小説 市民文芸作品入選集
入 選

一蓮托生
平田町 鎌田 淡紅郎

 私たちの兵団は、東北四県の各部隊から集めた将兵で、独立混成第五十八旅団として臨時編成された。通称名は盟兵団である。
 太平洋戦争が終わる前年の六月、九隻の船団で駆遂艦と海防艦に守られて出航した。どこに向かうのか知らされていないが、ガダルカナル島の撤退に続いて、南方の島が次々に玉砕という情勢と、支給された服装から、南方と分かった。船団を組んで南方に向かうのは、これが最後になるという口こみ情報は、輸送船の船員からのものであったろうか。
 台湾の東海岸に沿って南下したが、急に引き返して、北の基隆港の沖に避難した。敵潜水艦出没の情報が伝えられたのだ。二日後、こんどは東海岸に沿って、ジグザグ航法で南下した。この時は七月に入っていた。
 うねりが高く、ローリングするたびに、エンジンの響きが、時には高く、特には低く体に伝わってくる。
 甲板に出て揺られながら海を眺めていると、中学校で習った米国の軍歌が浮かんできた。
「イツ アロング ウエイ トウゴウ・・・・・・」
第一次世界大戦の時、欧州に送られる兵士の歌だ。その調べは明るくて勇ましい。
 いまはとてもそんな気分ではない。むしろ
「海ゆかば水つく屍 山ゆかば草むす屍・・・・・・」の日本の悲壮感にあふれる歌がぴったりする。南方に送られたら、もう生きて日本には帰れないだろうという思いが強かった。
 夕暮れの気配が感じられるころ、兵団の参謀竹中英雄少佐の訓示があるから、将校と下士官は全員甲板に集合との命令が伝えられた。参謀は、皆より一段高い船橋に立って、にらみつけるように左から右に視線を移した。私にとっては、初めて見る陸軍参謀という偉い人だ。小柄だが、目は大きく威圧感がある。参謀の印である懸章を肩から胸に下げ、その金色と鼻下の濃いひげが目立った。一通り見渡して、私のところで視線を止めた。
「そこの青白い顔をした下士官」
 私を指さした。一瞬どきっとしたが、大きな声で返事をした。
「神州不滅とはどういうことか。説明してみい」
 これまで教えられたように、弘安の役で蒙古軍を破った故事しか頭に浮かばなかった。余りにも当たり障りのない返事であった。参謀は否定も肯定もしないで、自分の話を始めた。
−ミッドウエイの海戦は、日米の戦争の流れを大きく変えた。これまで破竹の勢いで勢力圏を広げてきた日本軍は、この海戦を境に押し返された。しかし、これからが決戦の時である。神州不滅の精神を発揮する時である−。
 その説くところは大胆であり、明快であった。日本は負け戦の中にあることを暗示していた。新聞では勝った勝ったとしか書いていない。参謀の地位にある人でないと、公然と口にできない話であった。
 続いて、
−神州不滅とは、国家存亡の危機に当たって、国民一人ひとりが死力をつくして、この難局を乗りこえることである−。
 紋切り形ではない適切な訓示であった。
 それにしても、これから魔のバシー海峡に入ろうとする時、わざわざ訓示しようとしたのはなぜだろうか。
 船の個室にいても落ち着かない。陸軍では潜水艦に対しては、戦うすべがない。新任の参謀として、初めて生きて帰る見込みの少ない戦場に向って、その責任の重圧感、気負い、不安などの入りまじった複雑な気持ちであったにちがいない。自分に言いきかせ、気持ちを奮い立たせるために思い付いたのではないか。
 私は、日本はそこまで追いこまれているのかという、絶望感を深くしただけであった。
 その翌日、バシー海峡に入った時のことである。船倉を蚕棚のように二段に仕切り、畳一枚に完全武装の兵士六人の割合で押し込まれていた。私はその息苦しさに堪え切れず、朝早く甲板にでた。その時である。斜後方に続いている船が、黒い船首を直立させて沈没してゆくではないか。周囲には二隻の海防艦が走りまわっていた。
 対潜警報もないまま、僚船が目の前で沈んでいっている。あの船には何千人乗っているのだろうか。
 昨日の参謀の訓話からうかがえるように、この海域の制海権はもう敵の手にあるようだ。私たちの船は、何事もなかったかのように、大きく煙を吐きながら南に航行を続けた。
 着いたのはマニラ港である。
 だだっ広い岸壁がいくつか並んでいるだけで、船は私たち船団のものだけしか見えない。人も見えない。荷物のない岸壁は、いかにも空しく見える。ここにも戦況が表れているようであった。
 
 私の所属は、司令部通信隊の電報班(暗号班)で、三十人足らずの小さなグループである。班長は沼田充弘少尉。その下に白戸泰三曹長がいた。私は階級が一つ下の軍曹で、曹長の助手の立場の雑用係のようなものだ。
 少尉は体格といい顔付きといい立派な将校に見えた。曹長は少尉に劣らず大きな体で、軍隊の前は、田舎の草相撲の横綱を強っていたと聞いている。
 私には、少尉は威張ったり、怒鳴ったりするわけではないが、お高くとまっているようなのが気になった。皆からなるべく離れようとしているように見えた。
 上陸した日の集合地は、郊外の競馬場であった。夕方になって着いた時、私はひどい熱におかされた。奴隷船のような船の中、そのすぐ後の炎天下での暗号書の運搬がこたえたようだ。途中の道で、何人も日射病で倒れた落伍兵を目にしている。
 観覧席の最上段に一枚の天幕を敷いて、毛布一枚で横になった。震えが止まらない。寝返りを繰り返しながら、ひどく心細い気持ちになっていた。家にいる時なら、こんな時はすぐ氷枕をしてくれるのになどと、母のことを思い出していた。時々、船の荷揚げ作業に行く兵隊が、傍を通りかかって、デング熱だといっているのが聞こえた。早速、南方の風土病の洗礼を受けたのだろうか。
 熱は二日ほどでおさまった。その間、班長が一度もきてくれないのが、不満として残った。見捨てられたような気持ちであった。
 比島に来て初めの駐屯地は、ウルダネータという町であった。町の中心部の道は、舗装されていたが、割れたりひびが入っていて、荒れた感じが強かった。街路樹は椰子で、時々カルマタという馬車が、カツカツと軽やかな音で通りすぎて行くのが珍しかった。
 街路で見かける人の数は少なく、それも多くは裸足である。店のような家もあるが、品物は何も出ていない。街を行く人には、日本兵に対して敵意を持っているようには見えなかった。それでも、時に家の裏からのぞいた老婆の顔は、ぞっとするような険しい目つきであった。
 お金の価値はほとんどない軍票で、米などの食料品をかき集める日本軍に、民衆は好意を持つはずはなかった。私の目には、兵団長の訓示にある「比島の民衆を愛撫せよ」は、空しいものに見えた。
 この町に駐屯したことで、兵団の任務は明らかになった。町の位置は、リンガエン湾をとりまく平地の中心で、マニラの方向に開いている平野部の北の入口に当たっている。この湾は、緒戦で日本軍が上陸作戦を行ったところだから、米軍が攻撃してくる場合でも、最も重要な地域になるのであろう。
 兵団司令部は町の小学校に入り、電報班は教室一つ割り当てられた。建物は高床一階建てで、廊下が開放型になっているところはいかにも南方ふうである。周りは花壇で囲まれているが、枯れてしまった草花が傷ましい。教室には机も椅子もないから、生徒は他に移って勉強しているのであろうか。
 将校室は別にあるらしく、班長の姿は見えない。
 教室に入って落ちついてから、私は自分の気持ちを仕舞いこんでおけなくなって、曹長に訴えた。
「班長のことですが、自分から離れよう離れようとしているように見えるのです。将校だからと威張っている訳ではありませんが・・・・・・。戦地に来たからには、電報班は一蓮托生だと思うのです。三十人足らずの戦友じゃないですか。私は、話したことも、声を掛けられたことも、一度もありません。電報班のこの後のことを考えると・・・・・・」
 曹長は、ちょっと間をおいて、
「将校といったって、そんなもんだ」
 一兵卆から叩き上げて、曹長という下士官の最高位にまで昇進した苦労人らしい一言でいなされてしまった。
 その日の夕方、曹長は突然皆に告げた。
「久しぶりに旨いもの食うべ」
 そして、それぞれが携帯している非常食の米を、一合ずつ出させた。おかずはやはり非常食の鰹節である。その大きな体から、支給される飯盒の蓋一杯の食事では、我慢しきれなかったのであろうか。
 それにしても大胆なものだ。非常食は勝手に食べたら、軍律違反で重営倉ものだ。
 皆はその提案で、米を炊く者、鰹節を削る者などで、浮き足立ったように賑やかになった。炊きたての飯がこんなに旨いものか。曹長は車座の中央で満足げであった。
 その賑やかさが気になったのか、班長が戸を開けて顔を出し、何も言わずに去っていった。自分の監督責任を問われるのを、恐れたように見えた。見て見ぬふりをしたようだ。
 私には、班長と曹長の間の階級を越えた人間関係を見た思いになった。

 その後入ってくる情報電報は、米軍がここルソン島に迫って来ることを予測させるものばかりであった。アングアル島、ペリリュー島に続いて、比島のレイテ島にも上陸した。そして、南方総軍はマニラからサイゴンに撤退した。参謀の訓示にあった"変化した戦争の流れ"は、規模も早さも予想を越えていた。
 爆撃が激しさを加えて、リンガエン湾に米軍の艦船の集結が伝えられた。それは年が明けた一月六日である。「湾内は戦艦、航空母艦などの艦船が真黒にうめつくし、その数は数えきれない」という情報は、それだけでも、日本軍を圧倒するものであった。
 三日間の爆撃と艦砲射撃の後、上陸作戦が始まり、前線からの報告は、悲鳴に近いものばかりになっていった。それでも、鶴嘴とスコップで造った横穴の洞窟陣地は、一か月近く持った。ここの戦闘で、兵団に特別に配属された要塞砲や重砲は、あらかた失われた。こちらが一発撃つと、十倍にも二十倍にもなって返された。これは砲兵隊の兵士のぼやきである。
 私たちにも撤退命令が出た。洞窟を出て道路上にでると、そこはキャンプワンの三差路である。南に向かう道は、緩やかに下ってマニラに通じている。東に向かう道は、リンガエン湾に向っている。北はすぐ深い渓谷に入っていく。プエド川に沿ってゆっくり蛇行しながら、上りになって深い緑の中に吸いこまれていく。方面軍司令部のあるバギオに通じている。両側は切り立ったような崖だ。
 私たちは次の命令を待って、この渓谷に入って待機した。ここまで来ると、砲撃の音は全くかき消されてしまう。岩の間を縫って流れる水の音が気持ちよい。時には小鳥の鳴き声も聞こえてくる。山一つ隔てただけで、ここには穏やかな天地があった。
 だが、道路上は、頭や肩などに包帯を巻いた兵士が通りすぎていく。
 この静かな自然の中に身をおいていると、また生への執着心がよみがえってくる。ああ、いやだ、いやだ、俺は死にたくない。大君のためでも死にたくない。靖国神社に祭られるなんて真っ平だ。天佑神助があるなら、負けて奴隷のようにされても生き延びたい。何度こんな思いを繰り返してきただろうか。
 電報班二十人ほどの者は、僅かに差しこむ日光に誘われるように、川の中に入って体を洗った。これまで、着のみ着のままで、顔も洗わない一カ月余りの洞窟での生活が続いたのだ。石けんはないが、中にはシャツを洗って、岩の上に乾かす者もいた。戦場でののどかなひと時であった。
 その時のことである。
 突然、金属性の鋭い飛行音が響いた。二機のグラマンが渓谷の入口に姿を現し、機銃掃射の小さい水しぶきが川の上を走った。飛行機は急上昇して、山の上の方にいった。暫く道路脇に寄って隠れていたら、もう一度同じ動きで射撃をしていった。
 日本軍の動きは分かっているようだ。
 その後、食料の支給があると伝えられた。炊事係の方には、まだ手持ちの食料が残っていて、それが配られるのかと期待したが、それは人参くらいの太さの大根一人二本だけだ。バギオ近郊の農園で、日本出身の現地人の作物だという解説がついていた。
 大根の支給を機に、思い思いに組んで食事の仕度にかかった。戦場では食べられる時に食べておかないと、いつ移動の命令がでるかわからない。私の所には萩沢一等兵が飯盒を下げてきた。
「一緒にお願いします」と言う。更に「大根はどうしましょう」と二本差し出した。
 やっと三カ月の教育召集での教育が済んだばかりの初年兵だ。
 こんな大根ではどうしようもない、と思いながら、千切大根が頭に浮かんだ。小刀で細かく切って、飯盒の中蓋に入れ、大切にとっておいた粉醤油をふりかけた、熱い飯に、即席の大根おろしは家庭の味であった。何年ぶりの味だろうか。
 おろしの味で、私は母を思い出した。
「おっ、これは大根おろしの味じゃないか」そう言って、萩沢の顔をみると、その目は潤んでいるようであった。
「うちは田舎ですから、母がよく作ってくれました」
 そう言って、かすかに微笑み、目をふせた。
 青森の八甲田山に近い村の出身と聞いていた。手は白く節くれだっていない。農作業をしてきた手ではない。顔も色白で、頬や鼻の柔らかな線も、お公家さんのような優しさだ。笑うとえくぼもできる。目もとの優しさは女性的だ。言葉は津軽弁ではない。
 萩沢は、思いつめた様子で話し始めた。
「私は死ぬのが怖いんです。とっても怖いんです」
 いままで、誰もこんなことを言った者はいない。
「俺だって怖いよ。この先のことを考えると、透明人間になって、ここから逃げ出したくなるんだ。子どものような空想だがな」
 私は慰めにもならないことを言った。
「私は脚気なんです。とても皆に付いて行けそうもありません。それに移動したら、兵団長の当番に行くように言われています。皆から離れたくないんです」
 このことは初耳だった。そう言われてみると、行軍の時は後れがちであったし、歩く様子も大儀そうだ。移動の時、落伍したら結末はみえている。萩沢は、死が目の前のこととして、私より差し迫った現実になっていることを知った。
 私は言葉に詰まって、残る唯一の道は、投降しかないと思いながら、黙ってしまった。これは軍隊の中では禁句で、一か八かの賭けなのだ。仲間から離される心細さで、言わないでおられなくなって、訴えたのだろう。
 副官部には人も多いのに、なぜ萩沢を指名してきたのか、理解しにくいことであった。殿様の小姓のようなものか。腑におちない。

 その後、兵団は湾岸地域から撤退して、バギオから東に下るナギリアン道にでた。戦線を縮小して、部隊の配備を変えたのであった。
 ここの配置についてからは、情報電報が極めて少なくなった。代わりのように、米軍の観測機からよくニュースと宣伝ビラがまかれた。「落下傘ニュース」は、私たちの貴重な情報源になっていった。
 首都マニラはもう米軍の占領下になって、ニュースは「米軍マニラ司令部発行」として、立派な新聞形式になっていた。三月に入ってからは、東京と名古屋が空襲されていることも知った。欧州の戦線でも、ドイツ軍が崩壊しつつあることまでのせていた。
 そこでの私たちの毎日は、渓谷の底の繁みの中に天幕を張って、雨をしのぐだけで、宣伝ビラで、"獣のような生活"とからかわれている。兵団長や参謀も同じであった。
 その上、生き延びるため、食糧集めが最大の仕事になっていた。近くの山に行って、焼畑を探しだして、根こそぎ甘藷を堀ってくるのだ。時に唐辛子でも見つかると、貴重品であった。
 三月も下旬になってからのことである。その日は、戦友たちにも秘めていることがあって、私にとって特別の意味があった。
 右手に小銃を持ち、左手で灌木の枝をにぎって体を持ちあげたりしながら、やっと岩だらけの沢道をよじ上った。上りきると、小高い丘の上にでて視界が開けた。すぐ下にはナギリアン道が通っている。道は山裾に沿って、切れたり見えたりしながら、蛇行して海岸の方に下っている。曇り空で、ナギリアンのあたりはかすんでいた。
 丘の上に一行七人がそろったところで、私が口火をきって行く方向をきめた。ゲリラの出そうな所はさけた方がよい。
 皆が出発した時、その中の古参の古戸兵長を呼びとめた。私と同郷で、口が堅くて信頼していたからであった。
「俺はどうしても確かめたいことがあるので、一人でナギリアン道を下った方向に行く。途中で、俺の姿が見えないことに、気がつく者がいても、決して心配しなくてもよいと話してくれ」
 古戸は、腑に落ちないような顔つきであったが、黙ってうなずいた。もう察しがついたかも知れない。
 私は皆から離れると、上着のポケットから宣伝ビラを取りだした。
−この日を投降指定日にして、早朝から午後四時まで一切の攻撃を中止する。武器を捨て、白い旗かこのビラを高くあげて、米軍の陣地にきなさい。命は助けて、十分な食事を与える−
 こんな趣旨で、今日がその指定日なのだ。
 私はこのビラに心を揺すぶられたが、まだ投降すると決心したわけではなかった。「生きて虜囚の辱しめを受けず」戦陣訓の教えが身にしみている。それに仲間を離れて行動する後ろめたさも強い。裏切り行為とも言える。そんな心の揺れの中で、米軍は果たして休戦の約束を守るのか、確かめたい気持ちになっていたのだ。
 暫くナギリアンの方に下ると、道はかなり大きく台地を迂回した。その時、台地の上で、戦場ではありえない光景に出くわした。一人の農民が畑をたがやしているのだ。黒っぽい作業服を着た中年の男だ。ゲリラか。す早く灌木の陰に身をかくし、銃の安全装置を外した。
 暫く様子をうかがっていたが、同じリズムで鍬をふるっている。大胆な奴だ。あたりを警戒するふうもない。この農民は、どうも休戦日を知っているのではないか。ゲリラなら、もっと周囲を警戒するそぶりをみせるはずだ。
 そこまで考えて、こちらも警戒心をといてまた歩きだした。
 米軍に見つかったらどうするのか、どこまで近づいていくのか、何の計画性もなかった。しかし、ともかく行ってみようと海岸の方に進んだ。道は緩やかな傾斜で下っている。どこまで行っても人の気配はない。周りの山は静まり返って、海岸の方はかすんでいる。下りてきた距離からいって、このあたりは、日本軍と米軍が錯綜している所のはずだ。
 どうも、攻撃しないという米軍の約束は守られているようだ。そうなると、私の想念は投降する時のことになっていった。待ちうけている米兵の中には、射撃練習の標的にする気まぐれ者もいるはずだ。戦友の仇として、腹立ちまぎれに、なぶり殺しにしようとする者もいるかも知れない。こんな時は、現場の指揮官次第だろう。
 何れにしても、投降は命を的にした賭けだ。
 もうどのあたりに来ているのだろう。道は平地に移って、まわりの風景が少し変わってきた。灌木の繁みが連らなって、先が見えなくなってきた。そうなると、その灌木の後にはゲリラが待ちぶせ、銃口を向けているような気持ちになってきた。ゲリラの日本兵に対する憎しみは深い。そうなると、急に恐怖心が湧いて、引き返す気持ちになった。
 どうせ投降の下見に来たのだ。ここで引き返そうと向きを変えた。二度ほど振り返ったが、何の変化もなかった。戻るという気持ちになると、急に食糧集めの任務を思い出した。
 暫く来た道を上って、今日はどこに行っても安全らしいと、横の台地にそれた。そこには手つかずの甘藷畑があって、すぐ天幕いっぱいの収穫があった。日本軍と米軍の対じする接点になっているため、近くの日本の兵士も手を付けにくかったのであろう。その他、まだ小さくて未熟なとうもろこしもあった。生でかじると水っぽい。それでも粒だけでなく全部食べられる。甘藷と違う栄養分があるから、二十本ほど雑のうに押しこんだ。
 あとは昼の腹ごしらえをして、ゆっくり帰ればよい。枯木を集めて火を燃やし、甘藷をほおりこんだ。焼いた甘藷は、水気なしではそんなに腹に入るものではない。焚火の煙は遠くからでも見えるから、危険だが、何事もなかった。
 その後も、何度か宣伝ビラや投降勧告ビラがまかれたが、休戦日はその一日だけであった。

 イリサンの陣地も四月下旬までで、兵団はまた撤退に追いこまれた。リンガエン湾から撤退した時は、兵団固有の部隊は崩壊し、イリサンでは後から配属された部隊も崩壊した。もう兵団としての組織も危機に追いこまれた。
 撤退の途中バギオを通った。山の中の公園のように美しいといわれ、夏の首都であったこの町は、もう廃墟であった。到る所爆撃で掘り返され、松の木が倒れて道をふさいでいる。電柱も倒れて電線が垂れ下ってのびている。時々日本兵の姿も見える。
 第十四方面軍司令部のあった壕に入った。中はかなり広く、三方に枝分かれしている。どこにも敷物や装具が散乱して、撤退の時の混乱を物語っていた。
 最初に食料を探したが、全くなかった。軍司令部でも食糧は不足しているのであろう。飲みさしの米国製ウイスキーのびんがころがっていた。日本軍が比島攻略の時の戦利品であろう。唯一の収穫は"鵬翼"であった。軍の高級煙草で、私たちには支給されることがなかった。この壕は経理部のものであろうか。こんなところにも、方面軍司令部と前線部隊の給与の実状の違いが表れていた。
 私たちは、そこから山岳地帯中部のボンドックを目指した。バギオを出て、農園のあるトリニダートに入るあたりは、重砲の集中砲撃を受けていた。天空をふるわせて落ちてくる砲弾におびえながら、合間をぬって北の方に急いだ。小さな川にかかった橋の周囲には死体がいくつも散乱していた。
 こんな時の班長はいつも先頭で、姿は皆からはなれていく。軍力と図嚢だけの身軽な身で、暗号書などの荷物を持たないから、それもできる。後に続いている部下を気にしている様子も見えなかった。ひたすら兵団副官部の後を追っているようだ。私物の入っている将校行李は、当番の小林一等兵が背負っているのに、それも気にならないのだろうか。
 次の目的地は、ボンドック道二十一キロ地点と伝えられている。時々、突然双胴のロッキード戦闘機が現れ、低空で機銃掃射をしていくのに肝をひやした。日本軍の移動の偵察もかねているのであろう。
 暫く北の方に進むと、道路脇の水路の中に死体が三つあった。私は、一人の軍靴がまだ破れていないのに目をつけた。いま履いている靴は、底革がはがれて歩きにくい。乗船の時支給されたものだが、もう持ちそうもなくなっている。その靴と替えようと思って、靴を脱がせようしたら、か細い声で「まだ生きています」と言って、僅か目を開いた。私はすぐ手を離した。何か悪いことをしたような嫌な気持ちになった。いま着ている服も、戦死した者から失敬したものだが、胸のところが大きく破れている。
 道が蛇行して、側が大きな窪地になって木の多い所では、落伍兵が集まっていてよく声をかけられる。
「水を下さい。少しでもよいから水を下さい」甘藷を下さいと叫んでも、くれるはずはないから、せめて水でもというのであろうか。あるいはもう歩けなくなって長い間飲んでいないためであろうか。ズボンを下ろして、赤い尻を出している者は、アミーバ赤痢だ。末期を迎えている傷病兵は、たいてい数人の者が集まっている。人間は死期を迎えた時も、一人では淋しくて連れを求めるようだ。だが、顔見知りの者でないと、ちらっと見ただけで通りすぎていく。
 二十一キロ地点でも、これまでと変わりなく、半数が甘藷探しに出かけ、残りの者が電報の仕事をした。しかし、電報の数は極端に少なくなった。通信隊では、無線機の真空管が底をついて、ほとんど使えなくなっているようだ。
 ここに着いて、二、三日たったころのことであった。班長が将校行季の中から"光"を出して、煙草を吸う者に二個ずつくばった。私はよくこれまでこんなものを持っていたと呆れた。この煙草は、一般に売っているもので、軍用ではない。日本を出る時買って大切に持ってきたものに違いない。高級煙草である。私は、その物持ちのよさと、用心深さにこの人を見たのだ。ひどいけちなのか。
 ところが箱を開けてみると、煙草はどれも茶色のしみが全体に広がっている、試しに一ぷく二ふくしてみたが、もうすっかりかびの味に変わっていた。誰もが箱ごと近くの草むらの中に捨ててしまった。
 どうも、班長は私たちの吸う"鵬翼"の香りの刺激をうけて、手持の煙草を出す気になったようだ。同じ電報班のグループでも、食料は全くの共有物だが、その他の物は持主の物というのが、自然にできあがった不文律になっていた。班長には、誰も手持ちの"鵬翼"を分ける者がいなかったらしい。
 ここの陣地もそう長くはもたない。撤退の時、暗号書の運搬で困らないようにしよう。そう考えた曹長は、いま使っていないものは早く運んでおこうと計画し、私と五十嵐一等に命令した。私たちは安全な後方に喜んだ。
 二十一キロ地点を出て暫くして、見晴らしのよい所にいくと、五十嵐は立ちどまって、この風景は絵になるなどと陽気な調子になった。美術学校の洋画科の学生らしい感想で、軍隊の縛りから少しでも離れた開放感であろう。十キロほど北の方に行くと、左手にちょっとした広場があった。その奥には一軒の家もある。戦闘に入ってから、屋根のついた家に入るのは初めてであった。床板はところどころ破れているが、雨をしのげるのが有り難かった。平和な時は、バギオとボンドックの中間の休憩所になっていたのであろう。
 二人は交代で近くの山に出かけ、甘藷探しをした。のどかな毎日であったが、一人の山歩きは大変危険だ。このあたりの山地民族はイフガオ族で、首狩り族として知られ、畑を守るためゲリラ化している。見つかったら命はない。小銃は持っていくが弾丸は五発しか残っていなかった。
 ある日、五十嵐はいつもと違った重い調子で話しだした。普段は芸術家らしく、軍隊の階級には何の権威もおかない調子で話すのだが、その時は改まった様子であった。
「私は、戦闘が始まる前、比島人からよくミステーソではないかと言われました。背が高くて、顔付きからも、そんなふうに見えたのでしょう」
 ミステーソというのは、米国の前に比島を支配していたスペインと、現地人の混血のようだが、いまでは、白人と現地人の混血のことになっている。山形県の鶴岡出身で色は白い。その上顔のほりも深くて背が高いから、そのようにも見える。
 私は、何を言うのかと次の話を待った。
「この戦争で、日本は勝つ見込みは全くなくなったと思います。なんとか生き延びるため、ミステーソになりすまして、比島人の中にもぐりこんだらどうかと思っています。英語もカタコトならなんとかしゃべれるし、現地の人に溶け込んでいけるのではないかと思うのですが・・・・・・」
 背が低く、典型的な日本人顔の私には、通用する話ではない。民家の裏から、じっと見つめていた老婆の険しい視線を思い出しながら、その可能性はまずないと思い、私は黙っていた。暫く沈黙が続いた後、こんどは私から話を始めた。
「俺は中学生の時、外国航路の客船の船長になりたくて、高等商船学校に入ろうと思った。ところが、背丈はぎりぎりよいのだが、視力が足りない上、色弱があるから入学できないことが分かった。それでも、どうしても海に関係のある仕事をしたくて、水産に入った。色弱は検査の女医さんが目こぼししてくれた」
 五十嵐は、この話に意外に明るく反応した。「私も高等商船を目ざしました。ところがこの肘が・・・・・・」
 そう言って右腕の袖を上げた。肘が少し曲ったまま、伸びきっていない。
 話はそれから郷土料理のあれこれに移った。
 何とか生き延びるため、五十嵐も絶えず出口を捜し求めていた。私も・・・・・・。だがその出口は二人が違っていた。
 兵団長も参謀も、同じようにその出口を求めて、必死の思いでいるに違いない。しかし、二人は立場からいって、それが口には出せないのだろう。班長も同じだろうが、こんなに追いこまれても、連帯感が感じられないのはなぜだろうか。

 この後、兵団は三十九キロ地点に撤退した。七月中旬になって、ボンドック道を捨て、複廓陣地に入る命令がでた。複廓陣地といわれても私にはよく分からなかった。明治維新の最後に、幕府軍が函館に立てこもった陣地が連想された。こんな所に陣地といえる立派なものが造れるはずがない。比島北部の残っている部隊が全部、一つの山を中心にして、その周囲に集まるということのようである。比島の日本軍は、いよいよ最後の時を迎えようとしていることが感じとられた。
 私たち十数人は、夜明けを待って出発した。ボンドック道五十八キロ地点まできたが、そこからアグノ川の流れる渓谷に下る道はない。岩だらけの崖をころげ落ちるように下って、雨に叩かれながら渓谷の底に着いた。
 そこは荒い石ころだらけの荒地で、白樺に似た細身の木の林であった。そこには一軒の小屋があった。いや小屋ではなく、ここの人にとっては家に違いない。中に大きな囲炉裏があり、甘藷と葉を煮た鉄鍋に湯気があがっていた。火はまだくすぶり続けている。朝食だろうが、突然の日本兵の出現にあわてて逃げたらしい。
 日本の弥生時代の家はこのようなものかと思わせる造りだ。土間に木を組み合わせて、そこに葦のような植物を組んで覆っただけだ。付近には十数羽の鶏が走りまわっていた。日本で見慣れた鶏よりやせて小さい。どれも茶色である。
 ここに着いて一緒になった者は七人ばかりであった。皆何をおいても夢中で鶏を追いかけまわした。家に逃げこんだ五羽ほどをつかまえて羽をむくなり生でしゃぶりついた。餓鬼というのはこういう様のことであろう。外にはまだ七、八羽見えるが、追いかけまわしても捕まらない。古戸兵長は落ち着いた調子で、夕方になったら必ず戻ってくるから、放っておけと、他の者をたしなめた。小銃を使えばよいが、ゲリラに日本軍の移動の様子が分かるからと、撃つことは禁止されていた。
 この時も、班長は一人先頭に立って行ったから、鶏にはありつけなかった。
 その日は、残っている鶏を捕えるだけで、その小屋で一日すごすことにした。囲炉裏に枯木を燃やして服を乾かしたり、甘藷を探すため、近くに出かけたりした。
 夕方になると鶏は巣に戻ってきた。巣の中では簡単に捕まって、夕食にはゆっくりした気持ちで、焼いて食べた。比島にきて初めて食べる鶏で、思わぬご馳走にありついた。
 翌日アグノ川を渡って、対岸にそびえるアキ山のふもとで班長に合流した。そこからあらかたそろった者たちで行軍を続けた。
 比島はもう雨期に入って、夕方になると激しい雨が二・三時間続いた。暗くなって急な坂道の所で動きがとれないので、そこで寝ることになった。天幕一枚かぶって横になった背中を水が流れていた。
 明け方になると、昨夜の雨が嘘のように晴れていた。うす明かりの中で出発し、ようやく山が望める所まで上った。
 そこで小休止した時、曹長が改まった調子で言った。
「誰か古戸と小林を見なかったか」
「古戸兵長殿は、川を渡るまで一緒でした。その後は・・・・・・」
「小林はマラリヤの熱で、頭がふれているからしようがないが、古戸は弱っているから放っておけない。誰か探しに行ってくれんか」
 曹長は皆を見渡したが、手にしている銃を拭いたり、雨で濡れた毛布を広げたりして、誰も顔を上げない。すっかり疲れきって、やっと上ってきた道をもう一度往復する気持ちにはならないのだ。
 私もためらった。だがこの中では、いちばん元気そうだし、古戸は同郷だ。いままで一言の不平もいわず、甘藷堀でも何でも人一倍役に立ってくれた。放っておくわけにはいくまい。そう考えて銃を手にして立ちあがった。弾丸はもう四発しか残っていない。
 曹長は安心したように眉を上げた。
「おお、行ってくれるか。ふもとの民家のあたりまで行って、近くを探すだけでよい。頼む、頼む」
 私は天幕の中から濡れた毛布と飯盒を出し、飯盒は雑のうの中に入れた。天幕は、途中何か食べられるものが見つかった時の用意である。
 来る時は夢中であったが、上から見ると大きい渓谷だ。下に下りるにつれて、川の周囲の台地には点々と民家のあるのが見渡せる。上る時は気が付かなかったが、見事な風景だ。川に沿った台地には稲田もあり、緩やかに南の方に傾斜している。砲声はないし、銃の音も聞こえない。平和な風景だ。ここの人たちは、棚田で米を作り、甘藷を植えて、肩を寄せあうように生きてきたのだろう。
 こんな風景を眺めながら、ぼんやりと自分の行く末のことに思いを巡らせた。もう長くはないが、まだ死からの出口は見つからない。これから東海岸にでて、竹の筏を造って、台湾に脱出するのだという話も聞く。中には潜水艦が迎えにくるという者もある。何とか生き延びたいという気持ちが、こんな幻想を生んだのだろう。
 やがて民家がよく見える所まで下りた。物音は全くない。谷の中を流れる川の水音もきこえない。川までの距離は、まだかなりあるのだろう。
 周囲を警戒しながら、ゆっくりと一番近い民家を目ざした。家の前についた時、兵隊がゆっくり高架の階段を下りてきた。古戸だ。
「おお古戸、迎えにきた。小林は一緒でなかったのか」
「途中で顔を見たども・・・・・・。どこかで食物を探しているんでないすか。この家には籾が沢山残っていたもんで、少しでもついて持っていこうと思ったもんで」
 そういえば、高架の下には、臼と杵があった。住民はあわてて逃げたのだろう。
「敵はまだここまではこないようだ。俺も手伝うか」
 早速上から籾を運んでつきはじめた。古戸は上に行って甘藷を炊くという。
 ひと臼の米がやっとつき上ろうとするころ、ボンドック道の方から、「ボン・ボン」と発射音が聞えた。二・三秒ほどして、空気を突き破る鋭い音がして爆発音が続いた。迫撃砲だ。米軍の追撃は意外に早かった。落下点はまだ家から離れている。
 谷間にはまだ日本兵が残っていて、それを狙ったのだろうと思って、米つきを続けた。二回目の砲撃は少し近くなった。それでも続けた。三回目は近くの木に当たって、枝をとばしてしまった。ここを狙っていることがはっきりした。こんどは家から離れて窪地に身を隠した。それでも古戸は家から出てこなかった。
 暫く様子を見ていたら、射撃はあと二発で終わった。家に戻ってみると、古戸は囲炉裏の傍の腰掛にすわって動かない。後から見ると、首筋はほっそりとして皮がたるんでいる。頭は頭蓋骨の継目が見えると思われるほどになっていた。紅顔のまるまるした青年であったことを思うと、痛々しい痩せ方だ。
「古戸、俺たちはもう見付けられて狙われてるぞ。こんど撃ってきたら隠れろよ」
「どこにいても、弾丸は当たる時もあれば、当たらないこともあります。同じことです」
 長い戦いの日々と、マラリヤの高熱ですっかり弱った末、悟りの境地になっているのであろうか。半ば、生きるのを諦めているようにもみえる。古戸は飯盒の蓋をとって、甘藷の炊き具合を調べた。
「射撃が止んだから、もう少しついてくる」
私は下におりて米つきを続けた。五分ほどついていたら、また射撃が始まった。私たちの様子がすっかり見られていることは明らかだ。
 たった二人の敗残兵に、迫撃砲を向けてくる米軍の贅沢さには呆れた。
 こんな米つきと砲撃のいたちごっこは、三度ほど繰り返したが、破片が近くに飛んでくるようになった。私は次第に高まってくる恐ろしさから、止めることにした。装具と米をまとめて古戸を促した。階段を下りてくる足どりは、ゆったりしているが、意外にしっかりしていた。体力はゆっくり回復しているようにみえる。
 やがて、谷全体が見渡せる台地まで上った。砲撃が止んで、谷はすっかりもとの静けさにかえった。やれやれと思って、草の上に腰をおろして休んだ。
 その時である。双胴のロッキード戦闘戦が三機現われた。北の山の上から、谷筋に沿って下流の方に急降下した。急降下に続いて大きく旋回し、また山の方に向かっている。私たちは、演習でも見るように、その動きを眺めていた。どうも単なる偵察の様子ではない。谷底にはまだ日本兵が残っているのであろうか。
 三回目の降下で爆撃を始めた。一機目の爆弾は谷の底に落とされた。ところが、二機目は照準が狂ったのか、投下された爆弾が目に入ったとたん、私たちの近くの岩に当たった。無数の破片が天空に舞い上がるのが目に入った。あ、あと思って、とっさに米を入れた天幕を腹の上にあげて、仰向きになっていた。大小の破片が、大きく網を広げたようになって落ちてきた。その瞬間頭に大きな衝撃を受けた。やられたと思ったら、頬を生温かいものが流れた。手でぬぐったら、手は血だらけだ。
 これで死んでいくんだと思った時、「母さん、助けて、助けて」と心の中で叫んだ。そして、すっと意識がなくなった。
 その後、どのくらい時間がたったか分からないが、ゆっくり夢が覚めたように意識が戻ってきた。頭の上では飛行機の旋回が続いていたから、僅かの時間にちがいない。急いで近くの岩の下に行こうとしたら、左の足首に激しい痛みが走った。関節もやられたらしい。右足と手でいざりながら、近くの岩の下にもぐりこんだ。
 古戸もやられたかも知れないと思ったが、探すゆとりはなかった。やがて飛行機は去っていった。もう一度顔にさわってみたが、出血は止まっているようだ。
 さて古戸を探さなければと思って、岩から這い出て草むらにすわりこんだ。
 その時である。
「おい大丈夫か」と頭の上で声がした。曹長だった。爆撃の終わるのを、近くで待っていたのだろうか。軽く頭にふれて傷を調べた。
「もう出血は止まってる。大丈夫だ。古戸はどうした」
「爆撃されるまで一緒だったから、近くにいると思います。でも私は足首もやられているから歩けません」
 こんな話し声がきこえたのか、古戸も寄ってきた。負傷しなかったようだ。
「古戸、銃と荷物持てるか」
「何とか持っていくす」と答えたが、米もあるから相当な荷物だ。
「行くか」と言って、曹長はしゃがみこんで背を向けた。私はおぶさった。その背中は幅広く、その体温が伝わってきた。急な坂にくると、私の体は大きく揺れた。
 私は小さいころ、母の背中で泣きじゃくりながら、おぶさっているような気持ちであった。揺れながら、何か大きなものに包まれ、守られているような気分になっていた。
 そのうち、知らず知らずに寝てしまった。時々大きく揺さぶられるのは、微かに分った。戦いの不安も、後からついてくる古戸のことも、すっかり忘れてしまっていた。
 気がついたら、大きな倒木の上におろされた。皆のいる所についたのだ。地下足袋をぬいで足首を調べたが、外傷はない。少し曲げると、痛みが走った。これでは当分歩けそうもない。頭には、波打つような痛みは残っているが、たいしたことはなさそうだ。
 いま私を支えているのは、皆との連帯感だ。それしかない。曹長に背負われてきた時の、背中の温かい感触を思いだした。あの時は、身も心もすっかり任せていたではないか。
 一蓮托生という言葉を思いだした。仏教から生まれた言葉と記憶している。この後、何日生きられるか分からない。しかし、曹長や古戸とは一蓮托生で、死を共にしてもついていける思いになった。これまで模索し続けてきた死の恐怖からの出口はこれしかない。そんな安心感に達した。
 この言葉から、思いは仏の世界に広がった。うちのお寺は浄土宗で、祖母に連れられて小さい時からよく通った。そのためか法然と親鸞には格別の思い入れがある。中学校三年の時読んだ「歎異抄」は、よく理解できなかったが、次のくだりだけは記憶に残っていた。
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」
 その中の「よきひと」は、私にとって曹長であり古戸であった。
 生死を極限まで詰めさせられる戦場で、辿りつく所と、宗教的想念を積み重ねて、開ける境地は同じ世界のようだ。


( 評 )
戦時中の比島戦線の体験記。投降ビラを手にしながら撤退する所など、もう少し、しっかり書いてほしかった。
また、浄土宗の僧が、親鸞を説いたり、歎異抄を説いたのは何故かという疑問も出てきます。惜しい作品です。

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