八月の靴音
毎年8月の15日を過ぎた頃、Mさんから残暑見舞いが届く。
手漉きの和紙に上品な水彩画が描かれたお手製の残暑見舞いは、一年を通して我が家に届くすべてのはがきの中でもっとも趣のあるものだった。
しなやかで芯のある小筆字には家族の誰もが驚嘆したし、それが他の誰でもなく私に宛てられたものだということが嬉しくて、私はMさんからの残暑見舞いを毎年愉しみにしていた。
去年の夏、届いた残暑見舞いと、それまでずっと残しておいた束を合わせて枚数を数えてみた。
Mさんの残暑見舞いは、ちょうど20通あった。
22年前Mさんと出会ったのは、私が14歳の中学生の時で、夏休みの最中お盆を少し過ぎた頃だった。その時彼は60代半ばに見えた。
その翌年から残暑見舞いを毎年欠かさず頂戴したことになる。
22年のあいだに、私は中学を出、高校を卒業して社会人となり、二度の転職ののち所帯を持った。そのつど私は残暑見舞いの追伸という形で報告をした。ここ数年は妻が妊娠をした、子供が寝返りを打ったと、もっぱら息子の成長の報告になっていた。
私は毎年8月17日に投函することにしていた。その日に特別な意味があるわけではなかったが、先に書き終えた年はその日まで机の上にあったし、うっかりしていた年には買い置きの官製はがきに走り書きで済ませたこともあった。意識して毎年同じ日に投函することで、私はふた昔も前にたった一度出会っただけの一人の老人との関係を保とうとしていたのかも知れない。
残暑見舞いは、いつもお互いの投函と入れ替わるように届いた。だから、どちらも相手の文面に対する返事が記されることはない。
私にしてみれば近況報告がMさんへの返事でもあった。
私は今年も17日に、シールにした息子の写真を貼って、こんなに大きくなりましたと書いたはがきをポストに入れた。
私は毎日郵便受けを覗き、その日届いた手紙の中にMさんの字を探した。しかし、私が投函してから3日経っても4日経っても目当てのものは見つからなかった。
それから一週間ほど経った頃、ぽつりと一通のはがきが届いた。差出人はMさんの娘さんと称する人だった。
私は思わず小さな声を漏らした。
はがきには、私が出した20通の残暑見舞いが、Mさんが貴重品をしまっていたブリキの箱から見つかった経緯が書かれてあり、亡き父とともに貴方様の息災をお祈りします、と結んであった。
郵便受けにそのはがきを見つけた私は、妻に見せないまま机の引き出しにしまった。どうしてだか自分でも分からない。Mさんの死を自分なりに受け入れる時間が欲しかったのかも知れない。
「Mさんが亡くなった」
そう妻に話したのは、二日経ってからだった。
「残暑見舞いの人?」
と妻は訊き、私の顔色をうかがった。
妻は私とMさんの関係をよく知らなかったし、彼の死が私にどのように関わる出来事なのか分からなかったのだろう。
私自身、Mさんの顔すらはっきりと思い出せない。一年に一度届くはがきこそがMさんだったような気もするし、彼が絶え間なく届け続けたメッセージこそが、私にとっての彼自身だったのかも知れない。
「ただの古い知り合いやから、とくにどうこうするわけじゃないよ。はがきには今年の二月に亡くなったって書いてあったから、もう半年も前に亡くなってたんや。いずれにしても、形式ばった事は何ひとつ必要ないんや」
私はそう言いながら、Mさんも同じ思いに違いないと思った。
「それにしても妙なおつき合いだったわね。年賀状だけって言うならまだ分かるけど、残暑見舞いのやり取りだけなんて。暑中見舞いじゃなくて残暑ってとこも」
「そうや、変わった関係や。俺の齢も孫にもひ孫にもあたらん中途半端やしな」
「Mさん、残暑お見舞い申し上げます、の他にはいつも『頑張れ!』としか書いてないのよね。それも毎年同じ」
妻はそう言って笑った。
「そう毎年『頑張れ!』って。でもな、普通に生きてても毎年頑張らなあかんことが次々出て来るもんや。だから、その時その時の出来事に対して励まされているような気がした。頑張らなあかんことを乗り越えて、積み重ねて行くのが人生なんやって教えてくれてはったんや。」
「Mさんって、凄い人だったのかも知れないね」
妻の言葉に、初めて逢った時のMさんの姿がぼんやりと浮かんだ。
記憶はしだいに鮮明になってゆく。
「うん。…凄い人や」
と私は言った。
22年前の夏、私は中学2年生だった。
その夏、夏休みを利用してどこかに出掛けようと、クラスの友人二人と計画を立てた。
私は自転車旅行をしたいと提案した。その頃の雑誌には、前輪にも後輪にもバッグの付いたサイクリング車の広告がたびたび載っていたし、事実若者のあいだでは自転車旅行がちょっとした流行となっていたからだ。
もちろんそんなサイクリング車は高嶺の花だったが、私は「貧乏旅行」と総称される当時の若者の旅のスタイルに言いようのない魅力を感じていた。
二人の友人も同じようなことを考えていたらしく、私の提案はすぐに受け入れられた。
両親に許してもらえるか不安だったが、昔バイクで日本一周をしたことがあるという友人の父親が、熱心に後押しをしてくれたお陰で三人揃って出掛けられることになった。
友人の父親のアドバイスのもとに、私たちは計画を練り装備を整えた。
行き先は福井県の北にある友人の親戚の家に決まった。着いた日はそこで一泊お世話になる。
往復で6日間の旅だった。もしも一日二延びることになっても、テントを使っての野営だからさほど問題にはならないだろう。
具体的な道程は地図を広げて自分たちで考えた。
出発前夜、自転車を整備していると父が来てミシン油を注してくれた。母はずいぶんと心配しているようだったが、家の中では父が収めてくれていた。
「お前そんな普通の自転車で行けるんか?タイヤもだいぶん減っとるやろう」
父がくたびれた自転車を見ながら訊いた。私は自転車をぼろ布で拭きながら、行けると言った。
中学に入り、私は家庭の懐具合というものを何となく把握できるようになっていた。友人が変速機付きのサイクリング車だということは言わなかったし、旅の道具も家にある物ですべて間に合わせていた。
「何か必要な物があったらお母ちゃんに言うて買うてもらえ」
「ええの?」
私は思わずそう聞き返したが、出発は翌朝に迫っていたし、用意は全部済んでいた。
しかし父のその一言は、どんな具体的な声援よりも私を励まし勇気づけた。
「どこに泊まるんや」
「テント。友達が持って来よるでええんや。一人ずつ用意する必要はないさかい」
「もしどうしても困ったら、どこかお寺さんの軒先でも借りたらええ。なんならお父ちゃんが一筆書いといたる」
父の言葉に私はもう一度「ええんや」と言った。
他に要る物なかったかなあ、私がぽつりとひとりごちると、父は思い出したように家の奥に行き何かを持って戻ってきた。六角レンチと芯を抜いて潰したガムテープ、それに小さく丸められた1メートル分程の針金だった。
「荷物にならんで持っとけ」
と差し出しながら
「何かあったらかなん言うて、何でもかんでも持って行けへん。何ぞあったらその場にある物で工夫するんや。物だけやないぞ、何が起きるかわからん、その場で考えて判断することが大事なんや」
父は私の顔を見ながら噛んで含むように言った。私はそれまで父のそんな真剣な顔を見たことがなかった。私は神妙に頷きながら、父は父なりに心配してくれていることを有り難く感じた。
スポーツバッグを荷台に括り付け、貴重品はリュックサックに入れた。
翌朝、父に借りた腕時計は午前六時をさしていた。陽はすでに昇り、青空が真夏日を予感させる。
「これ持って行け」
父はそう言って、新品の十得ナイフと折りたたんだ2千円札を差し出した。
「お金はお母ちゃんから貰てる」
私が、缶切りやドライバーの付いたナイフだけを受け取ろうとすると
「なんぞのときのためや」
と父は私のズボンのポケットに2千円を押し込んだ。母は笑って見ていた。
「ほな行ってくるわ」
時間をかけて整備した自転車は生き返ったようにカラカラと心地よい音をたてて地面を滑り始めた。
道すがら友人を誘って行く。それぞれの両親が玄関で見送ってくれた。
私たちは交通量の多い国道をできるだけ避けて農道や村の中の生活道路を走った。
海沿いの道も魅力的だったが、一直線に峠を越えるルートを選んだ。順調に行けば日が暮れるまでに山は越えられる。そこさえ過ぎればあとは平地が続いていた。
峠を越える山までは、世間話をしながら難なく進めた。
麓の村で公衆電話を探し、母との約束どおり家に一度連絡を入れ、次の連絡は山を越えてからだから夕方か夜になると告げた。
時計を見ると正午にはまだ時間があった。時間的に考えれば、峠の頂を半分とする必要はない。下りは登りの三分の一もかからないはずである。山は早く日が暮れるとは言え、午後5時ならまだ明るいだろう。
計画では残りは6時間、3時過ぎに峠を越えればよかった。
自転車でこんなに遠くまで来たのは初めてだ、と三人ともが言い、延々と先に延びる上り坂を見つめながら、体力的な不安をそれとはなしに口にした。
それでも私たちはペダルをこぐことを止めなかった。不安とは裏腹に体は別の意志を持つかのように風を受けて喜んでいる。
私は、自分で考えているよりも強かなのかも知れないと思った。
私はもうひとりの自分に引っ張られるように先の頂を目ざした。
最後であろう村を過ぎると、道はいちだんと急になり人影はまったく見えなくなった。
坂は時折緩やかになったが、上り坂が延々と続くことに違いはなかった。私たちは時々自転車を降り、押して歩くことになった。
汗が背中をぐっしょりと濡らし、陽に灼けた腕や首筋がひりひりと痛む。
ようやく辿り着いた峠の頂は、それまでの延長のような緩やかな斜面だった。想像していたような四方を見渡せる頂ではなく、左右を林に挟まれたまま勾配のない道路が、しばらく続いているだけだった。
私たちは自転車をとめて道路に大の字になって寝転んだ。
脇の日陰に入り水筒のお茶を飲むと、みるみるうちに汗はひき、疲労の限界にきていた足腰の筋肉も幾分楽になった。
握り飯を頬張り、少し休んでから早々に出発することにした。
あとは下りである。ペダルをこがぬとも麓まで自転車は滑り下りるだろう。最初の下り坂までのペダルも軽い。
自転車は風を切りながらぐんぐんとスピードを上げ、私たちはオートバイを運転するようなスリルを味わった。上り道では気にもとめなかった草木の匂いを愉しみ、蝉の合唱の中を進んだ。
幾つ目かのカーブを抜けた瞬間、視界のすみに白い人影が現われた。
陽の高い時間でなければ、腰を抜かしていただろう。老人は一人きりで麓へ向かってゆっくりと歩いていた。
「こんにちは」
私はスピードをゆるめ、振り向きながら挨拶をした。そのまま追い抜いてしまってもよかったのだが、その老人が生身の人間だということを自分の目で確認しておきたかったのである。
追い抜いてから振り向くと誰もいなかったなんてことは、御免被りたかった。
先に進んだ二人も同じ思いだったのか、徐行しながら何度も振り向いていた。
老人は私の声に顔を上げた。「ああ」だったか「やあ」だったか、少し苦しげな声で応えた後ゆっくりとして口調で「こんにちは」と言った。
私が老人の歩調にスピードを合わせると
「自転車旅行かね。どこまで行くんだい」
と微笑ながら話掛けてきた。
「石川県の手前まで。友達の親戚の家です」
そう答えながら、老人は何をしているのだろうと考えた。
陽に灼けた顔や腕は、筋肉の衰えを感じさせなかったし、開襟シャツに灰色のズボン、編み上げの革靴といった風体は何かの研究をしている先生のようにも見えた。首には手ぬぐいを巻き背中には小さなリュックサックを背負っている。白い帽子から短く刈られた白髪がのぞいていたが、小柄なシルエットはまるで少年のようでもあった。
「何か調べているんですか?」
私の唐突な質問に、老人は少し戸惑ったようだったが、やがて私の質問の理由が分かったらしく、少しはにかんだように
「いえ、ただの遠足ですよ、遠足」
と微笑んだ。
私はその答えが可笑しくて笑った。
「それじゃ気をつけて。さようなら」
どちらともなくそう言うと、私は前を向いてペダルと二三度踏んだ。しばらくして振り返ると、老人はさっきと同じように、自分の靴を見つめるような姿勢のまま歩き続けていた。
下り坂は、たえずブレーキレバーを握りしめていなければスピードが出すぎるほどで、カーブに差し掛るたびに、私はオートバイレースのように車体を傾けた。
先の二人になかなか追い付けない。私はペダルを踏み込んでさらに加速した。
何度目かのカーブを曲がろうとした瞬間、突然前輪が横滑りし、私は自転車もろとも道路に放り出された。
驚きの声を発する暇さえない一瞬の出来事だった。景色は一回転し、ガシャンという大きな音だけが頭に響いた。
「しまった」
意識はあったが、すぐに動くことはできなかった。
友人たちは気づかないまま麓まで行ってしまうのだろうか。そうなればここまで引き返して来るにはかなりの時間が要るだろう。言いようのない不安が脳裏をかすめる。
私はゆっくりと首を動かし、次に手と足を慎重に動かしてみた。
左の肘を打ちつけたらしく、刺すような痛みが走る。足も痺れて立ち上がることが出来ない。首を持ち上げて自転車を見ると、5メートル程先で横倒しになっていて、その先にスポーツバッグが転がっていた。
やっとのことで上半身を起こすと、左肘から血が流れ出ていた。傷口には砂や小石がめり込んでいる。痛みをこらえて裸足になると左足首が青く腫れ上がっていた。
私はもう一度仰向けになった。脳裏に私に気づかないまま下り坂を走り下りて行く友人たちの姿が浮かんだ。
しばらくして、私は這うようにして自転車のところまで行った。
スタンドを立てて点検するまでもなく、荷台の支柱と、ペダルが片方折れていることが分かった。
「大丈夫かね」
その時、うしろから声がした。
さっきの老人だった。
「自転車が壊れてしまいました」
老人は私と自転車を交互に見、まず傷の手当をしなさいと言った。
「はい。まず傷口を洗わんと」
私はそう言ってから、その辺りに小川も湧き水もないことに気づき、水筒のお茶で傷口を洗った。お茶には殺菌作用があることを母から聞いたことがあったのだ。軟膏をすり込んで絆創膏を貼り、足首の捻挫には肩凝り用の小さな湿布を貼った。
「パンクの修理セットと簡単な工具ならあるんやけど」
私はひとりごちながら工具セットの包みを開いた。その中に溶接の道具があるならば話は別だ。やはりどうにもならないと思った。
「ちょっといいか」
老人は工具の中から六角レンチを二本取り出して、荷台の支柱の折れた部分にあてがった。真ん中ではなく支点の付近で折れた支柱を補助するには、L字型の丈夫な物を組合わせて添え木にすることは、見た目にもかなり有効であった。六角レンチは針金で頑丈に縛り付けられた。
スポーツバッグを括り付けてもびくともしなかった。
私は老人の手際の良さを呆気に取られて眺めていた。
「すごい、すごい」
私は礼を言うのも忘れて老人を讃えた。
「何してるんや」
友人たちの大声が聞こえた。二人は坂をゆっくりと引き返して来る。
「転けて、自転車傷んでしもたんや」
私が言うと、老人に気づいた友人がぺこりと頭を下げて「どうも」と言った。
「最後まで下りてたら、上がって来られんところやぞ」
もう一人の友人が汗を拭いながら言った。
「あのな…」
その時、私の額にも別の汗が流れていたのだった。
「足が痛いんや。ちょっと力を入れると痛うてたまらん」
「どうするんや?」
私はさっき仰向けでいた時に考えた事を話すことにした。
「僕はもう一緒に行けへん。お前ら二人で行ってくれ。麓まで自転車押して下りて家に電話するわ。車やったらほんなに遠くない距離やし、親父が軽トラで迎えに来てくれると思うで」
二人は残念がり私を慰めながらも何とか一緒に行くことは出来ないかと繰り返したが、たとえ自転車が故障していなくても、ペダルをこぐだけの力が込められないのだと私は言い、二人が想像しているほど僕は悔しくも悲しくもないから、どうか気にしないで先を楽しんで欲しいと言った。
「ごめんな」
私たちはお互いにそう言い合った。
二人は麓についたら取り敢えず私の家に連絡を入れておく、と言い残して出発して行った。
私は折れたペタルをリュックサックにしまい、自転車を押して少し歩いてみた。何とか歩けそうだった。私は老人に訊いた。
「遠足て、どこまで行くんですか?」
「とくに行き先を決めて歩いているわけじゃないんだ」
「途中まで一緒にいていいですか?」
と私が訊くと、
「足が痛いなら、自転車は杖がわりに自分で押す方が楽だろう」
と、私のリュックサックを受け取った。
もしも彼がいなかったらどんなに心細いだろう。一人でリュックサックを二つ背負う小さな老人を見つめた。
「有難うございます」
私は彼がその場に居合わせてくれたことに感謝した。
私たちはゆっくりと歩きながら話をした。老人は自分からは多くを語らなかったが、私の質問にはこちらが恐縮するほど誠意的で丁寧な受け答えをしてくれた。
私が話し掛け、老人が一言返す。そしてしばらく蝉の声や木々の騒めきに耳を傾ける。
ほんの少しの会話を肴に山の空気を愉しむといった雰囲気があった。
しかし、いつしか私は老人の話に引きつけられ、次の言葉を発するタイミングの到来を待ち焦がれるようになった。
老人はMさんといい、毎年夏の同じ頃こうして山歩きをする。数年前に定年を迎えた以前からもお盆休みを利用して歩いていたという。
普段の生活は、長男夫婦と同居し孫も二人いる。奥さんも健在らしい。
「毎年違う山を歩くんですか?でも登山とはちょっと違いますね。峠を徒歩で越えるのが好きなんですか?」
「いや、とくに山でなくてもいいんだよ。でも夏でないと駄目だな。何日間か歩き続けることも大事だ」
私はMさんの言葉を頭の中で繰り返しながら次のタイミングを待つ。
「何日間もですか?野宿するんですか?」
Mさんは小さなリュックサックしか持っていなかった。それに、これまで何日間も野宿をしてきたような服装には見えなかった。けして高価で新しい衣服ではないが、きちんと洗濯された清潔そうな服装だったのである。
Mさんが、家族には内緒なのだとぼそりと言ったことが、私の興味を駆り立てた。
家族はMさんが友人とのんびり温泉旅行にでも出掛けていると思っているらしい。
「服は、着替えはどうしてるんですか?」
「ときどき洗う。お寺や公園の水道を借りてね。今なら一晩で乾くから着替えは何枚も要らない」
見れば傘も持っていないようだった。
「雨も…、乾きますものね」
私が言うと、Mさんは笑った。
その後、道端に腰を下ろして休憩をした。足の痛みは相変わらずだった。
Mさんも靴を脱いだ。私は思わず声を出しそうになった。彼の白い靴下の爪先が真っ赤に染まっていたからである。
「日頃歩いていないから、すぐ豆が出来てね」
Mさんはそう言って笑いながら、靴下を脱いであちこち皮が破れて血が滲んだ爪先を擦った。まるで傷だらけの足とその痛みを愛しむようにゆっくりと何度も擦っていた。
「食事にしても山の中やとそう店もないでしょう」
「そうだね。どこかでパンを買っておいたりたまに食堂があればそこに入ることもあるけど、食物が無ければ無いでそのまま歩くんだよ」
「飲まず食わずですか?」
「そういうことになるな」
私は話を整理すればするほど頭が混乱した。
「真夏に、何日間も、飲まず食わずで、野宿で、ただ歩くことが目的の…遠足でしたよね。足から血が出るほどの…」
「そのとおり。暑ければ暑いほどいい」
「何か修行みたいな意味があるんですか?」
私は思わずそう訊いた。
「腹ペコの時に食事の事を考えるの、楽しいだろ。あれ食べたいなぁ、とか次はあれを腹いっぱい食べるぞ、なんて」
Mさんはいたずらっぽい目で言う。
「でも考えるだけっていうのは、よけいに辛いんと違いますか?」
「食物が無い時代があったことは知ってるだろう」
「はい、両親から聞いたことがあります。食べ物を粗末にすると、そう言って怒られます」
「腹がへると食物の有り難みがよく分かるんだなあ」
Mさんはそう言って笑った。
そして、少しあいだをおいてから、私にこう訊ねたのだった。
「君のお祖父さんはいるのかね」
私の母方の祖父母は健在だったが、父方の祖父は父の幼い頃に亡くなっていた。何故か私は、その祖父のことを訪ねられたような気がした。
「兵隊に行って戦地で亡くなりました。でも鉄砲の弾に当たったんと違うて、病気で死んだそうです。父も小さかったからお祖父さんのことはよく覚えてない言うてました」
私がそう答えると、Mさんはふと淋しそうな目をしたように見えた。
「そうか、君のお祖父さんは君を知らないんだなあ」
最初私は、私が祖父を知らない、と言ったのかと思った。
「…そう言うことになりますね」
お祖父さんは僕を知らない、と反芻してみる。考えてみれば、祖父は父の成長すら満足に見届けられなかったのである。父の結婚相手も生まれた私も知らないのである。
「そういう風に考えたことなかったけど、何か口では言えんほど気の毒で淋しいことですね」
そう言ったとたん、私の中を何かが突き抜けた。それまでのMさんとの会話が色めき立ち、数々の疑問が静かに氷解してゆくような気がした。
溶けて溢れだした言葉にならない感情で、私の胸はいっぱいになった。
黙ったまま私を見つめるやわらかい視線を感じながら、私は自分の膝に顔を埋めるしかなかった。
「足が痛みだしたのか」
Mさんは訊いた。
「はい」
と私は答えた。 ―――。
別れる間際私はMさんの住所を聞いた。後でお礼の手紙を書こうと思ったからだ。Mさんも私の住所を訊ねながら、
「毎年遠足を無事に終えたら、報告の代わりに君にはがきを出すことにしよう。私の遠足のことを知っているのは君だけだからね」
と言った。
目印となる大きなお寺の庭先に腰を下ろし父の迎えを待った。すこしばつが悪いが、なぜか気分は良かった。
日は暮れて辺りは薄暗くなっていた。
Mさんが冷たい缶コーヒーをご馳走してくれた。二人でそれを飲んだ後、彼は
「それじゃ、頑張って」
と右手を差し出した。私は手を握り返しながら何度もお礼を言った。
そして再びゆっくりと歩き始めたMさんの後ろ姿をいつまでも見送ったのだった。
あれから22年のあいだ、Mさんは一度も欠かす事無く毎年遠足を続けた。22年とは私と出会ってからに過ぎない。おそらくは、その倍の回数に及んだのであろう。
彼がただの遠足だと笑った斎戒の行は、鎮魂と、忘却への自戒の想いを込めたたった一人の行軍だったのだ。
私は、Mさんが永遠とも言える夏に彷徨う姿をただ見つめ、遠くから無事を願うことしか出来なかった。
そればかりか、逆に毎年、千金の重さの一言をもって励まされて来たのである。
目覚ましい日本の変貌は、Mさんの瞳にはどのように映っていたのだろう。
私の胸を熱くさせるのは、Mさんがけして特別な人ではなかったということだ。ごく普通の優しいお祖父さんであり、家族とともに過ごす平穏な日々を何よりも大切にする、静謐な人だったということである―。
夏野菜や川魚が生き生きと描かれた残暑見舞いを机の上に並べてみた。
胸に抱いた息子が嬉しそうな声を上げて手をのばす。
「頑張れ」
「頑張れ」
私は静かに目を閉じ、息子を抱く腕に力を込めた。
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