ある戦争の「語り部」
これは、山田さんという先輩から聞いた話である。あれから五年近くになるが、今だに忘れることができない。訥々(とつとつ)とした、そしてクドクドしい語り口ではあったが、心に響くなにかがあった。そのときの記憶を頼りに、なんとかまとめてみたのだが、読み返してみると、それが少しも感じられない。それでも、せめて彼の想いだけでも伝えることができれば、と思っている。
その山田さんも、今はこの世にはいない。こうして、戦争の「語り部」が次第に失われてゆく。淋しいことである。
私は昭和二十年の春、南九州のある飛行基地に整備兵として配属されていました。これでも一応ベテランのうちで、部下を五・六人使っていました。いまでいう中間管理職といったところですか。
当時沖縄では、我が軍の絶望的な抗戦がくり返されており、私のいた基地からも体当り攻撃隊、いわゆる特攻隊が三日をあげず出撃してゆきました。私たちは特攻隊の飛行機の整備が任務だったのです。
ところが、その飛行機に故障が多いのには苦労しました。その第一がエンジン関係で、ひどいとこにはほとんど全部が不調、というときもありました。修繕しようにも部品の不足は慢性的。オイルもガソリンも粗悪品。それでも不眠不休で頑張ったものです。
その甲斐もなく、出撃予定機数がそろわないことは再三あり。上からは散々文句をくらいました。しまいには「明朝の出撃は十機。無理は分かっているっ。とにかく上がって海にでればよいのだっ。なんとかしろっ」などと言い出す始末。始めのうちは反発もしたのですが、次第にその気もうすれ。少しくらいのことには心を動かすこともなくなってゆきました。そんな日々を過ごしていたある晩のこと、私にとって生涯忘れられない出来事がありました。
翌朝の出撃に備えて飛行機を整備していますと、数人の特攻隊員がでてきました。私たちのいた場所から十メートルも離れていたでしょうか。それぞれの方角に頭を下げているのです。あとから思うと故郷に別れを告げていたのですね。そのうちに「オカーチャーン」という叫び声がし、それにつられるように皆が声を上げて泣きだしました。無理もありません。二十歳(はたち)になるかならないのに、何時間か後にはもうこの世には居ることができないのですから。誰かがポツリと「ムゴカこつなー」と言ったのを覚えています。
それからというもの、特攻隊員たちの様子が気になるようになりました。見ていると、あの晩ほどではないけれども、そのほとんどが出撃の前の晩には泣いています。大抵は人目につかないところで。一人で。ときには二・三人で抱き合って。そして翌朝、歯を食いしばって飛行機に乗り込みます。今でもそのときの情景がありありと目に浮かびます。
そうこうするうちに敗戦。いったい、特攻隊員をはじめとする若者たちの死はなんのためだったのか。考えれば考えるほど虚しくなりました。そのうちに、私は彼らを死地に追いやる手助けをしていたのではないか。との罪悪感に捉われ、ずいぶん悩みました。ずいぶん悩みました。ある宗教に入って荒行をしたこともあります。身体をいじめることによって、そのようなことを忘れたいと願ったのです。
そんなある日、ふと閃いたのです。こんなことをしても、自分のしたことからは逃れられない。申し訳ないと思うのなら、償いをすればよいのか。私なりに考えるうちに、亡くなった若者たちの慰霊をしなければならないと気付きました。まず私のいた基地から始めることにし、二十何年ぶりかでそこを訪れ、祈りをささげました。あたりの様子はすっかり変わって、当時を偲ぶものはほとんどありませんでしたが、感無量でした。なぜもっと早く来なかったのか、と後悔したものです。
それからは、特攻基地跡はもちろん、沖縄の戦跡も巡礼者として訪ね歩きました。いつの間にか、家内もついてきてくれるようになりました。ありがたいことです。日本国内はほとんど回りました。海外は、ルソン島とサイパン島、それにグァム島だけです。行きたいところはまだまだあるのですが、なかなか思うにまかせないのが残念です。それに、この頃なんだか体が弱ってきましてね。
ところで、孫やその友達にもこういう話をすることがあるのですが、遠い昔の話ではないのに、ピンとこないようです。私の口下手のせいでしょうか。それでも、戦争になれば真っ先に死ぬのは君たちだよと。なんとか伝えたいのです。もう二度と聞きたくありません「オカーチャーン」の叫び声は。
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