随筆・評論 市民文芸作品入選集
 入 選 

天寧寺
大藪町 角省三

 「てんねいじ」というお寺の名前は、幼いころから私の耳や口によく馴染んだ。たいへんなつかしい呼び名である。

 幼いころの私にとって、それ以外にお寺の名前を知らなかったのかもしれない、とさえ思われるくらいである。

 小学生のころ、今の坂道はまだ石段になっていて、遠足でその石段をみんなと一緒にのぼった記憶があるし、私の実家の先祖代々の墓が、すぐ隣の広慈庵にあって、墓参りの帰りに、誰かに手をひかれて「五百らかん」を見に行った記憶もよみがえってくる。

 「五百らかん」といわれる色の白いほとけさまが、沢山並んでいる様子をそっと扉のすきまからのぞき込んでは、何か不気味で不思議なお寺であると思い込んでいたような記憶、そしてのぞいたあと、ふり返るのがこわくて、そのお堂から急いで駆け戻ったことさえおぼろげながら想い出される。当時はきっと、お化け屋敷をのぞくのと同じ好奇心を持って、このお寺に馴染んでいたのであろうか。

 五十余年の年月を経て、今私は天寧寺を訪れ、この寺の代名詞ともなっている五百羅漢像の前に立ち、思いを新たにする。

 静かな羅漢堂の中で、井伊直弼公の父にあたる第十一代藩主井伊直中公の胸中を思いやり、随分と苦悩されたことであろうと考えるのである。男子禁制である筈の槻(けやき)御殿奥勤めの腰元若竹が、子を宿したと聞いて相手の名前を問い詰めたところ、若竹は口を固く閉じて語らない。不義はお家のご法度、城内のきびしい掟を守るためにも、と直ぐに成敗をした。ところが、後になって若竹の相手が自分の長男直清であったことが判明した。

 直中公は、若い生命を終えた若竹の菩提を弔い、そして供養する方法を、佐和山のふもと清凉寺の名僧、寂室堅光禅師に相談されたところ、天寧寺を発願建立して、そこに五百羅漢を造ることをすすめられたという。

 だから、直中公の痛恨の思いを察して、その思いが若竹と孫とに通じるようにと、魂をこめて一躰ずつを彫ったであろう京都の名工、駒井朝運の、心血を注いだといわれる仕事振りを、私達はそれぞれの羅漢像の中に見ることを忘れてはならないと思う。

 五百の羅漢像の中には、自分の探し求める顔が必ずあるという。だから、亡き人に会いたいときはここに来ればよいと思われるし、又、気持ちがふさいだ時にもここに来ればよいと思う。何故なら、羅漢像の中には、両手をあげて踊りだしている陽気ならかん様や、頭に手をあてて何かを思いだしたような表情をしたもの、そして、怒っている表情のものや、合掌している姿など、実にいろいろな姿の羅漢像が並んでいて、いつまで眺めていても興味がつきないからである。

 その羅漢堂を出ても、天寧寺はやはりどこまでもらかん様のお寺であることが面白い。

 本堂をはさんで、インド仏跡の石によって作られた「らかん石庭」という庭がある。

 そして、本堂の奥、書院の前には井伊直弼公の考えによって作られたという「禅の庭」がある。その庭は里根山の山裾に続いていて、東の山腹の岩盤上に十六ケ国の大名から井伊家に贈られたという、石造りの十六羅漢像が配置されていて見る者を驚かせる。

 禅を学び、茶道にも通じていた大老井伊直弼公も、この天寧寺には愛着を持ち、庭には桜や萩を植えられたと伝えられている。

 直弼公を供養する宝篋印塔が羅漢堂の西側に建っている。そしてその供養塔を見上げるように、直弼公の片腕であった国学者、長野主膳の墓碑が建っている。その二つの墓から一歩さがったところに、丸みのある小ぶりの石に、村山たか女、と刻まれた石碑がある。

 小説「花の生涯」の主役達が石碑の姿で勢揃いし、天寧寺は直中公ばかりか、大老井伊直弼公を偲ぶ場に早変わりもする。

 そして、私の胸の内は、羅漢像を造らせた直中公の一途の思いと、開国を夢見て桜田門外に散った直弼公の無念の思いとが交錯して、思わず熱くなるのである。

 本堂が文化八年(一八一一)建立という天寧寺は、湖東の名刹の中では古い方の寺ではなく、また、伽藍が立派で大きな寺院でもない。

 しかしながら、西の方彦根城を望み、天守閣の背後にキラキラと琵琶湖が広がる晴れた日の、境内からの眺望は素晴らしい。

 四月、桜の花咲くころ、花の下で井伊家にまつわる秘められた歴史のひとこまに思いを巡らせてみると、景色に加えてその情趣はさらに深いものとなることは間違いない。

 今では親しみさえおぼえる羅漢堂に、軽く頭をさげ、ゆっくりと坂道を下りると、吹き上げてくる風は肌に冷たい二月の風であった。


( 評 )
何度も足を運ぶごとに、天寧寺に対する愛着や、歴史に関しての筆者の知識がふくらんでゆく様子がよく分かる。「訪ねる」には、「訪ねるための心」がなければならないことを筆者は言外に語っている。

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