川ざらえ
太一が引き逃げで逮捕されたというニュースをテレビで知ったのは一週間位前の夜だった。フロから上がって地元のテレビ局のチャンネルにたまたま合わせて、ぼんやりブラウン管を眺めていたら、水島太一という名前が画面に浮かび上がってきた。目にした瞬間は同姓同名だろうと思ったが、事故が起こった場所や、職業など、キャスターが告げる交通事故の詳細を耳にしていくにつれ、それはやはり幼友達の太一に思えてならなかった。太一と私は同じ小、中学校を出ている。その九年間、私たちは実によく遊んだ。けれども中学校を卒業してからこの二十五年余り、ほとんど言葉を交わしたことがない。本当に太一なのだろうか?半ズボンをはいて甲虫つかみや鮎釣りや紙飛行機とばしなどに熱中していた、後頭部にちょうど一円玉位の大きさの三日月の形のハゲがあった。中学の時はクラスメイトと喧嘩する度にしょっちゅう泣いていたあの太一なのだろうか、ずっと半信半疑だった。太一の車は深夜の県道の横断歩道で七十六歳の老人をはねた。そして、太一はその場から走り去った。老人は重体になったものの一命は取り留め、事故の翌日の朝、太一は警察に出頭した。
昨日、私は偶然にもその太一の伯母、和代さんと会って、言葉を交わしたのだった。和代さんは私と同じ町内に住んでいる。昨日の日曜日は、朝八時から町内の川ざらえがあって、その休憩の時、茶碗を片手にたまたま和代さんと話す機会ができた。私は別に川ざらいで和代さんに話そうと思っていたわけではないし、太一の逮捕の件を聞き出そうとしていたわけでもない。
太一の家は、私の家から三キロばかり離れた山間部にある。小学校の時、私は一体何度太一の家に遊びに行ったことだろう。太一の二つ下の弟と三つ下の弟は、あの頃、いつも必ず鼻水を垂れていたような気がする。そして、二人の弟の手にはチキンラーメンが握られていて、そのインスタントラーメンを生のまま千切っては千切っては口にほお張っていた。二人が歩く後にはその砕いたラーメンのかけらが畳にこぼれ落ち、それを拾って歩くのが太一の祖母、おていさんの役目だった。私が小学校の頃、おていさんは七十歳前後だったと思う。長年の田畑仕事のせいでおていさんの腰は見事なまでのくの字に曲がっていた。家と物置小屋の間に便所があった。便所は家の中にはなかった。天気のいい日おていさんはおびただしい量の洗濯物を便所の前に川の字を書いた三本の長い竹竿に干していた。だから便所に入る時、白いシャツやパンツをのれんのようにくぐらなければならなかった。「ようきたってや」と、おていさんは私を見る度に皺だらけの顔に満面の笑みをたたえて威勢のいい声を出した。
一週間に一度は行っていたように思う太一の家であったが、私は太一の父と母の記憶がきわめて薄い。今懸命に思い出してみると、私は実際幾度か太一の父にも母にも会っているのだ。なのに、太一の家族の中で、映画を見るように鮮やかに姿形が思い出されるのはおていさんである。
太一の父は地元のセメント工場で働いていた。そして太一の母は彦根の居酒屋で働いていると耳にしていた。太一が小学校三、四年の頃だっただろうか、太一の母が四国から山の人夫として出稼ぎに来ていた男とかけおちして家を出て行ったという噂を聞いた。それから、太一の父の生活が荒(すさ)んでいく。セメント工場をやめ、職を転々と変え、ひとつの職場を辞める度に大酒を飲んでは暴れていたという話だ。
シミーズだけの格好で鏡に向かって白粉を塗っていた太一の母の後ろ姿と、一升瓶を片手に胡座をかいていたステテコ姿の太一の父の横顔を、古い肖像画を暗い画廊の中で遠くから見るように、微かに今思い出すことができる。その二枚の肖像画に象徴される太一の両親の姿は、子供心にも見てはいけない、目を覆うべきものであって、あの頃のふたりの姿は見るやいなや視界から泡のように消えすぐさま封印されていったのかもしれない。だから、風の噂の記憶を手繰り寄せることでしか、私は太一の父と母の昔に戻って行けない。
それにしてもおていさんはいつもモンペ姿だった。田植えに行ってきて泥だらけになったモンペを脱いで、下は腰巻きだけの格好で井戸の水で手足を洗っていたおていさん。太一がリンゴ箱を利用して作った鳩小屋にトタンを貼っていたおていさん。私が遊びに行くと、底が真っ黒のどでかい鍋でよく玉子入りのインスタントラーメンを作ってくれたおていさん。台風の後、屋根に登って瓦の緩みを直していたおていさんもやはりモンペ姿だった。私にはそんなたくましいおていさんが、太一たち兄弟の本物の母親にも父親にも見えたものだった。
ある暑い夏の日だった。太一の鳩小屋にそれまで見たこともない純白のつがいがいた。私は不思議に思って恐る恐る尋ねた。
「この純白、どうしたん?」
太一は、下を向いて私の目を見ないでボソッと答えた。
「昨日、サービスエリアからうちの鳩飛ばしたら、引いてきよったんや」
二匹の純白の足下を見るとどちらにも銀色の足輪がつけられていた。
「だれかがこうてる純白やろ?」
すると、太一は目を見開いて私を睨みつけて大きな声を張り上げた。
「引いてきよったらもうこっちのもんやさかい。引かれる方が悪いんや、なあ、そやろう?」
翌日、太一の鳩小屋の前に行くと、二匹の純白の白い足からは銀色の金属の光を発していなかった。黒胡麻と二匹の灰色のつがいしかいなかった鳩小屋はいっぺんに賑やかに華やかになった。後ろめたさを太一もきっと感じていただろうが、純白を飼えるうれしさの方がまさっているようだった。私と太一が鳩小屋の前にいる時、真っ赤なトマトを小脇に抱え鎌を片手に持ったおていさんがやって来た。おていさんは私の顔を見るなり聞いてきた。
「この白いの二匹、太一は引いてきよった言うとるけど、ほんまか?誰かがこうてやるの、盗んできたんとは違うん?」
私は「ほんまにひいてきたみたいやで」と、まじめな顔で答えた。すると、おていさんは毅然とした表情を太一に向け言い切った。
「うちは貧乏やけどな、人様に迷惑だけはかけたらあかんで。もし、ほんなことしたら、おばあちゃんしょうちせんさかい、ええな」
太一はその言葉を神妙に黙りこくって二匹の純白を見つめながら聞いていた。私はおていさんのその強い言い方に自分が叱られているかのように萎縮していた。
数日後のことだった。同じ小学校の二つ上の上級生のふたりが太一の家にやって来た。私と太一は玄関の日陰で虫かごから甲虫を取り出して決闘をさせていたが、ふたりの上級生が鳩小屋の方に行くのを見て、太一はすぐに走って行き、私もその後を追った。ケンさんとみんなから呼ばれていた上級生は、太一がそばに近寄ると開口一番言った。
「これ、おまえの純白ちゃうやろ?」
背がケンさんの胸までしかない太一は、先生に話すように気をつけの姿勢で見上げ、
「いえ、ぼくの鳩です」
と、きわめて平静を保った声を出した。
「おまえ、足の銀の輪、はずしたやろ?」
ケンさんの隣にいたヨーちゃんと呼ばれている上級生は太一の顔に顔をひっつける位に近寄った。ヨーちゃんに噛み付くように「してへんもん」と太一は頬をふくらませて言い返す。
「どう見ても、これヨーちゃんの純白やで。そやろう、おう、違うけ、おう」
ケンさんは太一の肩をつかんで揺さぶった。ケンさんは小学校で喧嘩が強いということで評判になっていた上級生だった。私は何も言わずただ見ていた。ケンさんが恐くて、少し離れたところから見ていることしかできなかった。
「この泥棒が」
ヨーちゃんが大きな声で言い放った。
「ぼくは泥棒なんかとちゃう」
太一はケンさんに肩をつかまれたまま今にも泣き出しそうな声を上げた。ギュッと握っている両方の拳が震えている。
「おまえんとこ、おかあちゃんがどっかの男といっしょになって家出てもて、おとうちゃんも仕事せんと酒ばっかし飲んでゴロゴロしてはるんやろ。ほして、おまえは泥棒か」
ヨーちゃんがまた大きな声で一気にそうまくし立てた。太一はよっぽど悔しかったのだろう。ケンさんの手を振りほどいて号泣した。涙が、まるで噴水のように飛び散り、夏の太陽の中でチカチカ光っていたことを今でも覚えている。
モンペ姿のおていさんが家から飛び出して来たのは、まさにそんな時だった。おていさんはケンさんと一言、二言言葉を交わしたかと思うと、ケンさんとヨーちゃんの足下に地べたに膝をつき、そして、土に顔面をピタリと押し付けた。それが土下座という名前で呼ばれる行為であることをその当時の私はまだ知らなかったが、おていさんが太一の愚行を懸命に詫びていることはわかりすぎるくらいもう十二分に伝わってきた。
立ち上がったおていさんの顔についていた土、墨のように黒い土が額に鼻に頬についていた。ケンさんとヨーちゃんが純白のつがいを手に帰って行った後、太一はおていさんのモンペに倒れ込むように抱きついてひとしきり泣いた。
あの頃、おていさんはしょっちゅう仏壇に向かって手を合わせていた。おていさんは長男、つまり太一の父の兄を戦争で亡くしていた。そして、戦後間もない頃に御主人が病死していた。南無阿弥陀仏と声に出して一心に手を合わせていたおていさん、一体何を思い、何を仏に念じていたのだろう。そんなおていさんが死んだのは、太一が地元の工業高校に合格した春のことだった。
昨日川ざらえでいっしょになった和代さんは、おていさんの娘であり、太一の父、勝治さんの妹である。太一たち三兄弟がそれぞれ就職して家から出て行った後、裏山で首を吊って自殺した、何をやってもうまくいかず生活保護をもらっての淋しい晩年を過ごした勝治さんと違って、和代さんは役場の職員と結婚し、子にも孫にも恵まれ、波風の立たない穏やかな人生をずっと送っているように見える。
和代さんの息子の敏彦さんは町内の役員をしていて、川ざらえでは先頭に立って大活躍だった。休憩の時にお茶の接待で現れた和代さんは、優しい笑みを浮かべて川ざらえに参加したみんなにお茶を手渡しして歩いた。
ひとまわりして和代さんは私のそばに腰を下ろした。和代さんはすっかりきれいになった川を眺めながら、
「東京から帰ってきやって、もう何年になりますの?」
と私に話しかけてきた。
「もう早いもんで、十年ですわ」
私は高校を卒業して上京した。東京の私立大学を卒業して東京の広告代理店に就職して、三十を少し過ぎた頃、挫折して文字どおり都落ちしてきた。一人息子、跡取り息子の責任を果たして帰郷してきて親と同居するようになったのはよかったが、アドマンの経験しかない者の滋賀での就職先が思うように見つからなかった。地元の精密機械の工場で三年働き、車の販売会社の営業職を四年し、今は小さな印刷会社で働いている。
「かわいい奥さんといっしょになられて、お幸せでよろしいですね」
結婚したのは一昨年、この辺りでは珍しい四十になっての初婚だった。
「みなさん、どこさんとこも、うまいこと、かしこうに、やってるというのに、太一はなあ、ほんまに、父親といっしょでどうしようもありませんわ」
父の勝治さんが死んで、太一はアパートを引き払ってあの家にひとり帰って、食品会社の工場で働きながら田圃の仕事も近所の人からやり方を教えてもらいながらちゃんとやっていると聞いていた。あとは嫁さんだけやというのが世間の声だった。太一の名前が出て、一週間前のテレビのニュースが頭をよぎった。私は、どういう言葉を返していいやら返答に困った。
「………今度もまた、とんでもないことしよって、今、家に帰れんようになってもて………」
和代さんはそこまで言うと言葉を詰まらせた。あの引き逃げ事故はやはり太一が犯人だったのだ。私は、何も言わず、ただじっと春のやわらかな陽光を浴びて流れる川の水を見て、そのささやかな水の音を耳にしていた。
「あの家、もうめちゃくちゃで………みなさん笑(わろ)てくれはります」
笑う?どうして、それが笑えるというのか。私はこの時ばかりは腹が立った。その「笑う」という言葉、そういうことを思うのか、この近所、この世間、この湖東のこの小さな村、このふるさとは………、どんどん飛躍していき、飛躍していく対象のすべてに無性に腹が立った。
私は、和代さんに何か言いたかった。言いたいことはいっぱいあって、そのいっぱいはなかなかうまく言葉になっていかなかった。
お茶を置き、足下の鍬を手にし、ふっと左隣りの和代さんの顔を見た。
それは、紛れもなく、あの少年の日の夏に、もんぺ姿で、顔に真っ黒の土をつけて立ち尽くしていたおていさんの顔であった。
「おひとつどうですか?」
ハゲ頭の雑貨屋の正やんがアイスクリームの入った箱を持ってやって来た。正やんの店は四、五年前から開店休業状態である。私が小学生の時には四六時中客がいた店だというのに彦根の町にいっぱいできた量販店の影響で客足はぱったり途絶えた。今五十過ぎの正やんは最近、その商売敵であるはずの量販店で準社員として働いているという話だ。正やんからアイスクリームを受け取った美保さんは、一昨年成人式を迎えたばかりの娘を交通事故で亡くした。娘の明日香さんは恋人と待ち合わせをした場所に向かう途中だった。正面衝突で即死したその娘の保険金がはいったからか、美保さんの家は最近新築の家を建てた。その新しい今風の家に、今度明日香さんの兄、浩司さんが嫁をもらうという。この三月、中学校の校長を退職したばかりの忠之さんはカッコいいプーマのブルーのジャージを着て、アイスクリーム片手におしゃべりに夢中になっている。校内暴力の風が吹き荒れた数年前、忠之さんは教室に監禁されて生徒から袋だたきの目に遭ったと、どこからともなくそんな噂を耳にしたことがある。でも、今、実に晴れ晴れとした顔でいい汗を流している。
川幅はずいぶんと広くなった。そして、川はコンクリートできれいに固められた。川の向こうには、アスファルトの広い道が走っている。私が小学生だった頃、この川は薮に囲まれていた。どじょうが、魚が、みずすましが、ヘビが、蚊が、ホタルが………この川にはいっぱいいた。川に正やんの店で買ったタライを浮かべて、よく水遊びをしたものだ。台風になると、この川は溢れ、しばしば家は床下浸水した。あの三十年前のあの川は、まるで嘘のようだ。
私がまだ東京の広告代理店に入って確か二、三年目の頃、ある食品メーカーの新製品のカレーの雑誌広告を担当し、私はある企画の採用を上司に熱心に願い出たことがあった。それは、私自身のふるさとのような、日本のどこにでもあるような山間の小さな平凡な学校の運動場に、お百姓のおとうさん、おなかの大きなおかあさん、長生きしているおじいちゃん、村のおまわりさんや郵便配達のおじさんやタバコ屋のおばさんやお坊さんやスカートの短い女子高生や幼稚園児に小学生………さまざまな年齢、職業の村人が集まってみんなでいっしょにカレーを食べているという、そんな一枚の写真にしたらどうかというものだった。そして、そのコピーはこんな具合だった−みんながいる、カレーがある、幸せがある。その企画はいとも簡単にボツになった。新製品のカレーは田舎の村のイメージではないというのが上司の意見であり、それはメーカー側の考えでもあった。「今の時代のカレーってさ、もうちょっとリッチでハイブローな家庭をイメージできるもんじゃないとさ、食べるのせつないだろう?」と上司はニヤッと笑って言った。
私が東京の暮らしに別れを告げて帰郷しようと決めたのは、一言で言えば、上司が言った東京でのちょっとリッチなハイブローな暮らしを夢見るのをあきらめて田舎の平凡な普通の暮らしをしたいと思ったからであり、そこにこそ自分の幸せがあると思えたからである。
さっき和代さんは私に「お幸せでよろしいですね」と言ってきた。果たして私は、今、幸せなのだろうか。いや、まったく月並みな陳腐きわまりない疑問なのかもしれないが、幸せって何なのだろう。個人のどんな人生が、家族のどんな形が、本当の幸せなのだろう。
あの少年の日に見たモンペ姿のおていさんは毎日毎日一生懸命に生きていた。あのおていさんはじゃあ不幸なのか。そうじゃないだろう。そうだとしたら、私は腹が立つ。太一の父も太一の母も不幸だったのか。確かに生きるのがちょっとばかりへただったのかもしれないが、少なくともこの私とは紙一重のような気がする。引き逃げで逮捕された太一もまた私と紙一重のような気がしてならない。
私が広告代理店を辞める直前に作ったコピーは「小学生の時が一番幸せだった」だ。あれは一体何のメーカーの製品のために作ったコピーだったのだろう。
目の前のコンクリートのちょっとリッチなハイブローな川は、三十年前の川と比べて幸せなのだろうか。
「わたし、太一君も好きですし、おていさんも好きでした」
私は、和代さんにそれだけ言うのが精一杯だった。言いたいことはいっぱいあるのに、そんなことしか言えなかった。
休憩が終わって、私も和代さんもよいしょと腰を上げた時、川の向こうの橋本さんの家の庭の木の辺りからきれいな声がした。誰かが「あっ、ウグイスや」と楽しそうな声を上げた。
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