詩 市民文芸作品入選集
入 選

正法寺町 井 豊

同じ鍋をつついているのに
決して同じものを見てはいない
そろそろ白菜が煮えました
今夜は蟹が食いたかったな
言葉も箸も決して交わることはない
あっち側とこっち側
いつから境界線が引かれていたのか
こんな狭い円の中にまで

不思議な鍋だ
食べても食べても
いっこうに減らない
アクにまみれて
いろんなものが浮いてくる
おや何だろう
この固くて苦い切れっぱしは
今あなたがつまみ上げたものは
さっき私が放りこんだ皮肉
かもしれない
二人でつくるこの鍋の中に

最初に何が入っていたのか
思い出せない
不用意な捨て去り
引き換えに足されてきたもの
知らず知らず奇妙な味に混ざりあって
甘いのか辛いのか
ひもじいのか満腹なのか
いったい何を食べているのかさえ
わからなくなって
湯気にまぎれた互いの顔を
もう他人と見分けがつかなくなっても
鍋は耳慣れた
親しい音をたてて
煮え続けるだけだ


( 評 )
実にうまい詩だ。鍋という極めて日常的な素材を真中にしてすでに長い年月をともにした夫掃の機微が語られている。「狭い円の中の境界線」「私の放り込んだ皮肉」など面白い表現だ。ないものねだりをするなら少し計算が勝ちすぎイメージのふくらみがないことか?

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