わが闘病の記録
昨年九月、生まれてはじめて、入院をすることになった。きっかけは、八月に教育テレビで放映された健康番組である。番組担当医の「下腹部に腫れがあって痛みがない場合は淋巴腺腫の疑いがあるから要注意」という言葉が妙に気になった。ちょうど私の下腹部の症状が符合していたからである。
気分の晴れないままに、幾日かが過ぎたが思案の末、腹を括って、ある日、かつて罹ったことのある市立病院泌尿器科医師を訪ねた。「先生今日は別の事で」と診察を乞う……。診察の結果、
「これは淋巴腺腫ではありません。ヘルニアです。痛みがあれば手術が必要です。一度外科外来で見てもらって下さい。」
淋巴腺腫の疑いは晴れたものの、一難去ってまた一難が私の上にのしかかって来た。
それから数日後、市立病院外科外来で診察の結果、鼠径ヘルニアと診断され、一週間後の入院を言い渡された。
入院の当日、医事外来で所定の手続きを済ませると、担当看護婦に伴われて病室に案内された。私の希望に反し部屋は相部屋であったが、同室の人たちは私と同年輩の気さくな人たちで、聞けば私と前後して手術をする人ばかりである。。同病相憐れむというか、手術を共にする運命共同体のようなこの人たちに、私は親近感を覚えた。
午後からは、家族の出入りが多くなって案内が賑やかになった。家族のいない私にはちょっぴり淋しい光景であるが、夫を気遣う妻の言葉の中にも、人それぞれの病状によって、微妙な違いを見せる人間心理を垣間見た気がした。
入院して三日目、いよいよ手術の日を迎えた。その日は朝から、これから手術室へ向かう人、病室へ戻ってくる人、室内はざわついていた。私の手術予定は午後三時からであったが、予定より十分早く、ストレッチャーに乗せられて手術室に着くと、主治医である執刀医がやや緊張した面持ちで、今や遅しと待ち構えていた。
手術台に移しかえられ、局部麻酔がかけられると、副院長立ち会いのもとに手術が始まった。メスが下腹部にあたった瞬間、痛みが走ったが、あとは大体、予想通りであった。30分くらいたっただろうか。胸部に重石のようにのしかかる血圧計の圧迫に呼吸困難を来たしたので、その旨を看護婦さんに告げると「郡田さん、もう少しの辛抱だから我慢して」副院長から励まされ、何とか耐えているうちに、今度は「手術終わったよ」と副院長の明るい声が聞こえてきた。再びストレッチャーに乗せられ、もとの通路を通ってわが病室に着いた。これですべては終わったんだと、わたしはほっと安堵の胸を撫で下ろした。だが、その晩、予想だにしないことが起こった。
術後四時間が経過し、麻酔が醒めるのを待って、排尿のためトイレに立ったが、小水は出なかった。その後30分間隔で、同じ行為を繰り返したが、小用を足すことはできなかった。やむなく看護婦さんを呼び寄せ、排尿の処置をして貰ったが、看護婦さんから、「尿は出ている」といわれても、私には全然、排尿感がなかった。
「そんなに心配しなくても朝になれば必ず出るから」彼女の言葉を信じ夜が明けるのを待ちかねるように、祈るような気持ちでトイレに立つと、ようやく小水が出て、私をパニックに陥し入れた延々9時間にわたる苦闘に終止符を打った。
手術という大きな山場を越えて、私は予定通り一週間後に退院することになった。手術は主治医の言うように簡単にはいかなかった。だが、収穫もあった。病院は想像していた以上に明るく、活気に満ちあふれ、患者とのスキンシップを大切にしながら診療に取り組む若き主治医や、看護婦さんたちの真摯な姿には、新しい時代の息吹が感じられた。殊に手術時に「頑張って」と声をかけてくれた同室の人たちの温かい言葉は、今も私の記憶から消えることはない。
退院して数日後、私は新聞で同室のAさんの訃報を知った。それも、不慮の死と聞く。Aさんのベッドは廊下ぞい、私のベッドは対角線上の窓際に位置していたが、散歩に出かけるときは、どういう訳か私を誘い「退院したら孫を連れて魚釣りにいくんや」と、元気なところを見せていたのに、その彼がなぜ死を……。彼とは退院後、旧交を温めたいと思っていたが、人の心の深層は、計り難いものである。残された家族の心痛を察すると、言葉も出ない。この世の儚さを改めて思い知らされた。
なにはともあれ、無事退院できた。これからは元の一人暮らしの佗しい生活に戻るが、これも天与の試練と思えば良い。今日の一日を大切にしながら、残り僅かな時間を懸命に生きたいと思う。
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