「魯迅」と「老人」
「中学三年生の時だったと思います。国語の授業で中国の魯迅の『故郷』という作品を習いました。それは一九二〇年代の中国を舞台にした小説で、まるで戦争や貧困で喘いでいた人々の心に希望の灯をともしていくような筆使いの魯迅の文章にものスゴク感激した記憶があります。その時の授業で国語の先生はおっしゃいました。医者が人のからだを治すことができるとしたら小説家は人の心を直せる………最初医者を志していた魯迅が小説家に志望を変えたのはどうもそんな小説の力に魅せられたからのようです。自分が、一生、文章を書いていこう、できれば自分も自分の文章で人の心に夢や希望を与えたいと、生意気にも思うようになったのは、この中学三年の時だったように思うのです」
この三月の末、私は安土中学校の体育館で別れの言葉としてこのような話をした。公立中学校の「国語」の講師となって早四年。臨時講師なる故だいたい一年ごとに渡り鳥のように県下の各校を転々とする身の上だが、安土中学校には偶然にも二年おいてもらった。そして、これは奇跡的とも言っていいことなのだが、二年目の一年間は、講師でありながら一年四組の学級担任をさせてもらった。非常に思い出深い地をその日を限りに去って行く、体育館のステージの上から見る生徒達の顔、顔、顔。自然と力が入り、声も上ずり、足も震えた。
私としては、やっぱり中学、高校の頃というのは、自分が一生やっていこうというものを見つける時だからみんなもその一生のものとの出会いをしてくださいと、まあそんなところに話のゴールを設定したつもりでいたのであるが、体育館を出て、約三十分後、私の別れの言葉のオチはまったく違った形でついてしまうことになった。
ああ、もうこれで人生最初で最後の中学校のクラス担任も終わりだな、と感慨深くしみじみと、職員室の隣の休憩室でタバコを吸っていると、ある女の先生がやって来て、にこやかに笑いながらこんな事を言った。
「一年生の生徒達、木村先生は中国の偉い老人の話を一生懸命してくれはったって言うのよ。ロジンじゃなくてロウジンだと思ってるみたい」
私は思わずむせそうになり銜えていたタバコを落としそうになった。さすが中学生、子供たちの文字どおりの真っ白な心というものは本当にスゴイと、見事に一本取られた気分だった。
「結局、そういう自分の思いと他人の思いとのズレが文章を書かせるんですよね、たぶん」
私は、その先生に、その先生にしてみたらまったくわけのわからないであろう言葉を苦笑して返し、そして、もう一本のタバコに火をつけて、教師と生徒もまさにこれだよな、と思った。
<ズレ>という言葉を使ったが、自分の書くことのきっかけが魯迅だとするなら、自分が書き始めて今もなお書き続けられている理由がそのズレの意識であると言って過言でない。自分と他人との間にあるズレをひたすら追い続けて文章を書き続けている。他人は、友人にでも女性にでも世間にでも村にでも社会にでも国家にでも置き換えられるだろう。ひとりの人間がこの世で生き続ける限り、どうやったって、どうあがいたって、自分と他者との間には、多かれ少なかれなんらかのズレは生じてしまうものなのかもしれない。だからズレをなくすなんて所詮無理、あって当然ともう開き直ってしまえばいいものをなんとかならないか、どうかして、とつい髪振り乱してがんばってみてしまうのも人情というものだ。
中学校でクラス担任をしたこの一年、私は間違いなく髪振り乱して十三歳の中学一年生とサラリーマンから教師になった四十一歳の中年男との間に起こるさまざまなズレを味わい続けた。
自分のクラスが動き出して半年位はそのズレを自分は比較的生徒といっしょになって楽しむことができた。ズレを言動に変えて私の前に提示してくる十三歳の肩を抱いて、いっしょになっておなかを抱えて笑い合うことができた。それが、後半半年は、自分も疲れてしまったのか、いつのまにやらズレをしかりつけるようになっていた。ズレの発生源を、すべて十三歳の側だと決めつけるようにして。つまりロジンをロウジンだと聞いてしまう十三歳に対して、二学期後半以降の私は、「おまえら、何きいてるんだ。人の話はちゃんと聞くもんだ」とか「だからおまえらはダメなんだ。マンガばっかり読んでるから一般常識がまるでないんだ」という具合に頭ごなしに指摘していたような気がするのだ。
ロジンをロウジンだと思われてしまうのは、絶対的に話し手の方にも問題がある。素直にそう思えて、生じたズレを楽しむ心の余裕が、教育には必要、いや、不可欠だろう。ズレを手のひらの上にのせて転がす余裕。文章を書くこととよく似ているなと思った。
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