小説 市民文芸作品入選集
特 選

アントンの時間
彦富町 伊藤 紀代

 ある日、トモ子が自分の部屋で本を読んでいると、姉のアキ子が入ってきました。
「これ、トモ子のノートじゃない?誰かが間違えてわたしの机の上においたらしいわ」と青いノートを見せました。
 トモ子は“またか”と思いました。アキ子とトモ子は同じ高校に通っている双子の女の子です。朋子と明子、字が似ているので、よく間違えられるのです。
 トモ子はノートを受け取りました。でも見覚えのないノートでした。
「これ、わたしのじゃないわ」
と返そうとして表紙を見ると、
「この絵、何?」
「絵?」
 アキ子が不思議そうに首をかしげました。
「表紙の絵」
「絵なんて描いてないわよ」
 アキ子のがんとした物言いに、トモ子はノートを持ち上げて、もう一度ノートをよく見ました。最初は目の錯覚かと思いました。でも、やっぱり何か絵が浮き出して見えているのです。
(何だろう?)
 トモ子は目を凝らして、ノートを見つめました。
(山、平野、そしてこれは川かしら?)
「これ、地図みたい。ほら、ここに山があるでしょ、これは川。表紙に地図が書いてあるなんて、変わったノート」
 そういって顔を上げると、アキ子がきょとんとしています。
「トモ子、本当に見えるの?」
「うん」
「私にはただの青いノートだけど」
「これ、わたしが持っていても良い?」
「良いと思うわ。誰のか分からないし・・・」
 こうして、この不思議な青いノートはトモ子の手に渡ったのです。

 翌朝、トモ子は時間割をしていて、物理のノートがもう無いことに気が付きました。
(誰のか分からないけど、同じノートを買って返したらいいわよね)
トモ子は鞄に青いノートを入れました。

 物理の時間に、トモ子はその青いノートを開けました。すると、

 このノートはただのノートではありません。この文字を読める人は、選ばれた人です。

 いきなり目に飛び込んできました。トモ子はどきっとしました。この文字が読めたのです。トモ子は自分が特別に選ばれた人間なのかと思うと、ちょっと誇らしく思いました。
 次のページに指をかけると、ふわっ、と開きました。
(この写真に写っている山、なんだか見たことがあるような気がするけど………)
 トモ子はなつかしいような気持ちで、胸がきゅんとしました。でも、頂上がスコップで削りとられたような変わった形をしていました。
 しばらく写真を見ていると、だんだん立体的になって、まるでミニチュア模型のようになりました。
 (3Dの写真だわ)
 トモ子は指で触れようとしました。
「あっ」
 トモ子はびっくりしました。それは、本当にそこにあったのです。写真を通して向こう側に空間が広がっていたのです。驚いた拍子に、トモ子はノートを落としてしまいました。
 先生が教壇からこちらをチラッと見ました。
「すみません」
と、トモ子は小さな声で謝りました。
 学校が終わると、トモ子は急いで家へ帰りました。玄関の横で、母親が花に水をやっていました。トモ子は、
「ただいま」
と言うと、すぐ自分の部屋へかけ込みました。後ろで母親の声が聞こえました。
「そんなにあわててどうしたの?」
「うん、なんでもない」
 トモ子は部屋にはいると、青いノートを鞄から取り出しました。そして、最初のページを開けました。

 このノートはただのノートではありません。この文字を読める人は、選ばれた人です。

 トモ子はどきどきしました。次のページを開くと、写真ではなくて、

 あなたの名前を記入してください。
  (            )

 トモ子は筆箱から鉛筆を取り出して、
「南朋子」
と自分の名前を書きました。すると、その下の字が現れました。

 お一人ですか?   はい   いいえ

 トモ子はどうしてそんなことを聞かれるのか分かりませんでした。どちらにしようか考えました。
(アキ子はまだ帰ってないし、おかあさんは忙しそうだし………)
「ミャ〜オ」
 猫のアントンがベッドの上からこちらを見ていました。
(アントンがいるわ)
 いいえの方を○で囲みました。次のカッコの中に、
{猫のアントン}
と書きました。すると、その下に、

 南朋子さん、ようこそ。
 では、アントンと一緒にいってらっしゃい。

という文字が浮き出てきました。
(えっ、どこへ行くの?)
トモ子は次のページをめくりました。
 すると、ノートの中から風が舞い上がるようにページが開きました。そこには、あのどこか不思議な山の風景が広がっていました。見ていると、写真の端から、毛の生えた白い手が、ひょこっ、と出てきました。トモ子はびっくりして、ノートをぱたんと閉じてしまいました。
(いまのは何?)
 恐る恐るノートをもう一度開けてみました。
 でも、もう何もありませんでした。トモ子はほっとしたような、がっかりしたような気持ちでノートを机の上に置きました。
 トモ子は眠るまでずっと気になっていました。
 もう一度ノートを開けてみましたが、何も書いてありませんでした。

 次の日、ベッドに横になって本を読んでいると、机に置いてある青いノートが少し光っているように見えました。気になって手にとって開けてみました。

 こんどは急に閉じないで下さい。
 あなたの大事な猫のアントンがけがをします。

 まるでノートが話しているようです。
(えっ、あの白い毛の生えた手は、もしかしてアントンの手?)
 足下で、アントンが右手をなめながら、トモ子を見上げていました。

 トモ子が次のページをめくろうとすると、強い風が吹いてノートがぱらぱらぱら。
 部屋が急に明るくなりました。目を上げると、木々に囲まれていました。
(あっ、写真に写っていた山………)
 トモ子は木の香りのする山の空気を深く吸い込みました。
「やあ、こんにちは。やっと来ましたね」
 トモ子の目の前に白い猫が立っていました。
 白い猫がまるで人間のようにしゃべるのを聞いて、息が止まりそうでした。次に口を開いたときは自分でも驚くほど大きな声で、
「きゃあ」
と叫んでいました。
 気が付くと、ベッドの上でした。
(夢だった)
 薄明かりの中で自分の手を見ると、青いノートを握りしめていました。

 次の日、トモ子はアキ子に
「きのう変な夢を見たの」
と、夢の話をしました。
「この青いノートにあった写真のところに行った夢」
「写真?わたしがノートを見た時は何もなかったわよ」
「本当に?」
「ええ」
「でも、ほら」
 そう言って、青いノートをアキ子に見せました。
「あれ?」
 目の前にあるのはなぜか物理の教科書です。
「あれ?」
 トモ子はそこら辺を探しましたが、青いノートはありませんでした。
 トモ子が
「もしかしたら魔法のノートかもね」
と笑いながら言いました。

 トモ子が自分の部屋に入ると、青いノートは机の上にありました。ノートを開けると、

 お帰りなさい、南朋子さん。
 このノートの居場所はここです。
 持っていくことは出来ません。

 きのうと違う文章が書いてあります。トモ子は自分の目を疑いました。
(アキ子の言った通り魔法のノートだわ)

 ノートの中では、大きな声は出さないようにして下さい。

(ノートの中?夢の中じゃないの?)

 では、行ってらっしゃい。

 トモ子が考える間もなく、強い風がノートの中から巻き起こって、ページがめくれ上がって、吸い込まれていきました。

 トモ子の目の前には、遠くに地面が広がっていました、全身に強い風を感じます。
(わあ、空を飛んでいる。あっ、あの山、地図の中にあった山だわ)
 トモ子が青いノートの表紙に見た山や川、平野などがフルカラーで見えています。もう一度山を見ました。
(きのう見た山と同じ。あの写真は、表紙の地図にある山と同じなんだわ)
 頭の中で、少し繋がってきました。
 下の方で何か白いものが飛んでいます。トモ子が近づくと、猫のアントンでした。手足をバタバタさせて飛んでいます。今にも落ちそうです。
 こんどはトモ子から声をかけました。
「アントン、だいじょうぶ?」
「だいじょうぶですよ。ちゃんと飛んでいます」
(猫も飛べるお話の国………、嘘みたい)
 そう思ったとたん、体がどんどん落ち始めました。落ちるスピードが加速されて、トモ子は気を失いそうになりました。
(地面にぶつかる!)
「きゃあっ」
 トモ子は目が覚めました。びっしょり汗をかいています。
(やっぱり夢だったんだ。よかった)
 体の力が急に抜けて、眠りに落ちていきました。
 目が覚めると、髪の毛がくしゃくしゃで、まるで強い風に吹かれたようでした。

 何回かこんなことを繰り返すうちに、トモ子は青いノートの世界へ行くことに慣れました。夢なのか現実なのかわかりませんでしたが、そこでは猫のアントンとも普通に話せるようになりました。

 ある日、アキ子がトモ子の部屋に入ってきました。
「トモ子、最近なんだか楽しそうだね。何か良いことあるの?」
「うん………」
 トモ子は少しためらいながら、
「アキ子は、別の世界って、あると思う?」と聞きました。アキ子は少し考えてから、
「宇宙のどこか遠いところにあるかもしれない………」
と、どこか遠くを見つめるように答えました。トモ子は思ってもみませんでした。
(そうね、宇宙のどこかなのかもしれないわ)
「行ってみたい?」
「いつか宇宙旅行が出来るようになったら、行ってみたいわ」
「じゃあ、もし本当に信じるなら、今晩この部屋に来て」
「宇宙人と交信するの?」

 夜になりました。
 トントン。ドアが開いて、アキ子が入ってきました。
「アキ子、本当に信じている?」
「半分くらい」
「本当に行ってみたい?」
「うん、行けるなら」
「じゃあ、信じてね」
 トモ子は青いノートを手に取りました。
「別の世界の入口はこれ」
「これ、あの青いノートでしょ?」
「そうよ」
 トモ子はノートを開けました。今日は名前のところに二人の名前を書きました。
「南明子、南朋子」
 次のページにはもう猫のアントンの名前が当然のように書いてありました。
「大きな声を出さないようにね」
 トモ子はアキ子の手を握りました。
 風でぱらぱらとページがめくれ上がると、二人は青いノートの中に吸い込まれていきました。
 強い風を感じて目を開けると、空を飛んでいました。
「トモ子、大丈夫なの?落ちてしまわないの?」
「だいじょうぶよ。ほら、下を見て。あそこを飛んでいるのがアントン」
「猫のアントン?」
「あそこまで行きましょう。背中に力を入れてぱたぱたすると、ほら」
 トモ子はそう言って、背中を見せました。
「まるで天使の羽みたい」
 アキ子はびっくりしています。
「アキ子にもあるのよ、背中に意識を集中させて、ぱたぱたするの。そう、出来た、出来た」
 アキ子はくるくる回り始めました。
「どうすればいいの?」
 まだくるくる回りながらアキ子は言いました。
「自分が進みたいと思う方向に重心をかけるといいわ。アントンの方を見て」
 アキ子はやっとバランスを取り戻して、アントンの方に近づいていきました。トモ子も後から追いました。
「アントン」
と、アキ子が声をかけました。
「アキ子さん、やっと来たんですか?」
 アントンはうれしそうです。
(えっ、やっと?)
 トモ子はアントンのことばに少し引っ掛かりましたが、
「私が誘ったの。いっしょだったら、もっと楽しいかと思って」
と答えました。
「アントン、しゃべれるの?」
 アキ子が目を白黒させています。
「ここでは、誰とでも自由に話すことができるのです」
 トモ子の心配もどこへやら、アキ子はすぐにこの世界にとけ込みました。
「ねえ、あそこを見て」
 アキ子が指さす方を見ました。
「あれ、ビワ湖よ」
 トモ子がきょろきょろしていると、
「形は違うけど、まわりの平野のところに水があるとしたら、ねっ、見覚えがあるでしょ?」
 そう言われてみると、ビワ湖の形に似ています。それにしては、あまりにも水が少ない………。
「私、ずっと前におかあさんから聞いたことがあるの。おばあちゃんが話していたらしいんだけど、おかあさんがまだ生まれる前、ビワ湖の水が突然減ってしまったことがあったって」
「どうして?」
「それは聞いてないけど、いつのまにか元に戻ったらしいの。おばあちゃんも不思議だったって」
「それはネコ暦の7812年だから、あなた方の西暦でいうと1943年のことでしょう」
とアントンが横からまじめな顔で言いました。
「アントン、知っているの?」
「人々には知らされていなかったのですが、ダムが造られていたのですよ。でも、実際にやってみると、その影響があまりにも大きいので、中止されたのです」
 トモ子とアキ子は、学校の社会でそんな話は聞いたことがありませんでしたし、ましてや、猫のアントンの話ではとても信じられませんでした。
「アントン、どうしてそんなこと知っているの?わるいけど、私たち信じられないわ」
「そう思われるのももっともです」
「私たち、そのころに戻っているの?」
「もう少しあとの時代ですが………」
「つまり………、時間を超えたってこと?」
 二人はアントンの話を理解できませんでした。
「じゃあ、僕に付いてきて下さい」
 アントンは先頭にたってぱたぱたと飛んで行きました。
「どこへ行くの?」
 トモ子とアキ子は訳も分からないまま、あわててアントンに続きました。
 湖岸線に沿ってしばらく飛んでいきました。
「あそこに降りましょう」
 やっとアントンが口を開きました。下を見ると公園がありました。
 ストン、アントンに続いて、トモ子が地面に降りました。その時、頭の中に大きな音が鳴り響いて、思わず頭をかかえて、しゃがみ込んでしまいました。
「どうしてここに居るんだよ。ここは僕たちの場所だよ」
 小さな声が言いました。トモ子は自分が言われているのかと思いました。
「私はこの土の中に長い間、眠っていたのよ。私の場所よ」
「きみが来なければ、僕たちはずっと住んでいられたのに」
 次々に違う声が四方八方から聞こえて来ました。
「別に私が好きできたわけじゃないわ、どうしてそんな意地悪を言うの?」
 小さな声が重なって大きな音となって響いているのでした。耳に手を当てて、心を澄ませてみました。
 遠くの方から低いくぐもった声が聞こえてきました。
「なにを喧嘩している。おまえたちは、まだそこに居るじゃないか。私たちの仲間は、ここの水がなくなって、生きていられなくなってしまったんだ」
「そんなこと言ったって、わたしのせいじゃないわ。どうしたらいいの?しくしくしく………」
 泣き始めてしまいました。
「どうしたの?」
 トモ子は思わず声をかけました。すると、ピタッと何も聞こえなくなりました。
「トモ子、どうしたの?」
 横にアキ子が立っていました。
「うん、いま誰かが喧嘩する声が聞こえていたんだけど………」
 トモ子は辺りを見まわしました。ブランコの下には、長い間誰も乗ったことが無いのか、雑草が生えていました。
「誰もここには、いないみたいよ。ほら」
 アキ子の指さす方を見ると、持ち手が錆びたシーソーにツタがからまっていました。
「誰だったのかしら?本当に聞こえたのよ」
 トモ子が何気なく手に持っている青いノートを見ると、うっすらとしか見えなかった地図に色の濃淡が付いて、はっきりと見えるようになっています。
「ねえ、見て」
「ほんとだ、私にも見えるわ」
 ふたりで青いノートの表紙を見ていると、横からアントンが、
「僕にも見せて下さい。地図を読むのは得意です」
と顔をのぞかせました。
「ほら、ここに黄色く光っているところがあります。これが、これから僕たちの行くところです」
 アントンが指さしました。すると、それまで何もなかったところに黄色い星のようにチカチカと光が見えました。
「アントン、何かつけたの?」
「いいえ。みんなに見えるようにしただけです」
 さっきの話といい、今のことといい、アントンはただの猫ではなさそうです。
「アントンには不思議な力があるのね」
 トモ子は、いつもソファにごろんと横になってばかりいるアントンを少し見直しました。
「誰でも何か取り柄があるものです。では、出発しましょう」
(どうしてこんなに良く知っているのかしら?)
 トモ子には、アントンがこの旅を仕組んだのではないかと思えてきました。
「ちょっと待って。私たち、家に帰れるの?なんだか怖いわ」
「だいじょうぶですよ。今までだってちゃんと帰れたじゃないですか」
 アントンが落ち着いた声で言いました。
「ねえ、アントン。私たちどうしてここにいるの?」
 トモ子はまだ何か不安でした。
「それは………、じつは手伝って欲しいことがあるのです」
「えっ?」
「さあ、ここにじっとしていても同じです。行きましょう」
 アントンはきっぱり言うと、前足を地面につけてさっさと先に行ってしまいました。トモ子とアキ子は、小走りに後を追いかけました。
 ときどき地面に降りたときに聞こえた小さな声が、ざわざわと騒がしく聞こえて来ました。
(いったいここで何があったのかしら)

 しばらく歩いていくと、コンクリートの建物の横に出ました。その後ろには湖が見えました。
「ここです、あなた方を連れてきたかったのは」
 よく見るとダムのようです。
「ビワ湖にはこんな大きなダムは無いはずよ」
「あなた方の時の流れの中にはありません。でもここにはあるのです」
「どういうこと?」
 それまで黙っていたアキ子がたまりかねたように言いました。
「そのうち分かります」
 そういってアントンは二人を建物の入り口に連れていきました。
 建物の中はひんやりとしていて水の音だけが聞こえていました。アントンに案内されて二人は奥の方に入っていきました。
「どうぞ読んで下さい」
 そう言ってアントンは少し悲しそうな顔をして、薄い本を渡しました。
 二人は読み始めました。
 このダムが造られた経緯が書かれた資料でした。1972年に始まったビワ湖総合開発の選択肢の一つとしてこのダムが造られたことが書かれていました。

「私たちがどういうところにいるのかということは、少しわかったような気がするわ。でも、今まで聞いたことがなかったわ」
「そうですか。そのころビワ湖周辺は人口もさほど多くなく、これといった産業もなく、大都市圏の陰に隠れた存在だったのです。」
「それでダムを造ってみようということになったの?」
「まあ、そういうことです」
「だからといって、そこに住んでいる人達のことを考えなくても良いということにはならないわ」
「そうなのです、1943年に実験した時もそうだったのです。ビワ湖の水が減るとその周辺に思いもかけないほどの影響が出ることが分かってやめたのです」
「じゃあ、これはいつのダムなの?」
「1972年のビワ湖総合開発で出された案の一つが、南湖と北湖の間にダムを造るというものでした。別の時の流れを作って実験が始まったのです」
「別の時の流れ………」
「それがここです」
 トモ子とアキ子は唖然としてダムを見ました。ダムは延々とはるか向こうの方まで続いていました。右側は満々と水とたたえ、左側は高い崖のようです。
「これは現実、ではないのよね」
「正確に言うと別の時間です。トモ子さんとアキ子さんの世界から見ると現実ではありません。でも、私にとっては現実なのです」
 トモ子とアキ子は顔を見合わせました。
「どういうこと?」
「だから、先ほどから言っているように、ここでは別の時間が流れているのです。当時、僕はダムを造ったらどうなるか研究していました。そこで考えられる限りのデータを集めて再現しようとしたのです」
 アントンはどうして別の時が流れるようになったのか話しました。
「コンピュータの中でやっていたはずなのに、僕はいつの間にかその時間の流れに入ってしまったのです。気が付くと、元の世界に戻ろうとしても戻れなくなっていました。僕にとっては、こちらの方が現実になったのです。でも、なんとか工夫するうちに猫の姿を借りて、向こうの世界、つまりあなた方の世界に入り込めました」
 アントンは大きく息を吸い込みました。少し間をおいて、また話し始めました。
「最近よく地震があると思いませんか?この別の時間の存在が、地震を引き起こしているようなのです。早く二つの世界を元のように一つにしなければいけないのですが………」

 トモ子はあまりの現実離れした話に、
(これはやっぱり夢………)
と疑いました。そのとたん、トモ子は時間の流れが変わったのを感じました。
(しまった!)
 そう思ったときは、もう手遅れでした。あわてて横にいたアキ子の手を強くつかみました。
 両方から何かに引っぱられて、身体が引き裂かれそうでした。あまりの強い力に、トモ子は握っていた手を離してしまいました。

 気が付くと自分の部屋に倒れていました。
「アキ子?」
 何も聞こえません。部屋をあちこち探しましたがみつかりません。
(もしかして、アキ子の部屋で寝ているのかもしれないわ)
 かすかな希望を持って、そっとドアを開けてアキ子の部屋をのぞきました。ベッドは空っぽでした。
「やっぱり夢ではなかったんだわ………」
 別の時間の存在を疑っていないアキ子は、向こうの世界にきっとまだ残っているのです。
(アキ子、だいじょうぶかしら?ごめんなさい、私が疑ったから)
 もう一度あの時間の流れに戻ろうとして、トモ子は大変ことに気が付きました。
「青いノート、置いてきてしまったわ………」

 翌朝、トモ子は、アキ子が友だちのところに泊まりに行ったと両親をごまかしました。
 トモ子は図書館でビワ湖のことを調べることにしました。
 確かにビワ湖総合開発ではいろいろな案が検討されたようでした。そしてアントンの言ったように、南湖と北湖の間にダムを造るということが検討されたということも書かれていました。
 トモ子は、いろいろ調べていくうちに、ビワ湖総合開発が水資源開発と地域開発の両面を併せ持ったものだったことを知りました。身の周りの工事、たとえば下水道の工事や湖周を走る道路がビワ湖総合開発によるもので、十年に一度起こるかもしれない渇水時にビワ湖の水位を一・五メートル下げるために、ビワ湖の周辺が整備されたということをはじめて知りました。
 テレビや新聞でビワ湖の水位が何センチに下がったと言っているのがどういうことなのか、なんとなく分かったような気がしました。
 トモ子はもう少しビワ湖総合開発のことを調べようと、図書館から何冊か本を借りてきました。
 その中の一冊を読もうとして開けると、

 著者紹介。安藤司・・・・研究中、行方不明になった。

 トモ子はドキッとしました。
(これ、きっとアントンだわ。そういえばこの顔どこかアントンに似ているわ、この目の形とか顎の線。名前も安藤、アントン。あまりにも似ている………)
 そのとき、写真の顔が少し笑ったように見えました。心臓の音が自分でも聞こえるほど、ドキドキ大きく響きました。
(やっぱりアントンね!どうすればそっちに行けるの?)
 トモ子が安藤司の写真に向かって問いかけると、安藤の目が一瞬ウィンクしたように見えました。
 トモ子は、アントンがどこから来たのか急に気になりました。
「アントンは、確かお父さんの友だちの佐伯さんが連れてきたのだわ」
 トモ子は佐伯にアントンのことを聞こうと思いました。

「お父さん、アントンは佐伯さんが連れてきたのよね」
「そうだよ」
「私、佐伯さんにアントンのことを聞きたいんだけど………」
「佐伯なら、研究所に行けばいい」
「研究所?もしかしてビワ湖開発研究所?」
「そうだよ」
 トモ子は声を上げそうになりました。父親の口から出た研究所の名前は、安藤が勤務していたところだったのです。
(安藤司は間違いなく猫のアントンだわ)

 トモ子は佐伯を訪ねました。
「お聞きしたいことがあって来たんですけれど、猫のアントン、安藤司さんですか?」
 トモ子はいきなり話を切り出しました。少しずつ聞くというような余裕をトモ子は持ち合わせていませんでした。しかし、佐伯は驚く様子もなく答えました。
「分かりましたか。でも、どうしてわかったのですか?」
「猫のアントンと別の時間の流れている世界に行っていたのです。図書館で調べているうちに、アントンから聞いた話と、この写真から………」
 そう言って本を見せました。
「じつは、いつ安藤が連絡してくるか、ずっと待っていたのです」
「佐伯さんは知っていたのですか?」
「確かではなかったのですが、安藤が行方不明になったとき、あの猫が研究室にいたのです、どこからも入るところがないのに………」
「それでアントンという名前をつけて、私たちの所へ連れてこられたのですか………。でも、どうして私の所に?」
「深い意味はないんです。安藤がいつだったか、あなたとアキ子さんのことを話していたことがあったので、連れて行っただけなのです」
「青いノートも、佐伯さんが置いていかれたのですか?」
「青いノート?それは知りません」
「私、たぶん安藤さんの造った世界へ行っていたのです。姉のアキ子がまだそこにいるのです」
「そうですか、別の世界があるのですね」
 佐伯は少し考えてから、
「どうぞ、こちらへ」
と、トモ子を別の部屋へ案内しました。コンピュータのディスプレイには、忙しげに何かの数字が次々と映し出されていました。
「この部屋が安藤の部屋です。このコンピュータで安藤はダムをシミュレートしていたのです。それは今も続いています」
「これがアントンの造った世界………」
「そうです。最近、大きな変化が現れていたので、何かあったのでは無いかと心配していたのです」
「安藤さんは元気でした、猫のままですけど。この別の時間の流れが地震に関係があるとかって、アントンが言っていました。それで何か私たちに手伝って欲しいことがあるということだったのですが、私、間違えて帰ってきてしまったのです」
「そうでしたか」
「アントンの世界へ行くヒントを教えていただこうと思ってここへ来たのです」
「それは僕にも分かりません。あなたはどうやってアントン、いや、安藤の世界へ入ったのですか?」
「青いノートに導かれて………」
とトモ子が答えました。
「僕には分かりませんが、この部屋に何かヒントになるものが有るかもしれません」
 佐伯に言われて、トモ子は机の上やロッカーの中を探しはじめました。ビワ湖に関するいろいろな資料に混じって、イブキ山の資料も置いてありました。
「佐伯さん、どうして安藤さんはイブキ山のことを調べていたのですか?」
「それは、えぇっと」
 佐伯は安藤との会話を思い出そうとしているようでした。
「確か、安藤はあの山の土をビワ湖に運んで埋め立てるようなことを言っていたと思います」
(あの山、イブキ山だったのね)
 トモ子は少し謎が解けてきたように思いました。
(運ばれてきた土と元々そこにあった土と水、きっとあそこに暮らしていた生き物たちの声だったのだわ)
「これ、何かしら?」
と、机の後ろを探していたトモ子が言いました。
 本と本の間の狭い隙間に何かぼんやりと青く光るものを見つけたのです。長い間放って置かれたのか、綿埃がかかっています。
 トモ子は埃を取り除きました。半分ほど取り除いたところで、トモ子にはすぐにそれがあの青いノートの表紙にあった地図のジオラマだということが分かりました。
 トモ子は広いところへ持って出ようとジオラマを持ち上げました。しかし下から線が出ていて動かせませんでした。
「佐伯さん、これ何ですか?」
「僕にも見せて下さい」
 佐伯が机の後ろに入りました。
「造ったときと変わっている………。もしかしたら、このジオラマはコンピュータと繋がっているのかもしれません」
と、佐伯は言いました。
 トモ子はその佐伯のことばを聞いて、ひらめきました。
「佐伯さん、どこか光っているところはありませんか?」
「僕には見えませんが」
 トモ子が机の下からジオラマに触ると、ジオラマが一段と青く光りました。アントンの世界に置き忘れてきた青いノートの表紙そっくりに………。
(アントン、どこなの?私たちがいたのは)
 トモ子はアントンに連れて行かれたところを探そうと、思い出してたどってみました。
(ダムを造るとしたら、ここら辺かしら?)
と、トモ子が指を触れました。すると、アントンが触れたときのように、そこが黄色く光りました。
「佐伯さん、これはどこですか?」
 佐伯さんは自分の机から地図を持ってきて、照らし合わせました。
「たぶん資料館のある辺り、ここから歩いて十分ほどの所です」
と、地図を指しました。
「私、そこへ行きます」
 飛び出していこうとするトモ子を佐伯が引き止めました。
「ちょっと待って下さい。あわてないで落ち着いて考えましょう。僕はそこへ行くより、このコンピュータの中の世界へ行く方が良いと思うのです。でも、どうやっていくかは分かりませんが」
 言われてみると確かにその通りです。
「どうしたらいいですか」
「安藤さんがあなた達に頼みたかったことというのは、たぶん一卵性双生児だということに関係があるのではないかと思うのです。安藤はあなた方に、こちらの時間と向こうの時間との交点の役割を期待しているのではないでしょうか」
 トモ子は(なるほど)、と思いました。
 その時、グラッ、と床が大きく揺れました。
「佐伯さん、急いでください。姉のことが心配です」
「はい」
 佐伯は少し考えて、コンピュータの前に座って、キーボードを打ち始めました。
「では、こうしましょう」
 ディスプレイを指さして、
「たぶんこの線とこの線を交差させて………」
と言いながら、佐伯はキーを叩きました。画面が変わりました。
「よし、できた。次は………」
 ジオラマの黄色い光が一段と強くなりました。
「佐伯さん、ほら」
「あっているということかな。この動いている点が交点に来たときに、二つの時間が交わります。そこでトモ子さんがこのキーを押して下さい」
 トモ子は動く点を見ました。
(速い!)
 迷っている時間はありませんでした。
「はい」
「たぶん向こうではアキ子さんが同時に何かするはずです」
 トモ子とアキ子は小さい頃から双子だからなのか、不思議なことがいく度もありました。今もその不思議なことが起ころうとしていました。
「もうすぐです」
 トモ子はアキ子が動くのを感じました。トモ子はすかさずキーを押しました。
 ユラ、ユラ、グラグラグラッ。
 床が大きく揺れて、机の後ろにあったジオラマが床に落ちて壊れる音がしました。
 ガシャン。
 コンピュータが止まりました。
 グラグラグラグラ、まだ床は揺れています。

 長い静寂の後、
「う、う〜ん」
 トモ子の足元で声がしました。
「アキ子!」
 アキ子が机の下にうずくまっていました。
「だいじょうぶ?」
 頭がぼんやりしていて何が起こったのか分からないようです。
「アキ子、助かったのよ」
「助かった?この石を早くビワ湖に投げてください!」
と言って、アキ子はかかえていた青く光る石を差し出しました。トモ子は何のことか分からないまま、言われるとおりに、立ち上がって窓から湖に放り投げました。
 青い石が湖面に触れると、まるで水風船がはじけるように、水色から濃紺までのさまざまな色をした水しぶきがキラキラと飛び散りました。そしてゆっくりと落ちて、ビワ湖の水の中にとけ込んでいきました。まるでアントンの時間と現実の時間が混ざって一つの流れに収束していくように………。
 それまで張りつめていた時間が大らかにゆったりと流れ始めたようでした。

 家に帰ってから、トモ子はアキ子から話を聞きました。
 トモ子と別れた後、アキ子がアントンと話をしていると、近くに落ちていた青いノートの光が強くなりました。
 アントンは、
「急ぎましょう」
と言うと、湖底へアキ子を導きました。そこにはアキ子がちょうど入れるくらいの穴が開いていました。
「この穴は時間をつなぎ合わせている穴です。しかるべき時が来たら、この穴に飛び込んで下さい」
とアントンがアキ子に言いました。
 アキ子は暗い穴をのぞき込みました。
「しかるべき時って?」
「トモ子さんがつないでくれるはずなのです。トモ子さんを感じて下さい」
(そんなこと言われても………)
 その時、アキ子は額の中央に何か熱いものを感じました。アントンはアキ子の表情が変わったのに気づいたのか、アキ子の肩に手をかけました。
「向こうに着いたら、すぐにこれをビワ湖に投げ入れて下さい」
と、握り拳ほどの大きさの青い石を持たされました。そして、アキ子はアントンの言うままに恐怖を感じる間もなく、穴に飛び込んだのでした。
 そして、気が付くと机の下にいたのです。

 数日が過ぎました。
 まわりは何事もなかったかのようでした。変わったといえば、
「外泊するときはちゃんとおかあさんに言いなさいね」
と、母親が二人にうるさく言うようになったことぐらいでした。地震もほとんど無くなりました。
 トモ子にとって、この2日間は、アキ子を救うため、いえ、この時間を救うために、十年分の勉強をしたような充実した気分でした。
「アントン、だいじょうぶだったかしら?」
「それがね、きのう庭でアントンに似た猫を見たの」
 どうやら安藤司は猫のままこちらの時間に戻って来たようです。
 二人はアントンを探しに外へ走っていきました。
「アントン!」


( 評 )
 ファンタジー的な作品であり、構成も文章自体も実に手慣れた作品として評価が出来る。環境問題へも示唆する内容であり、応募点数4作品の中では最高の出来栄えであろう。

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