「老婦人との出会い」
「お早うございます」と、裏口のドアのノブを押しあけて声をかけた。朝もやの立ちこめる六時三十分という時刻なのに、すっかり身ごしらえした老婦人は、「何となく私が訪ねて来るような感じがした」と、笑みを浮かべて迎えてくださった。
私は、一人暮らしの老婦人宅を訪ねて三年目になる。大正三年生まれと言われるから今年八十五歳になられる。とても几帳面な方で、おぐしも身だしなみも乱れた姿など見たことがなく、寒い冬でも朝は五時に起きて、きれいに部屋の掃除を済まされ、まず仏壇に掌を合わされるのが日課であると聞いている。
何時だったか、「手の込んだお惣菜や背の青い魚の類は、ここのところ食することがない」と言っておられたので、不調法な私の手作りではあるが、アルミホイルに包んだ熱々(あつあつ)の甘藷や、ほうれん草のおひたし・鮭の焼物などを持って訪ねた。食卓に置いた瞬間、「すみません、こんなに親切にして頂いて…」と、目に涙をためて合掌される様子に、思わず勿体ないと私は、その手をとったような事であった。
以前、本で得た知識ではあるが、齢をとった人の老化防止には、五感を刺激する動作が大切で、特に「かむ」ことの必要性が書かれていたことを思い出し、消化の良い柔らかい食べものに片寄ることなく歯が丈夫なら、「かむ」食品をと小魚を必ず持参するように心がけたものである。
幸い今、私は健康に恵まれ、六十年という人生をただ一人で生きてこられたのではなく、多くの人々の支えによって今日まで助けられてきた。「健康は富みにまさる」と、健康体でいられることを感謝し、少しでも世の中の人のために役立たなければと思っていた矢先のことであった。
そんなある日のこと、ふと、出会った老婦人は、手押し車に身をもたれるような不自由な格好で、ゆっくりゆっくり歩いてこられたその姿に、じっとしていられず声をかけたのが、老婦人とのかかわりを持つきっかけとなったのである。
幾度か訪ねるうちに、お互いに少しずつ心をかよい合わせ、世間話もできるようになったある日、新聞を読むのも面倒臭いと言い出され、人と話すことも、外に出ることも煩わしいと自分を追いつめて、家の中に閉じこもるようになられた。近所の人からは、一人では火の始末など危険であると、うとまれるようになり、ガスも止められると言う事情である。私は、いたわしい老婦人の暮らしぶりを見かねて、週二回訪ねることにした。寒い冬の日は温かい食物を、夏は少しでも食が進むようにと心くばりをしたが、しょせん家にこもりがちな老婦人にとって、痴呆が急速にすすむ様は見るに忍びなかった。現在は、家族の人達のはからいによって、遠方の病院に入っておられる。
かつて、私が訪ねるたびに老婦人は「因果応報」という言葉を口にしておられた。老婦人の話によると、「私は、一度たりともお姑さんに口答えをしたことはなく、ひたすら仕えてきました。」と、それなのに長男の嫁からは、優しい言葉の一つもかけられたことはなく、「因果応報」ということは存在しないと、悲しい口癖が思い出される。
老婦人には、四人の子供が健在でそれぞれに社会的にも立派な地位におられるとのことであるが、老境に病む親の面倒は、公的な施設に預けられるといった悲しい現状である。
老いは平等にやってくるものである。親と子の血のつながりがあっても、それぞれ離れ離れに生活をしなければならないことは、年寄りにとって寂しいことではなかろうか。
ご主人亡きあと二十年間、家を一人で守ってこられた老婦人である。いま、人影の絶えた屋敷やお墓の草取りから掃除まで、凡てを立派に活躍されているご長男が、人任せで取り仕切っておられるとのことである。
現今、増えつづける親子の断絶と核家族、閉ざされた独居老人の生活などをまのあたりにしていると、大切な家族の絆は、どこへいってしまったのだろうかと思われる。痴呆に病む人を家族で看取る手だてが容易でないことはわかっていても、私の訪ねるのを心待ちにしていて下さった、かのお姿が思い出されてならない。テレビを唯一の楽しみにしておられた老婦人は、今、冷たい天井と向かい合って、病む心を癒されることもないだろうと思いやるとき、しみじみと人生のはかなさが脳裏をよぎる。
老婦人とて愛する家族のために命をかけて、幸せな日々をつちかってこられた事であろうに、老いの向こうには、『楢山節考』をかいま見る哀しさがある。私がふと巡り合った老婦人とのかかわりから、一つしかない命、これからの日々を充実させなければと思うこのごろである。
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