夏の記憶
私の少年時代の記憶のほとんどは夏の中にある。夏の太陽の眩しさの中に、夏の星座のきらめきの中に、さまざまな夏の音や夏の色や夏の匂いの中に、少年の日の幾つもの光景が鮮やかに蘇る。いや、もっともっと具体的で小さなもの、たとえばラムネのあの胸のくびれたガラス瓶とかスターのモノクロのブロマイドとかレコードのシングル盤とか軟式野球の白いゴムのボールとか、そんな取るに足りないささやかなものの中にも少年の日の夏を確かに覗き見ることができる。
ほんの少しそういう一つの例を出してみるなら、たとえば袋に入ったインスタントラーメンだ。インスタントラーメンだけでも少年の夏をめぐる思い出の海に向けて航海を始めることはたやすい。
私が中学生の頃、わが家ではインスタントラーメンはみそ汁の中のあの朱色のお椀に入って食卓に並んでいた。母がでかいキツネ色の鍋にインスタントラーメンの玉を五つも六つもほうり込みそこに葱や薄く細く切ったちくわを入れて炊き込んで、そしてそれをキツネ色のオタマでもって家族分のみそ汁のお椀に等しく分配して入れていた。そのインスタントラーメンは夕食における立派な<主>のおかずであった。七十を過ぎていた祖母も文句ひとつ言わずお椀入りのインスタントラーメンを食べていたし、毎日晩酌をしていた父も当たり前の顔でお椀入りのインスタントラーメンを酒の肴にしていた。それは寒い時だけじゃなかった。真夏の暑い日の夜も食卓の上にはインスタントラーメンだった。扇風機の風に煽られ蚊取り線香の煙りが立ちのぼる中、家族全員額に汗して食べていた。私は決して当時の自分の家の貧しさを誇るつもりはない。わが家のテレビは白黒でわが家には車もなかったあの頃の、私の近所、私の村の家々のインスタントラーメンに対する感覚は五十歩百歩だったように思う。魚やコロッケや豆腐を買うように竹で編み上げられた買い物籠を提げて母は蠅取り紙がぶらさがるそろばんを弾いてお金を計算していた近所の八百屋にインスタントラーメンを買いに行っていた。ちなみに私の中学時代は大阪では万国博覧会が開かれた一九七〇年に始まっている。
インスタントラーメンは夏のわが家の食卓だけを思い出させるものではない。あの頃嫌いでありながら遊んでいた進と進の母親の俊子さんの顔もインスタントラーメンを通してすぐに浮かんでくる。当時の人気マンガ『魔法使いサリー』の三つ子の男の子そっくりだった同級生の進の家は母子家庭で、進むと俊子さんのふたりきりで村外れの池のそばの屋根が崩れ落ちそうな小さなボロ家に住んでいた。俊子さんは彦根の袋町のクラブで働いていて、夏休みに進の家に昼間行くといつも起きたばかりといった感じの格好で洗濯をしたり化粧をしたりしていた。ヒラメみたいな細い目で髪をアップにして頭上を渦巻き状にしていた俊子さんは進をよく怒鳴り散らしていた。進がどこかに帽子を忘れて帰って来たとするとたちまちこうだ、「もしもそれが帽子と違って一億円入った鞄やったらどうするん。おかあちゃん一生働いても返せへんやん」。そういう形でことあるごとにしかられていた進は私と遊んでいる時にしばしば口をとんがらせてはひがむように拗ねるように言うのだった、「やっちゃんはほらええわな、おとうさんがいるさかい」。進の父親は進がまだ物心つかない頃にほかに女を作って進と俊子さんの元から去って行ったようだった。私が嫌いでありながら進の家に遊びに行った理由はひとつ。進の家はオンボロだけど、どういうわけだか茶の間にドーンとパイオニアの大きなセパレートのステレオがあったからだった。そのきれいな木目のステレオの前で、私は俊子さんが作ってくれたインスタントラーメンを進といっしょに一度食べたことがある。「うちのおかあちゃん、ラーメン作るんメチャメチャうまいんやんで」と俊子さんが作っている最中に鼻高々の言い方を進はした。あの時、俊子さんは上にはシャツを羽織っていたが、下はスカートは履かず丈の短いシミーズだけだった。恥ずかしいことにその揺れるシミーズの白さとそこから出ている二本の素足の太ももに私の目は奪われていた。すると「うっとこ、いっつも『駅前ラーメン』よ、やっちゃんとこは何ラーメン買ってるん?」と俊子さんが聞いてきて、私はしどろもどろになっていた。俊子さんが作ったインスタントラーメンは入れた卵をすぐに潰してあるらしく汁や麺に黄身や白身が混ざっていて、家で食べるインスタントラーメンとはまったく別の味がして、実際あれだけたかがインスタントラーメンに感激したことは後にも先にもない。汗をいっぱいかいて汁まで全部飲み干して顔を上げると、襖の向こうで鏡に向かって化粧を始めた俊子さんの後ろ姿があった。団扇でパタパタというよりパチパチと体にぶつかる音をたてて扇ぎながら、懸命に口紅を塗っていた鏡の中のタラコのような唇。・・・・・・
私はこれからこんな調子で、私の少年時代、中学の頃の夏の記憶を少し辿ってみようと思う。私は少年の頃、ずっとずっと音楽が好きだった。だから手繰り寄せる記憶の断片にはどこにも必ず歌がぴったりと寄り添っている。
【1】
私がはじめてシルビーを見たのは、中二の夏だった。村の神社の夏祭りの江州音頭の輪の中に真っ赤な浴衣を着て踊るシルビーのちょっとはにかんだにこやかな笑顔があった。
その時私は妹と父と母の四人で踊りの輪を取り巻く見物人たちの群れの中にいた。
「あの赤い浴衣の人、べっぴんさんやなあ」
露店で買ったタコ焼きを口に運びながら言った小学五年生だった妹のその一言が、私をシルビーにはじめて出会わせた。
踊りの輪の中に、近隣の市町村のミスたちが十人程固まって特別華やいだ雰囲気をつくっているところがあったが、妹の言葉どおりその若い女性たちの中でも赤い浴衣の女性の美しさは抜きん出ていた。彼女のところだけにスポットライトが当たっているように思うくらい光り輝いて見えた。私の目は瞬時にして彼女に釘付けになっていた。テレビや映画ではなく現実の世界でこんなに美しい女性を見るのは生まれてはじめてだと思った。
「あの人、どこのミスやろ?」
妹の言葉は父の耳にも入ったらしく、父の目も赤い浴衣を追いかけていた。
「何言うてるん、うっとこの町(ちょう)やんか、ほら、公民館のそばの井上さんとこの娘さんやんか」
父の疑問に母は素早くそんなふうに答えると、「確か、彦根のM銀行に勤めてやって、あんなべっぴんさんやけど、飲んだくれのお父さんとしょっちゅう入院しやるお母さん抱えてはって、なかなかお嫁に行けへんって噂やんか」と小声でそんな解説も付け加えた。私は赤い浴衣の彼女の横顔に見とれながら、母の解説にちょっと胸が痛くなった。自分が素晴らしいと思ったものにある<悲しみ>が宿っているということが自分の胸を痛くさせる、そういうせつない感情を、べたべたと夏の体に絡まりついてくる泥臭い節回しの江州音頭が流れる中であの時確かに味わっていた。
私はその夜からフランス人ではなく日本人のシルビーの夢を見るようになったのだった。
あの夏、白黒のテレビのブラウン管の中では南沙織が大胆なミニスカートをはいて『十七歳』を歌っていた。一九七一年、五木ひろしとか小柳ルミ子なんかもデビューした年だったが、私の興味は日本の歌謡曲にはなく洋楽の方にあった。小学六年の終わり頃だったように思う。それまでブルーコメッツだのタイガースだの日本のGSサウンドに心ひかれていたのが、ある日ラジオでサンレモ音楽祭の特集番組を偶然聞いていっぺんにカンツオーネのとりこになった。『この胸のときめきを』や『涙のさだめ』の美しいメロディーに魅せられ、言葉はさっぱりわからないのでハミングしたりデタラメなイタリア語で歌ったり音楽の時間に使う立て笛で吹き鳴らしたりしてひとり勝手にカンツオーネを楽しんでいた。そして、中学校に入学。ビートルズは解散した。当時の私はビートルズやローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンといったロックにはそれほど関心がなかった、というかあの激しく速いビートについていけなかった。中学に入った私はイタリアからフランスへ、カンツオーネからフレンチポップスへとりこの対象を替えて行く。そのフレンチポップスはただただひとりの歌手の音楽がすべてで、日本は近江、湖東の山間の小さな村のいが栗頭の中学生のハートを射止めた歌手こそが何を隠そうシルビー・バルタンだった。中学生になってはじめて買ったレコードのシングル盤を私は一生忘れない。彦根の銀座の<川原崎>という宝石と眼鏡も売っていたレコード店で私は二つのシングル盤のどちらを買うかの二者択一に死ぬほど悶え苦しんでいた。『あなたのとりこ』というシングル盤にするか『悲しみの兵士』というシングル盤にするか。シルビー・バルタンのこの二曲、私はどちらも同じくらい好きだった。恥ずかしさを必死に堪えて蚊の鳴くような声で女性店員に頼んで二曲ともかけてもらった。ポケットの中のお金ではシングル盤一枚しか買えなかった。聞こえてくるシルビーの歌声に耳を傾けながらビニール袋に入った二枚のレコードを交互に出したり戻したりきりがない。『あなたのとりこ』のジャケットはシルビーのアップの顔だった。『悲しみの兵士』の方は水色のノースリーブのワンピースを着たシルビーの上半身。前者は微笑み、後者は悲しげな表情。迷って迷って、最後はもう清水の舞台だった。私は可愛いよりもきれいな方のシルビーのレコードジャケットを選んだ。家の三十センチ四方程しかなかった小さなレコードプレーヤーの上でくるくる回ったのは、『悲しみの兵士』だった。その夜、勉強机の上に敷いた透明のビニールシートの中へそのレコードジャケット、青いワンピースのシルビー・バルタンを差し入れた。そうして、シルビー・バルタンは中学時代の私の音楽の女神様となった。
異性に対して<おくて>そのものだった私にとって、中二の夏祭りの夜にはじめて見た赤い浴衣の女性が間違いなく初恋の女性だった。私は彼女の名前を知らなかった。それで、私は彼女のことを、それまで音楽の中の女神様の名前をそのまま拝借して、シルビーと呼ぶことにしたというわけだ。
夏祭りの翌日、わたしは部活動の練習が終ってから公民館の近くの幸彦の家に遊びに行った。幸彦は私と同じ学年でクラスは違ったが同じ野球部だった。幸彦の兄は高校生でバンドを組んでいてエレキギターを担当していて私のあこがれの先輩だった。でも、幸彦は音楽にはそれほど関心がないようで、その頃の幸彦が最も興味を抱いていたのは野球とそして異性だった。
「やっちゃん、C組の喜美子って知ってる?」
「うん、ハンドボール部の子やろう」
「喜美子、やっちゃんのこと好きみたいやで」
「うそやろ!」
「ほんまやって、この前、真由美から聞いたんや。真由美と喜美子って仲いいんやで」
私は自分の顔がみるみるうちに赤くなっていくのを感じていた。別に喜美子のことなど好きでもなんでもない、第一小学校も違うしクラスも違うしどんな子なのかも知らない。そういう異性がらみの話をされるだけで私は過敏に反応していた。特別好きな異性など同学年にいなかったから異性の名前を出されてあたふたする理由などまったくないにもかかわらずオロオロしていた。そんな私と違って幸彦はかなりませていて、その頃すでにバレー部の真由美と付き合っていて、二人だけで彦根に行って映画を見たり、つまりは<デート>という雲の上の行為まで現実にやってのけていた。幸彦と真由美は<キス>もしてるという噂が私たちの学年では広まっていたが、私にはとても信じ難いことだった。
「やっちゃん、今、好きな子いいひんのか?」
私は熱を帯びてほてってしまった顔のやり場に困りながら何も答えられずセミたちの合唱を耳にしながら窓の外を眺めていた。江州音頭を踊るシルビーの顔が夜空の流星のようにすうっと通り過ぎていった。自分より十歳以上も年上の女性にあこがれていると、幸彦に今告白したら一体どんな言葉が返ってくるだろう。ほやからやっちゃんはまだ子どもなんや、とかやっぱり言われるのだろうか・・・・・・。
幸彦の勉強部屋は二階にあって、窓から公民館の屋根はすぐそばに見ることができた。
「なあ、井上さんって家、この近くか?」
「ああ、あの公民館の隣りの隣り、きれいなおねえちゃんがいやるで」
「ミスになってやるんやて」
「やっちゃん、よう知ってるやん」
私はシルビーの家を穴が開くほど凝視していた。あそこにあのシルビーはいる、今もひょっとしたらいるのかもしれない、シルビーの姿があるのかもしれない窓を、ガラス戸を、胸を高鳴らせて見ていた。幸彦には懸命に平静を装いながら。
公民館の前には広場があって、桜の木が並びそのそばに鉄棒とブランコとベンチがあった。私は幸彦の家を出て、しばらく鉄棒で懸垂をして、思い切ってシルビーの家の前まで行って、表札だけを見て、また鉄棒に戻って来て、できるようになったばかりの蹴上がりを一回した。夏の太陽が西の空に傾きかけていた。ここでこのまま待っていたらシルビーに会えるかもしれない、そう思った。シルビーはきっとバスで彦根に通っている。バス停は農協の前だからシルビーはこの広場を毎日通っているに違いない。今日も休まず銀行に通っているとしたら、ここで会える。夕日の中から水色のノースリーブのワンピースを着たシルビーが今にもこっちに向かって歩いてくるような気がして、私はドキドキしていた。
【2】
あの頃、私の家はもちろん近所のどの家にもエアコンはなく、今日のような新しく小ぎれいな洋風の家など皆無に等しくみんな隙間だらけの古い家に住んでいて、夏は窓を戸を開けっぱなしにして生活するのが常だった。だから、夏の夜は近所の匂いが漂ってきてカレーとかすき焼きとかを隣の家がしようものならすぐにわかったし、そして夏の夜は隣の家をいとも簡単に覗くことができたし、さらに何よりも夏の夜は隣り近所の声が音が実によく聞こえてきた。夫婦喧嘩、親子喧嘩、嫁姑喧嘩、兄弟喧嘩、喚き声、怒鳴り声、泣き声、悲鳴、笑い声、犬の声、猫の声、戸を叩く音、水道の水が蛇口から勢いよく流れ出る音、くしゃみ、咳、あくび、おなら、拍手、テレビのナイター中継や歌番組・・・・・・少年の日に耳にした夏の夜の近所の声や音は次から次へと思い出されてくる。もちろん、これはお互いさまであり、私の家からも同様の声や音を毎日発し続けていたことだろう。
それにしても祖母はよく母をいびっていた。夕食後、祖母がキセルでシンセイを吸いながらボソボソと話し出すとだいたいはろくなことにならなかった。
「今朝も五時から便所の肥え汲んで畑まで二往復させてもろたわ。こんなことうちがせなんだら誰もせえへんがな。いつまでこんな年寄りにさせるんやいな」
こういう祖母の愚痴はいつものことなのだから、母も適当に相槌を打って聞き流せばいいものを、「肥えもちは私がしますさかいって、いつも言うてるやないですか」と、母は必ずまともに受けてまともに返した。
「そんなもん、おまんみたいなお嬢さん育ちにできよかいな」
「やりますさかい、ほっといてください」
「毎日、農協で朝から晩まで仕事してもろて、ほんな人に肥えもちまでやらしたら罰(ばち)当たるがな」
祖母の口調はますますいやらしくなり、母はますますムキになっていく。始まったらまず終りのない戦いだった。祖母と母の口喧嘩には、父はまずもって口を出さなかった。一升瓶から直接コップに注いで渋い顔をして黙りこくって酒を飲んだ。私と妹は頭の上を激しい言葉が飛び交う中でテレビを見ていた。そして、あまりにも祖母の度が過ぎると「おばあちゃん、もうええかげんにしいな」と目はブラウン管を見つめたまま大きい声を上げた。私か妹がその声を発すると同時に雷のように落ちてくる父の怒鳴り声があった、「子どもははよう向こう行ってこんかい!」。私と妹は見ていたテレビ番組に後ろ髪を引かれながらも勉強部屋へと仕方なく消えた。
考えてみたら私が洋楽に興味を持つようになったのも、夫婦喧嘩や嫁姑喧嘩の度に父からテレビのある茶の間を追い出され、そういう時は眠りにつくまでの時間、勉強机の上の目覚まし時計の大きさ位のトランジスターラジオだけが唯一の友だちだったからだ。「はい、では次はジリオラ・チェンクエッティの『雨』です。リクエストは滋賀県のあしたのジョー君から。あしたのジョー君は今激しい恋をしていて、この曲を聞くと彼女の雨に濡れた素敵な横顔を思い浮かべることができるんだそうです・・・・・・」という具合のDJの流れるような標準語の語りを入り口に入って行く洋楽の世界。祖母の愚痴や父の怒鳴り声とは対極に位置するものであり、それは田舎に暮らす少年の心に夢に満ち溢れた翼を付けてくれた。
網戸開けると、北斗七星とカシオペアがきれいに光っていた。ゴム草履を履いてこっそり抜け出し忍び足で歩き出すと、左隣りの水谷さんの犬のタローが少し吠え、その鳴き声に刺激され薬屋の犬のコロも高い声を張り上げた。醤油の焦げる匂いが漂っていた。右隣りの西川さんの家は何の料理なのだろう。台所に立ちながら西川さんの奥さんの春枝さんが外れた音程で奥村チヨの歌を歌っていた。
私は吸い寄せられるように公民館の前の広場まで歩いていた。そして、ブランコに揺られながら、街灯に浮かび上がったシルビーの家の玄関を見つめていた。ブランコを二十回、三十回と漕いでいるうちに、体の上に浮かんでいた夜空の月が見えなくなっていき次第次第に私の頭の中をシルビーの顔だけが支配した。肩に少しかかったセミロングの髪、二重の大きな目、高すぎず低すぎない鼻、可愛い唇、笑うとできるえくぼ。夏祭りの夜に一度きりしか見ていない顔だというのに、恐ろしいほど鮮明に蘇ってきた。
何も別に悪いことをするわけじゃない、こんなことくらいきっと許されること、好きになった人を見に行くんだから、いいじゃないか・・・・・・ブランコを降りた私はそんなふうに言い聞かせながら、早く大きくなりだした心臓の鼓動を懸命に押さえ込みながら、公民館の裏へまわり共同作業所の脇の路地を通り抜け、シルビーの家の庭へとこっそり入って行った。
柿の木の下に積み置かれている材木の陰に猫のように丸くなって息を殺した。もう手のひらにはじっとりと汗をかいていて、額からも滴が流れ落ちているのがよくわかった。野球部の試合よりも体育大会での百メートルのスタート前よりも、はるかにもっと緊張していた。今後ろから誰かが指でつついてきたりしたら間違いなくいとも簡単に倒れてしまうだろう。
顔を上げると、七、八メートル先に、蛍光灯に照らし出された部屋が、網戸越しに見えた。手前に上半身裸のステテコ一枚のシルビーの父親らしき男が背中をこちらに向けて胡座をかいていて、その肩の向こうに、白の半袖のブラウスを着たシルビーの顔があった
私は食い入るようにシルビーの顔を見つめた。シルビーと目が合う度に爆発寸前の心臓に刀の先端が突き刺さってきたような感覚に襲われた。シルビーの顔を見つめれば見つめるほど胸が痛くなってくるのだった。シルビーの顔が悲しげに寂しげに見えた。そして、それは文句なしにたまらなく美しいのだった。
何を言ったのかはっきり聞き取れないが、シルビーの父親の大きな声が響いた。そして、シルビーは下を向き、泣き出したようだった。
シルビーの父親はまるで私の祖母のようにしつこくぶつぶつと言い続け、ふたりの横にあるテレビからはベトナム戦争の様子を伝えるニュースが流れていた。
夜道を逃げるように走った。たった今犯罪を犯した逃亡者のように、誰にも見られないことを祈りながら吐く息まで圧し殺して。
やっとの思いで自分の部屋に転がり込むと、プレーヤーにシルビー・バルタンの『アイドルを探せ』のシングル盤を載せた。電気を消して、畳の上に寝転がって、プレーヤーの蒲鉾板程のブツブツと穴の空いたスピーカーの部分から小さな音量で流れてくるシルビーの声を聞いた。目を閉じて聴覚だけに神経を集中させていると、シルビーのハスキーボイスに全身が優しく包まれているような気分になれた。そして、闇の世界の中に、今見てきたばかりの日本人のシルビーが映画のように現れてきた。シルビーは顔だけのアップになり、さらに赤い唇だけが大きくなって、唇はゆっくりと私の名前を確かに囁いて、それから黒い目だけが大きくなって、その目は私だけをじっと見つめてきて天使のような素敵な微笑みの目となった。
【3】
お盆参りの朝は雨になった。墨染の衣を着て、左手に数珠をかけ右手に黒の大きな傘を差して、石畳に下駄の音を響かせながら、私は家の門を出て行った。濡れる雨を少しも気にするふうでもなく店の前の木箱を片付けていた八百屋の信造さんが「若さん、がんばってきいや」と私の会釈に対して返してきた。祖母と仲のいい駄菓子屋のおみねさんも軒先にしゃがみこんで朝顔の鉢をぼんやり眺めていて、私がそばを通ると顔を上げ「雨やでういことなあ」と皺だらけの笑顔で言ってきた。
久しぶりの夏の雨はアスファルトの道を屋根の瓦を店の看板をお色直ししていた。舗装されていない路地に入ると、木々や草花が生き返って銀色に光る水の粒で喜びを表していた。飛び出してきた小指ほどの蛙は小さな跳躍を繰り返して路地を横切って行く。
この雨の中をどこへ行くのか黄色いTシャツをびしょびしょにさせて進が自転車でこっちに向かって走って来た。私の手前で速度を緩め自転車に乗ったままニヤリと笑って「やっぱりボウズの格好よう似合うわ」と言って通り過ぎて行った。
「継ぐ継がんは、大きいなってからよう考えて決めたらええことやんか。そやけど、今は寺の手伝い、おとうちゃんの手伝いせなあかん。お百姓の家に生まれた子が田んぼの手伝いしやるのと同じで、あんたは寺に生まれて、寺で育ってるんやさかい、ほの寺の手伝いするの当たり前やろ?」と私はいつも母にそう言われていて、どう考えても母のこの理屈は筋が通っているように思え、寺のことをするのはものすごく嫌だったが、仕方のないことに思われた。でも、私は、大きくなったら寺は継ぎたくない。父は地元の役場に勤務しながら寺の住職もしているが、私は大きくなったら、サラリーマンだけをやりたい。そして、できるなら、そのふるさと、この近江は湖東の地を離れて、東京に行きたい。東京でひとり働きたい。・・・・・・そんな考えを漠然とながら胸に抱き始めたのが、中学二年の頃からだった。洋楽にあこがれるようにシルビーの美しさにあこがれるように、私はテレビや映画で見るような大都会での華やかな暮らしにあこがれ始めていた。十四歳。そうなのだ、私はこの頃から自分の将来に対してひとつの夢を抱くようになっていた。
それで、そういう考えや夢を持ち始めてからというもの、私は父や祖母とよくぶつかるようになった。「おまえはこの寺の跡継ぎ息子や。その何が不満なんや」と父は言い、「寺はありがたい」と祖母は言い、「ぼくは絶対継いだらん!」と叫ぶように私は言った。すると、必ず母はさっきの論理でもって、私の反発を収めるのだった。
この日だけで四十軒ほど回るお盆参りのうち、父が三十軒を朝から夕方までかけて行き、私は残りの十軒を午前中だけ手伝い回った。
どの檀家の家でも仏壇の前にはごはん、みそ汁、野菜の煮物、高野豆腐などが盛り付けられた朱塗りの膳はもちろん、真桑や西瓜や梨といった果物、それに黒いあんこがべったりとついた牡丹餅まで所狭しと並べられていた。私は大きな皿に山のように盛られた牡丹餅を目にする度に涎が出そうになった。「お盆は死なはった人があの世から帰ってきやるんや。そやからごちそう用意してみんなでお迎えするんや」と祖母は言った。「ご先祖さんが帰ってきやるさかい、お経さんをあげに行くんや、お坊さんの仕事はありがたいことや。そんな仕事に嫌や言うたら、罰(ばち)当たるで」。私は罰が当たるのだろうか?檀家の仏壇の前で手を合わす度に祖母の言葉が思い出された。私は小学校の高学年までずっとおばあちゃん子だった。祖母といっしょにふとんを並べて寝ていた私は寺に関すること、仏教に関すること、眠る前にいろんなことを聞かされた。「おまんのおとうちゃんはな、十七の時からこの寺のことをひとりでしてはるんや。十七、高校の時からやで。おとうちゃんのお兄さんが戦争で中国で死なはって、それからおじいちゃんが戦争が終わってすぐ肺炎で死なはって、おとうちゃん、すぐに住職ならなあかんようになって。おばあちゃんな、おとうちゃんのそういう苦労をずっと見てきてるんや、寺のこと右も左もわからんもんやで檀家さんからも他の寺の坊さんからも馬鹿にされて馬鹿にされて、そやさかい、おまんもな、小さい時から寺のことちゃんと覚えておかな、後で苦労せんでええようにな」。私はまだ保育園の頃から、祖母からふとんの中でお経を教えられた。「ガゴンチョウセイガン、ヒッシイムウジョウドウ」と祖母が唱え、私がそれと同じ文句を大きな声で天井に向けて発して、そうやって繰り返し繰り返し毎晩毎晩、ちょうど九九をマスターするようにお経を宙で覚えていった。私は祖母のおかげで小学校の高学年までには宗派の基本となるほとんどのお経は暗記することができた。
「あんた、小さいのにえらいなあ。おとうさん、喜んでやるやろう」
どの檀家に行っても同じように褒められた。褒められて嫌な気はしなかった。そして、お経をあげる自分の後ろに手を合わせる檀家の人たちの存在を感じる度に声は大きくなり真摯なものになった。一軒、一軒と檀家を回っていくに従って私は自分が<いい子>になっていくのを感じた。人前だけの、偽りのいい子。あげるお経の中に真実のない私は、本当にいつか罰が当たるかもしれないと思った。
雨は降り続けていた。慣れない下駄で衣に撥ねをあげないように歩くのに気を使った。割り当てられた十軒のお盆のお参りももうすぐ終わりだと思うと自然に笑みが零れ、シルビー・バルタンの『ラブ・サン・トワ』を口ずさみながら神社の森の向こう側にある檀家にむかって歩いていた。こんな格好でフランス語の歌を歌っている自分がおかしかった。
神社の鳥居の前に白いスカイラインが停まっていた。村に数台ある車は軽自動車かカローラぐらいだったので、めったに見ない流れるようなボディはカッコいいの一語だった。すると、その車に向かって、レモン色の傘がひとつ、可憐なステップを踏みながら踊るように近づいて行った。傘の下には淡いグリーンのミニスカート。そこからすらりと伸びるモデルのような足には白いサンダル。助手席のドアは中から開き、傘は閉じられた。
車に乗り込んだのは紛れもなくシルビーだった。私は口をポカンと開けたまま金縛りにでもなったように立ち尽くしていた。動くワイパーの向こうでシルビーは髪を掻き上げとても幸福そうに笑ってハンドルを握る男に話しかけていた。そして、スカイラインは心地いいエンジン音を私の耳に残して国道に入る交差点の方へあっという間に走り去って行った。
私はこの頃まだ嫉妬という感情を持ち合わせていなかった。
【4】
京都では大文字焼きが行われる十六日の夜は、お盆の疲れの慰労という意味でわが家では毎年すき焼きと決まっていた。あの頃、年に三度か四度位だった牛肉のすき焼きは、家族全員でいっしょに過ごす時の中で、最高の幸福を感じられる時だった。寺のことも祖母の母へのいびりも父の癇癪も、すべてやりきれない<負>が、鍋の上でなんとも言えない匂いを漂わせながらジュッジュッと焼ける牛肉によって楽しい<正>へと変わってしまうように感じられた。
鍋の上にのせた白い正方形の油の肉を割り箸でくるくる回して溶かしていく父。肉を入れ、糸こんを入れ、「砂糖」、「醤油」、「水」と手術中の外科医のような口調で母に言って、鍋の中で素早い箸使いを見せ、すき焼きの匂いを部屋中に漂わせていく父。私はすき焼きを作る時の父が好きだった。
「見てみい、ええ肉や、霜降りやで」
葱、玉葱、豆腐、しいたけなどがぎっしりと盛られた大きな皿を流しから運んできた母に父は威勢よく言って、母が鍋を覗き込んで「ほんまや、おいしそうやわ」と歓声を上げる。妹が「シモフリってなんや?」と私に聞いてくるが、私もよくわからないので黙ってただ笑うだけだ。祖母が「こんな暑い時にまたこんな熱いもんを」と皮肉を言うがその顔はどこかうれしそうだ。父がコップに注がれたビールを母に祖母に回す。妹が「わたしも」と伸ばした手を「なに言うてるん」と祖母に払いのけられる。
すき焼きの時はガスコンロの火が消えるので扇風機も使えず、家族五人、汗をタラタラ流しながら食べた。すき焼きとなると、私はごはんを三杯はおかわりし、いつも肉を付ける卵が一つでは足りず二つにしていたものだが、あの頃のすき焼きのおいしさに勝る料理を私はその後味わったことがない。
「神社の向こうの志乃さんとこ、おまんが行ってきたんやろ?志乃さん、元気にしてはったか?」
祖母が聞いてきた志乃さんは盲目でひとり暮らしだった。若い頃はこの辺では一等腕の良い按摩師だったという。私は「うん」と大きく頷いた。
「もういくつになってはるんですか?」
母が祖母に聞くと、
「うちより三つ上やでなあ、七十八やな」
と祖母は答えて「ほんでも、あの人もさびしいわ、子供がいやらんで仕方ないかもしれんけど、親戚もみなほったらかしやがな」と母に嫌みを言う時の口調になった。
「ぼく、あの人が目が見えんなんて信じられへんわ」
志乃さんはお経を終えると「おとうさんの声によう似てきやりましたなあ」と言って、冷たい麦茶を出してくれた。私が全部飲み干すと、まるでそれを見ていたかのように「もう一杯持ってきましょか」と言うのだった。「目が見えなんでも、ごはんも炊かるしフロも焚かるし縫い物も洗濯もみなうちらと同じようにしやるで」
志乃さんは時々私の家に寄って祖母と世間話をしていた。私は全盲の志乃さんが私の家までちゃんとやって来ることが不思議でならないのだった。
「あのお家は檀家さんと違うのにどういう関係でお盆はお参りしてはるんですか?」
母の質問に、「うちのおとうさんも神経質な人やったさかいよう肩こらったみたいで、その頃から志乃さんにはお世話になってやって、志乃さんの家の宗派にはお盆のお参りがないさかい、お盆だけ来てほしいって、志乃さん頼んできやったらしいわ、なあ、そやろう?」と父は答え、祖母の方を見た。祖母はこっくり首を振って「兄がひとりいやってその兄も目が見えなんで、ふたりとも結婚せんと、ふたりで按摩しながら暮らしてやったんやけど、兄も戦争が終わってすぐ死なはって」と、涙ぐんだ。
「そういや、志乃さんとこはあのミスの娘さんの井上さんの家とは親戚になるん違うか?」
こんなところでシルビーの名前が突然父の口から出た。私は息を飲んだ。
「井上って、作業場の近くの英雄のとこかいな。あんな男あかん。志乃さんからあの男の悪いとこ、ようさん聞かされてる。あの男は、あれは女衒(ぜげん)といっしょやで。奥さんの和美さん、長浜の姉川の近くの村から嫁に来てはるんやけど若い頃は色白で目はぱっちりで鼻筋は通ってて、そらきれいな人やったわ。あの男はな、なんの仕事やっても続かんと働き出してもすぐにやめてもて、それで和美さん彦根の銀座の裏にある料理屋で仲居しやって、べっぴんさんやさかい男からようさん声がかかって、あの男は和美さんに言い寄る男に付きまとっては金せびっとった、そういうやくざな男や」
「つつもたせかいな、ほんでやな、あの娘さんがなんでミスやいうて役場で文句言うてる人がいるってこの前聞いたわ。なんでもあの娘さんにも良からぬ噂が立ってるらしいわ」
祖母と父のやりとりは、私にはまだ大人の世界がもうひとつよくわかっていなかったから七分程度しか理解できなかった。口を挟み聞きたいことはあったが、私は黙りこくってシルビーの姿を思い描いていた。妹はテレビを付けて歌番組に夢中になっていた。ブラウン管の中では日本人形のような藤圭子の顔がアップになっている。
【5】
農協の前の地蔵堂には小学生たちが七、八人いて、真っ黒に日焼けした腕を出し足を出し、カロムをやったりトランプをやったり随分と楽しそうだった。入り口に座っている低学年の男の子二人が「おさいせん、あげて!おさいせん、あげて!」と大人を見つける度に、車が通る度に、大声を張り上げる。地蔵堂の屋根から右に左に色とりどりの何本ものテープが伸びていて、今年は一体どこの子が登ったのか、それらはみな電信柱の高い所に括りつけられている。あれも伝統だなと思った。自分が小学生だった頃、同級生の久司はあの電信柱から落ちて足を骨折した。それにしても自分も小学生の時は夏休みの後半は毎日暗くなるまで地蔵堂に入り浸りでよく遊んだものだと、わずか二年前の夏はそうだったというのに私はたまらなく懐かしい気持ちでいっぱいになっていた。
午前中の部活の時、幸彦が「昼から彦根に行かへんか?」と誘ってきた。私の耳元に口を近づけ「ボーリングしよう」と小声で囁いた。生徒だけでボーリング場に出入りすることは学校で禁止されていたのだった。幸彦は「りつこさん、りつこさん、さ・わ・や・か・りつこさん」と茶目っ気たっぷりに歌ってプロボーラーの中山律子が出演しているテレビのコマーシャルの物まねをした。
幸彦がなかなか来ないので、私はバス停の時刻表を何度も見ながらヒヤヒヤしていた。もうすぐバスが来てしまう心配もあったが、何しろ後ろの農協の建物の中では母が臨時職員として働いている。今日の午後彦根に行くことは母は知らない。祖母に幸彦と遊んで来るとだけ告げて出て来のだった。
すると、幸彦は「ごめん、ごめん」と言いながらダッシュでやって来た。驚いたことに幸彦から二十メートルばかり後ろを追いかけるように二人の女の子が走って来る。真由美と喜美子だった。私はあっけにとられ声も出ない。「あの二人が遅れよって、もう間に合わんと思たわ」と幸彦はポカンと口を開いたままの私の肩を叩いた。「いっしょに行くん?」と私は掠れてしまった小声で聞いた。
「そうや、ええやろう、ダブルデートや。それよりなんや、おまえ、その格好」。私は家の玄関を出る時は普段の私服で、出てから本堂の裏にある小屋で白のカッターシャツに学生ズボンの制服に素早く着替えてから逃げるようにバス停まで走って来た。幸彦も真由美も喜美子も私服だった。幸彦はGパンで真由美と喜美子は二人とも短い短いスカートを履いてきていた。<彦根に行く時は制服で行くこと>というのが学校の規則のはずだった。三人は私の格好を見て大笑いした。「やっちゃんって、そういうとこ、ほんまにまじめやわ。やっぱりお寺の子やわ」と真由美が言い、私はムッとなった。私は寺の子と言われるのが一番嫌いなのだ。幸彦が「まあ、そこがこいつのええとこやけどな」と言い、喜美子は真っ赤になっているだろう私の顔を覗き込むように見ながらクスクス笑っていた。
バスの中で私を除く三人は喋りに喋り座席から転げ落ちるんではないかと思う程笑い続けていた。時々幸彦は気を使うように私に話を振ってきて、その度に私が「うん」と頷き、三人は私のその「うん」にさえも爆笑した。私は同級生の女の子がそばにいると、意識して恥ずかしくてろくに口もきけなかった。
彦根駅でバスを降り、駅前のボーリング場に行った。体育館の舞台のように照明を浴びているレーンが眩しかった。その眩いばかりの照明の中でボーリングをしている人たちが別世界の人のように思えた。私は完全にびびってしまっていた。
幸彦がテレビで見るプロボーラーのようなフォームで投げる。少しカーブを描きながらレーンを滑っていったボールはバッティングのミートの瞬間よりも気持ちのいい音を上げ、左端の一本を残して九本のピンを吹っ飛ばした。そして見事なスペアを取った幸彦に真由美と喜美子はキャーキャー言って拍手した。
下着が見えそうな格好で真由美が投げ喜美子が投げ、次はいよいよ自分の番だ。私は緊張でガチガチになってしまっていた。
「実はボーリング、今日がはじめてなんや」
私が正直にそう言うと、三人はまたバスの中のように体を折り曲げて腹を押さえて笑った。
「いややもう、やっちゃん、まるで中体連の試合に出るみたいやん」と真由美が言い、「こいつ野球の試合でもこんなふうにようあがりよるねん」と幸彦は言い、「そんなに言うたらんときいよ」と喜美子は私をかばった。
私は生まれてはじめてボーリングで珍プレーを二つ記録した。その一つは、力いっぱい後ろに振り上げたボールが指から抜けてしまい、当然のことながらボールは前に転がらず、体の後ろにボトーンとレーンに穴を開けるような派手な音をたてて落としてしまったこと。もう一つは、勢いよく投げたボールの勢いがありすぎて、自分のレーンのガーターの部分を乗り越え隣りのレーンに進入し隣りのレーンのピンを倒してしまったこと。三人はあまりのハプニングに「こんなん見るのはじめてや」と目を白黒させてしまった。
ボーリング場を出ると、幸彦と真由美は市場街に映画を見に行った。カトリーヌ・ドヌーブの『恋のマノン』を見るのだと言う。私は幸彦と真由美の策略にものの見事に引っ掛かってしまっていた。最初からボーリングの後私と喜美子をふたりきりにするつもりだったことはミエミエだった。
ふたりきりになり、俯いてしまい言葉がとんと出てこない私に喜美子は「別に無理して話さなくてもええよ。わたしはよく喋る人よりもあんまり喋らへん人のほうが好きやし」と、大人の女性のような言い方をした。そして「やっちゃんって呼んでいい?」とうさぎの耳みたいに髪の両側を赤い紐で括った頭を傾け聞いてきて、私はまた「うん」とだけなんとか声を出した。
喜美子に連れられて京町の<田園>という名前の喫茶店に入った。喜美子がドアを開けると、店内はボーリング場とは対照的に薄暗かった。私たちを出迎えるように、目の前の壁にはオーケストラの指揮者の大きなパネル。「あの人、カラヤンって指揮者。知ってる?」。私はベートーベンは知っていたがカラヤンは知らなかった。私はお化け屋敷に入ったも同然だった、ぴったりと喜美子の後をついて行った。それほど広くない店内なのに喜美子が決めたテーブルまでの距離がものすごく長く感じられた。もう口の中はカラカラに乾いていた。座ることができてホッとしたのもつかの間ウエイトレスがやって来て、喜美子は慣れた口調で「コーヒー」と言って、慌てて私も「同じ、同じものを」となんとか言った。
「ぼく、喫茶店って、生まれてはじめてや」
ボーリング場に続いて正直に告白すると、
「やっちゃん、今日は初体験ばっかしやね」と、喜美子は笑い、私は<初体験>という言葉にドギマギした。
コーヒーが運ばれてきた。私は入れる砂糖の量がわからず、喜美子が「ふたつでいいね?」と言いながら入れてくれた。コーヒーを持つ手がブルブル震えた。震えが止まらなくて、口まで持っていくのにひと苦労。音楽の時間の立て笛のテストの時のようだった。
「デートするん、はじめて?」「うん」「本日三つ目の初体験やね」「いや、四つ目。コーヒー飲むのもはじめてやし」・・・・・・。
会話は弾まなかった。互いの視線が時折ぶつかっては気まずい沈黙ができて、そこに店内に流れるクラシックがしんしんと降り下りてくる。コーヒーを飲み終わった私は手の置き場に困ってしまい、膝からテーブル、テーブルからソファー、ソファーから首筋へとせわしなく置き場を変えた。喜美子はそんな私をちらちら見ていて、明らかに何か言いたそうだった。一体何を言おうとしているのか?喜美子の心の中はさっぱりわからない。そんな時だった。「あっ!」と、喜美子が入り口の方を見て驚きの声を上げた。
「わたしの近所の島谷さん、あんなきれいな人といっしょ・・・・・・」
私も喜美子の視線の方向に首を回し、「あっ!」と、思わず喜美子とまったく同じ声を出しそうになり懸命に飲み込んだ。
紺のスーツを着た精悍な顔の男に寄り添って歩いて、窓際の席に腰を下ろした黒のタイトスカートのスタイルのいい女は、紛れもなくシルビーだった。
「会社にも行かんと昼間からあんなきれいな人とデートして、島谷さん、奥さんも子どももいる人やのに・・・」
喜美子は声をひそめてそう言った。私と喜美子は小学校も違う程家が離れていて、私は島谷さんを知らず、喜美子はシルビーを知らなかった。私はシルビーのことを喜美子には何も話さなかった。
すき焼きを食べた時父が言った<良からぬ噂>という言葉が思い出され、まっすぐに男を見て瞳を宝石のように輝かせているシルビーにその言葉は被さっていった。
【6】
その夏の終わり、夏休みの宿題の読書感想文のために『ビルマの竪琴』を読んで、私は泣いた。自分は一体どうなってしまったのだろうと思うくらい小説のページの半分以降泣けて泣けて涙が止まらないのだった。小説の中に出てきた音楽の時間にも習った唱歌の『庭の千草』や『埴生の宿』は小説を読み終わっても聞こえ続けている感じがした。水島という名の兵隊が戦争が終わっても日本には帰らずビルマの地に僧侶となって残る決心をする話だった。水島上等兵は日本人のいや愚かな人間の罪をまるで一身に背負うようにしてビルマに残った。戦争が終わってもビルマのあちこちに散在している兵士たちの遺骨を拾い続け供養し続けることを生涯の仕事としたのだった。寺に生まれていながら自分が将来僧侶になることに反発しているからか、水島上等兵の決心はショッキングなものだった。
私は夏休みの残りの日数を指折り数え、つくつくぼうしの鳴き声に急き立てられながら、涼しい離れの祖母の部屋を借りて感想文を書くのに格闘していた。その日は父も母もいたから日曜日だったのだろう。
シャープペンを原稿用紙の上に置いたまま茶の間に行って昼ごはんを食べていると、電話が鳴った。
「公民館の近くの井上さんとこの奥さん、今朝彦根病院で死なはったって。明日お通夜で、あさっての一時から葬式やて」
電話を取った母は、茶の間に戻ってきて父にそう告げた。井上さんの家は檀家ではないが、同じ村の家なので父は<フギン>の僧侶として告別式に出る。
シルビーは母親を亡くした。跪き、ベットに額を擦り付け、泣き崩れているシルビーの姿が浮かんだ。
「胃癌やったみたいで。まだ若いのにかわいそうになあ」
と、祖母はぽつりと言った。
ひどい父親を持ち、母親を亡くし、そして、<良からぬ噂>は本当のことだとしたら・・・・・・あんなにきれいなのに、あんなに美しいのに、どうしてシルビーはこんなにも<幸福>から遠いのだろう。私は、この世の中にあるのかもしれない目には見えない非情なからくりのようなものに、腹を立てていた。
離れに戻り、原稿用紙を見つめながら、いつしか水島上等兵はシルビーと入れ代わってしまっていた。水島上等兵もシルビーもどちらも私の中では素晴らしい存在で、なのにどちらもたまらなく哀しいのだった。水島上等兵に向かって「どうして日本に帰らないのですか?」と叫びたい気持ちは、シルビーに向かって「どうして幸せから遠いところへと行ってしまうのですか?」と叫びたい気持ちとそれほど大差のないもののように思えてきてならないのだった。そして、小説を読みながら水島上等兵に涙したように、原稿用紙の上で私はシルビーのことを思い涙がポロポロと零れ落ちてくるのだった。
葬儀の日は、再び真夏に戻ったように猛暑の一日だった。
霊柩車は公民館の前の広場に停まっていて、その霊柩車を取り巻くように人の群れができていた。私は鉄棒をギュッと握り締めながら、その人の群れをじっと見つめていた。どこからかやせ細った白い犬がやって来て、私の足元に擦り寄ってきた。しゃがみこんで犬の頭を撫でてやると、尻尾を振って霊柩車の方を向いて犬は座った。
やがて、喪服を着た二十人程の葬列が広場へとやって来た。
もちろん私は母親の遺影を両手に抱えたシルビーだけを見つめ続けていた。
葬列は霊柩車のところまで来て、シルビーの父親が挨拶をした。挨拶の間中、シルビーはずっと下を向いてキュッと唇を噛み締めていた。白い犬が私のそばから離れ、ゆっくりと歩いて行き、人の群れをすり抜け、なんとシルビーの足元でちょこんと座った。私はその数秒間、まるで目の前で突然奇跡が起こったかのように唖然として見ていた。
挨拶は終わり、霊柩車に父親とシルビーが乗り込んだ。人の群れは、みな一応に数珠の中に手を通し合掌した。
霊柩車が走り去り、私は握っていた鉄棒で、くるっと一回、逆上がりをした。人の群れが散らばっていく向こうに、向日葵の花があった。シルビーの足元に座っていた白い犬が今度はその向日葵の花のそばにちょこんと座って私を見ていた。
【7】
その年の夏が終わって、秋も深まっていく頃、シルビーとシルビーの父親は、村からいなくなった。ギャンブルにも手を出していた父親は多額の借金をしていて家と土地を売り払ったという。その家がヤクザの手に渡ったとかで、村の人たちは話し合いお金を出し合いシルビーの家を買い上げたということだ。当時の私の村はヤクザはもちろん基本的にヨソモノは村には入れないことになっていたから。その頃のゴタゴタについては私はまだ中学生だったので詳しくは知らない。
シルビーは一体どこへ行ってしまったのか、まったくわからなかった。私の父、母、祖母はもちろん、シルビーとシルビーの父親の行き先を知っている者は、私の回りには誰もいなかった。
シルビーの家は取り壊され、今、その土地にはモダンな建築の集会所が建っている。有名な建築家の設計によるものとかで樋のない屋根はきれいなモスグリーンだ。ちなみに公民館はなくなって、そこはゲートボール場になり、広場はあの頃より随分と広くなった。
あれからもう三十年の歳月が流れた。シルビーは今、どこで、どんな暮らしをしているのだろう?風の便りにもシルビーのことについては何ひとつとして耳に入ってこない。
今、世の中がどうなってしまったのか、何故か音楽の世界では少年時代の頃の歌のリバイバルブームとかで、シルビー・バルタンの曲がテレビのコマーシャルやワイドショーのBGMで非常によく使われている。私は面白くない。怒っているといっても過言ではない。シルビー・バルタンは私の少年時代の一等特別な音楽であり、私だけのものにずっとしておきたかったという思いがある。
そして、そのフレンチポップスの女神様が近江の湖東の小さな村にまるで化身となって現れたかのようなシルビーは、中二の夏の私の初恋の人だ。私はシルビーの夏を生涯忘れることはないと思う。七十になっても、八十になっても、その夏の思い出とともに時折晩酌を楽しむだろう。
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