせる。何がなんでも田に水を引く必要がある。
夜明け。半鐘が鳴り続けた。
明け方が一番危ないと踏んでいた竜さんの予想は的中した。
敏満寺で一番走りの速い義樹が八幡神社に息せき切って駆け込んできた。
「竜さん、あいつら、土手にレール敷いてトロッコで土を運搬し始めよった」
竜さんは、夜中の間に作造と喜平に敏満寺の家々を回らせ、十七歳から五十四歳までの総勢七十四人を八幡神社に集まらせていた。
立ち上がった竜さんが竹やりを手にし、拝殿の縁に立ち、全員に向かって叫んだ。
「ええか、みんな、ほしたら行くぞ!」
竜さんが手にした竹やりを暁の空に向けて突き刺し、境内にまっすぐに立った七十四人全員、声をそろえ応え、七十四の竹やりや鋤や鍬が同時に高く掲げられた。
「土手までは歩くぞ。土手に着いたら、みんなで一気に川に走り下りて、向こう側に行く。途中何があっても絶対ひるむなよ。ひるんだほうが負けやからな」
竜さんを先頭に、あとは二列縦隊で、敏満寺の七十三人は田と田の間の細い道を犬上川へと進んだ。竜さんを入れて七十五人のはずが七十三人になったのは、この種のことにはまったく向いていない稔と泣き喚いていっしょに行きたがったところを竜さんが平手打ちして説き伏せた松子を八幡神社に残してきたからだった。
途中、田の中に、八十二歳になる嘉代婆がいた。すっかりボケていて敏満寺のあちこちを徘徊していることで有名な婆さんだ。
「兵隊さん、早朝からごくろうさんです」
赤い布をスカーフのように首に巻き紫色のあさがおの花を髪に刺した嘉代婆が思いのほか大きな声を出す。緊張がピークに達している七十三人の口元が緩む。
「婆ちゃん、なごましてくれて、ありがとうな」
そう言った竜さんの言葉は、みんな同じ思いだった。
七十三人は犬上川の土手に立った。
J村側の土手には五十人位の男たちがいて、三十人位が見張りとして竹やりを持って立ち、二十人程が井堰まで土を運びこむ作業を黙々とと続けている。
犬上川を挟んで双方が睨み合ったのは束の間、
「行け!」
竜さんが犬上川に向かって張り裂けんばかりの声で叫び、七十二人は竜さんに続き鬨の声を上げ、一挙に川に向かって走り出した。
「真ん中まで来たらあいつらに石投げるんや」
と竜さんが指示していた通りに、全員、川の中ほどまで来ると、手にしている武器を捨て、川の石を拾っては投げ、拾っては投げた。川から土手への石投げは不利なはずだが、土手の上には投げるに適する小石が少ないため、敏満寺側の石の雨を降らせる作戦は効果的だった。投げた石はJ村の男たちの頭に顔に胸に腹に幾つも幾つも命中した。僅か数分間、けれどももうすでに双方何人もが血を流している。
「武器はここに捨てて土手まで駆け上るぞ」
竜さんはみんなに、そしてJ村の男たちの耳にも十分に達する大きな声を張り上げる。
「よいか、殺し合いに来てるんちがうぞ。逮捕者出してもあかん。竹やりとか鍬とかはなしや。素手でやり合うんや。ええな」
敏満寺の七十三人、全員が、一つの武器も持たず丸腰のまま、再び鬨の声を発して一気に土手を駆け上がって行く。そして、土手にいるJ村の男たち全員も武器を捨て、鬨の声を上げ、一斉に立ち向かって行く。
そこへ十数人の警官がやって来た。井堰のそばの無賃橋の上にズラリと一列に並んだ黒一色の警官、その中の一人が夏の朝の青い空に向けて一発、威嚇射撃をした。銃声が犬上川に響きわたる。けれども、激しくぶつかり合う百数十人の男たちの耳には届かない。
竜さんたちは、土手のレールを川へ投げ込み、J村が進めていた新たな井堰工事をことごとく破壊して、再び隊列を組んで八幡神社へと帰って行った。ただ、J村側がこのまま黙って引き下がるわけがなく、その日の夜から翌朝にかけて、J村においても百人を越える男たちが集まった。敏満寺においても朝の攻撃の時以上の数の男が集められ、翌日は早朝から犬上川を挟み、両陣営とも百数十人が立ち並び睨み合いが続くというまさに一触即発の状態だった。
そこに、湖東、湖北の各地から派遣されてきた警官約二百人が到着した。二百人位の数の警官を出動させない限りこの争いを沈静化させることはできないと判断したのだろう。……
この竜さんがリーダーとなって戦った昭和七年の水争いは、三百年にわたる犬上川の長き水争いの中でも最大規模のものであると言われている。争った人の数、負傷者の数、警官の数、どれをとっても群を抜いている。
この大きな昭和七年の争いによって、ついに、ようやく、やっと、行政は抜本的な解決をはかることの必要性を痛感したと言っていい。
犬上川上流に灌漑用ダムが建設されることが決まったのは、この竜さんたちの昭和七年の争いのあった後である。
犬上川の上流、萱原という名の村に計画されたダム、犬上ダムは、昭和八年にはだいたいのプランができあがり、昭和九年に起工、そして、太平洋戦争を挟んで、昭和二十一年、十五年の歳月を経て、ダムは完成した。
さらに、敏満寺とJ村の住民を三百年にわたり悩ませた両村の間にある原始的な井堰であるが、犬上川の水を岸から岸までコンクリートの壁で堰止める立派な頭首工の建設が竜さんたちの争いの直後始められ、昭和九年に完成し、頭首工の左右に設けられた水門によって、敏満寺もJ村も、両村ともが納得のいく水の分配が常時行なわれるようになった。
竜さんが戦争から帰って来た時、犬上ダムは完成間近だった。萱原にできた約三十五町歩、三十五ヘクタールの人造湖を目にした時、涙が滲んだという。
竜さんは私に、戦場での話はあまりしてくれなかった。私がそれとなく聞こうとしても、竜さんは厳しい顔で「あんなもんは血の通うた人間のすることと違う」の一語で撥ねつけるだけだった。でも、犬上川の水争いの話になると、いつも目を輝かせて熱く話してくれた。
「若なあ、こんな言い方したら不謹慎かもしれんけどな、わしはなあ、あの犬上川の水争いがわしの人生の中で一番楽しかったなあ。今時のもんにたとえたら暴走族の若者みたいなもんかもしれんけどな、あの頃は毎日毎日ワクワクしてたしドキドキしてたなあ。そらなあ、若、もちろんわしも敏満寺の百姓のせがれやさかい、田んぼがなかったら生きていけん、米がなかったら生きていけん、そのためには水がなかったら生きていけんっていうことはようわかってるんやけどな、そのための体張った争いやったいうこともようわかってるんやけどな、ほんでも若、本音はな、正直のとこ、そういうこととちごたんや。わしは、楽しんでたなあ。わしの頭の中では確かにいつもJ村と自殺した姉のことを結びつけてしまうところがあったんも事実やけど、でもその気持ちよりも楽しんでたことのほうが大きかった。ほかのこと全部忘れて楽しんでたなあ。楽しいから、毎日胸躍ってた。あのJ村の神社の木に括りつけられた時でも、太一郎とわし、同じくらいに目を覚ましてな、互いの格好見て、笑いが込み上げてきて、二人とも腸がよじれるくらいに笑えたわ。あんな目に遭わされてても笑えるんや。犬上川での乱闘なんてな、もうしょんべんちびるくらいに興奮してて、楽しいんや。あの時の感じを若さんにうまいこと伝えられんのがはがゆいわ。犬上ダムができて、わしらもう水に困らんようになったけどな、もし、あのダムが、あと二十年早くできてたら、わしはあの楽しさを味わえんかったなあ……」
無賃橋
私は昭和三十二年生まれであるが、私が敏満寺の浄土宗、真光寺のひとり息子として生まれた年、竜さんは四十五歳になっていた。
私は小学校の二年生の夏の盆の棚経参りの時から、父に連れられ檀家さんの家を訪ねるようになっていた。父の鞄持ちとして訪ねて行った家で、仏壇の前に座り、父の横で、母に便箋に平仮名で書いてもらったお経を読みあげた。
竜さんはすでにその頃から真光寺の檀家総代をしていた。
御忌( ぎょき) と呼ばれる冬の法要、施餓鬼( せがき) と呼ばれる夏の法要、また一月一日の修正会など真光寺の本堂に檀家さんが集まる際に、私は幼い頃から幾度となく竜さんを見てきているはずだが、この人が杉浦竜之介だとはっきりと意識して竜さんと出会ったのは、小学二年の棚経参りの時であり、竜さんはちょうど今の私の年齢位だ。
盆には竜さんの家には昼頃に行ってお昼ごはんを御馳走になるというのが恒例になっていた。その頃の竜さんの家の盆は信じられないほどに賑やかだった。竜さんの四人の子ども、健作さん、健次さん、夏子さん、秋子さんはみんな結婚していて、それぞれに子ども、つまりは竜さんの孫がたくさんいて、家の中は運動会さながらで、竜さんの妻のさとさんと健作さんの奥さんが家事にてんてこまいだった。竜さんの母親も元気で、走り回る曾孫をしかりつけていた。
私と父はその大勢の輪の中に入ってすき焼きをいただいた。その時のすき焼きのおいしさを、私は今でも忘れることができない。竜さんが豪快に大きな塊の肉を入れて、そこに砂糖と醤油をまさにぶっかけるという感じで入れて、たまらない匂いが漂い、白い煙がもうもうと天井に向けて立ち上っていく中で、私と父は肉を頬張った。そして、肉といっしょに食べるごはんがたまらなくうまかった。大きな釜で炊かれたという炊き立ての白いごはんの抜群のうまさ。小学二年の私は、どうしてこんなにたかがごはんがうまいのかと、目を白黒させていた。
「若、腹いっぱい食べいよ。昼からもようさんの家、参るんやろう?」
「はい。あと十一軒参ります」
「ほうか、若もええ声でお経あげるなあ。よいお坊さんになれるわ」
それが、私と竜さんが生まれてはじめて交わした会話だった。父は竜さんといっしょにビールを飲んでいた。私の父は十七歳の時に父親に病死されていて、その境遇が似ていることもあってか、竜さんは父に対してまるで親代わりのように接していた。
その頃、竜さんの家もそうだったが、母屋の隣に牛小屋があり、田んぼの仕事のための牛を飼っている家が敏満寺には多かった。牛がいて、鶏が何匹もいて、猫が家の中でゴロゴロとしていて、犬がうるさいほど吠えて、たまねぎやじゃがいもが軒下にはゴロゴロしていて、夜中には蚊帳を吊る……というのが、あの頃を思い出す時の私のイメージだ。あの風景のある敏満寺の田んぼで採れた米だから、あの盆の竜さんの家でのごはんはあんなにうまかったのではないか、そんな気がしてならない。
さて、私が小学三年生の時にプールが学校に完成した。長い夏休みの間、毎日そのプールが利用できればよいが字別に利用できる日は決められていて自分の字が利用できる日はせいぜい一週間に一度位だったので、琵琶湖までは遠く小学生が自転車で行ける距離ではなく、私たちは町内を流れる芹川か犬上川の水の深いところに行っては泳ぎ、魚を手づかみで掴んで遊んだ。流れる川の水はとにかく冷たかった。だから、水の流れが堰止められていて深いところが泳ぐには適していた。その最適の場所が、犬上川の敏満寺とJ村を結ぶ無賃橋の下辺りなのだった。もともと五十センチ位の深さがあったところを、ブルドーザーによってさらに掘られ、夏休みの子どものための自然プールとして、整備された。
その無賃橋の下では、敏満寺の子どもはもちろんJ村の子どもも集まってきて泳いでいた。学校のプールと違って、口うるさい先生もいない、休憩時間もない、制限時間もない、浮き輪を持ってこようが水中メガネを持ってこようがかまわない、アイスクリームを食べながら泳ぐこともできると、子どもにとってそこは夏の自由を満喫できるパラダイスだった。
それは、私が四年生の時だった。私は、その頃、情けないことに所謂いじめられっ子で、特にガキ大将だった勇の今で言うところのパシリとなっていた。何を言われても、何を要求されても、私は勇の言うことに対して拒絶する強さを持たなかった。そんな私は教室のみんなから軽んじられ馬鹿にされていた。その夏の日は、勇と他の三人位の同級生といっしょに無賃橋の下に泳ぎに来ていた。
橋の下には水を堰止める大きなブロックが幾つか並んでいて、子どもはそのブロックの上で寝転がったり日焼けをしたり、またそこから飛び込みをしたりしていた。そのブロックの辺りが最も水深があって、その日は雨続きの翌日で、一番深いところは、私たちの身長よりも深さがあった。
勇が私に命令してきた。ブロックの上に立っている私たちと同じ年位の見知らぬJ村の男の子を押して川の中にはめてしまえと。勇が言うのには、その男の子は水を怖がっている様子でたぶんあまり泳げない感じなので、落としてやったらおもしろいと。
私はこんなとんでもないことをしぶしぶ了承し、その男の子の背中を突いた。男の子は悲鳴とともに川の中に落ちた。男の子はもがいた。まったく泳げず、水しぶきを上げ、まさに藁をもつかむような暴れ方だった。勇は声を出して笑った。他の同級生たちも笑った。でも、私はとても笑えず罪の意識に苛まれて身動きできずにじっと男の子を見ていた。
「若、何してんのや。はよ助けなあかん」
無賃橋の上から竜さんの怒鳴り声がした。
私は竜さんの声を聞くやいなや水面に向けて飛び込み、水を飲みこみ激しく咳き込みながら浮き沈みを繰り返している男の子のところまで泳いだ。すると、男の子は私の腕にものすごい力でしがみついてきた。それで、私も泳ぐことができなくなり、いっしょになって溺れかけ始めた。
私の頭が全部水中に入ってしまい体の中へ大量の水が入ってくることを感じた時だった。無賃橋から脱兎の如く土手を駆け下りてきて飛び込んだのであろう、竜さんの太い腕で私はつかまれ、そして、竜さんのもう一方の腕はJ村の男の子の体をしっかりと抱き抱えているのだった。
「なんでや、若、なんであんなことした? 若があの子の背中押すん、わしは無賃橋の上から見てたぞ」
J村の男の子が異常のないことを確認した後、竜さんは私の体を両方の手で押さえつけるようにして、まさに竜のような顔で私を睨みつけてきた。そして、竜さんは私の頬を平手で一発、思い切りはたいた。私がひとしきり泣いた後、正直に訳を話すと、竜さんはこう言った。
「これからは何がなんでも戦いなさい。ええですか、たとえ負けようが、ぶたれようが蹴られようが、泣かされようが、かまいません。勇君だろうが、これから先、若が出会っていく強い相手、誰に対してもそうです、向っていかないといけません。でないと、今日みたいに、若は、若の優しい部分を、良い部分を自分自身の手で殺して殺して殺していくことになります。そんな若を、わしは二度と見たくありません」
私は五十二歳になる今まで、この竜さんの言葉を忘れたことがない。小学校の高学年になった時、中学生になった時、高校生になった時、いや社会人になってからずっと、私は何か事ある度に、胸の底にこの竜さんの言葉が蘇ってきた。
ほとんどの家のテレビがカラーとなり、ほとんどの家に一台は車があるようになった昭和四十九年、私が高校二年生、竜さんが六十二歳の時、敏満寺の村にはKビールの大きな工場が完成した。敏満寺のすべての田んぼの三十パーセントが、七十八軒の家の田んぼが、このビール工場建設によって消え去った。Kビール工場は、無賃橋の近くから東に広大に広がる。
竜さんの家の先祖伝来の田んぼも四反が消えた。
田んぼが消えてお金が入った家が次々と新築し、あの牛小屋付きの藁ぶき家は敏満寺からことごとく姿を消した。
わが国も、湖国も、湖東も、敏満寺も、山も森も田んぼも道路も家々も、生活のスタイルも価値観も考え方も思いも、すべてが日進月歩で変化を遂げていた。
高校三年生になった私は、東京の大学に進学することを決めていた。そして、敏満寺の真光寺の住職を父から継がないことを決意していた。敏満寺から出て、東京に行き、大都会の中で自由に暮らしていきたい、私はそんなふうに思っていた。
東京の私立大学の文学部への進学が決まって数日して、竜さんと無賃橋近くの道でばったり出会った。私と竜さんは、その時、犬上川の土手に並んで座って、長い時間話し込んだ。
「若、人生は一度きりや。思いっきり、花の東京で楽しんだらよいがな。寺のことや親のことはわしらにまかしとけ、若がなんも心配することない。そやから、楽しい顔して行ってこいよ。楽しい顔して東京で生きていけよ」
私は、この時、またもや竜さんの前で涙を流してしまった。犬上川の水の流れが歪んで見えていた。その日はそれから竜さんの家で私の合格祝いだということで二人で酒を飲んだ。私の生まれてはじめての飲酒だった。さらに竜さんはタクシーを呼びつけ私を彦根の袋町の小料理屋に連れて行ってくれ、私は泥酔し竜さんに抱えられての人生初の午前様の帰宅となった。翌日、私の母が言ったところによると、その小料理屋にいた五十代の目がぱっちりとしたふくよかな綺麗なおかみさんは、竜さんの〈いい人〉とのことだった。
誰に対しても媚びへつらうことなく正面から向かって行くこと。そして、いつでも楽しく生きること。竜さんから犬上川で教えられたこの二つのことをいつも胸に抱いてる私が、東京の空の下にいた。
私は東京で喧嘩ばかりをしていた。会社の上司はもちろん、取引先の人に対してまで、不合理だと思うことに対しては怒りをぶつけるタイプになっていた。
大学を卒業して、そのまま東京に残り、小さな出版社に就職した。編集者となって、ベストセラーとなる素敵な本を作ることが、私の夢だった。
就職して十年、三十三歳の時、私は七年付き合い互いに結婚を約束していた女性と別れた。相手は他の男のもとへと走っていった。そして、偶然にも時を同じくして、私が十年間戦い続けてきた会社は不渡りを出した。三十四歳になった秋、私は絵にかいたような都落ちで、ふるさとの敏満寺に帰った。
きれいな秋の夕暮れ時だった。コスモスの花に包まれたKビール工場の前で竜さんと再会した。竜さんは七十九歳になっていた。相変わらず日に焼けて真っ黒で五分刈りにしている髪は真白になっていた。
竜さんは、とびきり大きな声で、
「若!」
と、叫んできた。その元気なよく通る声は少しも変っていなかった。
「竜さん、東京ではもう、楽しく生きていけへんわ」
と私が言うと、竜さんは何も言わず、私の手を握って、「ようもんてきた、ようもんてきた」と同じ言葉を何度も繰り返しながら、涙を流した。そして、竜さんは私の耳元で言った。
「若、今晩、いっしょに一杯やらへんか?」
「昔は、敏満寺のどの家でもみんな、山田っていうて、敏満寺山の麓に、ひと畝くらいの面積の棚田を作ってたんですわ。山水を利用してのひと畝しかない棚田をわざわざ遠いとこまで行ってなんでみんな作ってたかいうと、日照りなんかで犬上川の水が枯れついてしもうたり、大きな台風とかでその年の米がまったくとれないとうふうな事態も考えられるわけで、そういう非常時に備え、来年の種用に棚田を作ったんです」
「種用にですか?」
「そうです。種用に」
「棚田って、あの段々畑みたいな田んぼですか?」
「若さん、見やったこと、ありますか?」
昨年父が死んで以来、寺の一切の仕事をするようになった私は、毎日のように檀家さんの家にお経を唱えに行くが、檀家さんと話していて、私がさっぱりとわからないのが田んぼのことだ。米作りのことだ。日本人として生まれ、毎日毎日朝昼晩と食べているお米のことが、もう五十二歳のいい大人になっているにもかかわらず、私はてんでわかっていない。恥を忍んで正直に告白すると、私は、米の粒が、種子なのか果実なのかすらもわかっていない、私たちは毎日タネを食べてるのかミを食べてるのか?……。この私の疑問はおそらく今日の日本の若者に共通するところだと思われる。私たちはお米に対して、どんどんリアリティを失っていく。田んぼを作る家が激減した。そして、敏満寺でも、多くの若者が都会へと出て行き、長男も家を継がずお年寄りのおじいちゃんとおばあちゃんだけが住む家が多くなってきた。私の寺、真光寺の檀家さんも減っていく一方である。
東京から帰郷した私は三年かかって浄土宗の寺の住職の資格を修得した。竜さんは、私が四十歳の時に死んだ。その翌年、私は随分と遅い結婚をし、今、六歳になるひとり息子がいる。残念ながら、竜さんに、妻を子を見せることはできなかった。
八十五歳で天寿を全うした杉浦竜之介。死ぬ半年前位から痴呆がひどくなり、家を飛び出しては敏満寺のあちこちを徘徊していた。
その徘徊を繰り返していた竜さんの最後の徘徊が、犬上川だった。
竜さんは早朝、犬上川で倒れているところを発見されたが、そこは、無賃橋の下であり、数十メートル上流の頭首工がよく見える場所だ。頭首工、そこはあの三百年の水争いの元凶、井堰のあったところである。
〈参考文献〉
・『多賀町史』( 編集・多賀町史編さん委員会 発行・多賀町)
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