随筆・評論 市民文芸作品入選集
入 選

朝掘りの筍
佐和山町 松本 澄子

 春、植物も動物もすべての生物が一斉に目覚める季節になると、我が家では筍が出始めるので筍山の草刈りに追われる。
 朝五時、身支度を整え。まだ明けやらぬ山道を一輪車に唐鍬とかごを載せて、筍の掘取りに筍山に出掛ける。ゆるやかな山道を登っていくと、山一面に孟宗竹が茂り村人は、その山を筍山と呼ぶ。
 早春の風は膚に冷たく、吐く息が白い。時折小石まじりの道に一輪車がきしみ、小石を撥ねる音が、明けのしじまを破る。
 奥の山の方から幾人かの話し声が聞こえる
 普段、静かなこの辺りの山も筍が出始めると、にわかに騒がしく活気づいてくるのである。
 ことに南に面した日当たりのよい、ゆるやかな傾斜地は、筍も早く出始めるので掘取りには、恰好の場所である。
 唐鍬とかごを持ち、湿りのある足元に注意し傾斜する土を強く踏みしめながら、地面を這うように山の上の方へと進んでゆく。
 「親竹は、なるべく太めのものを選び疎立させ、育ちは四、五年までの竹が良い」と、義父から言い聞かされた知恵を頑なに守っているが、冬の間、降雨量が少ないと九十パーセントの水分を含む筍は、どうしても出る量が少なくて気が気でない。
 朝日がさし込んでも生い茂る笹の葉が、空を覆って光を遮断してしまうので、筍を見つけるのが至難のわざになる。
 歩いても歩いても筍らしきものは見当たらずに苛立つ。
 半ばあきらめていたその時である。落葉をほんの少し盛り上げている土のふくらみを見付けて、おそるおそる落葉の上に長靴の先をのせてみた。すると、かすかな感触が靴底をつく。急いで盛り上がった土を唐鍬で丁寧に払うと、土を持ち上げていた、きみどり色の葉片(小葉)が見えてきた。
 はやる気持ちを押さえながら、まず足下を安定させ筍を傷つけないようにと、少し離れた位置から思い切り唐鍬を振り上げ、渾身の力をこめて掘る土をめがけて一気に唐鍬を落とした。夢中で掘った。
 長さは、二十センチくらいもあるだろうか。
 見るからに白い筍が、暖かい土に育まれ地下茎のつけ根から切離されて出てきた。
 心なしか弥生の風に身震いしているようである。筍は、掘取りするのに随分時間がかかる。芽をつけた地下茎や、筍そのものを傷つけてはならないので、細やかな気配りがいる。
 柔らかい筍を育むためには、何といっても新しい土を竹藪に入れるのが一番である。その客土には、赤土が最適というのは判っているが、近年では、その作業が出来ていない。
 堆肥(わら・ぬか)を竹薮に入れる労力さえ惜しみ、唯一、竹藪の世話といえば、掘取りする前の除草と、雑草の種が落ちる寸前の夏の除草の二度しか手を入れていない。
 日当たりも良くしなければならないし、暴風と積雪から竹が倒れないような手立てもいる。
 親竹の上の部分だけを切り落とす、ウラギリさえも手抜きしているようでは、品質のよい筍は出てはくれない。
 植物は正直である。人間が労力を厭わず汗を流した分だけは、充分に応えてくれる。
 筍は、日光に当たると直ぐ外皮が黒く変化し味も少々えがらっぽく、堅くなるので商品価値が落ちる。だからこそ上質の筍は、土の中にある間に掘取りしなければならないのである。
 食膳の一品としては、掘取りして二時間以内なら刺身としても美味しい。一口噛むとコリコリと歯ざわりもよく、やわらかい筍の香りが口いっぱいに広がって、旬の味を楽しませてくれる。また昆布とカツオの出汁を使い薄味で煮た筍の料理や香りで食べる新芽の山椒の葉であえた木の芽和えは、私の大好物である。掘りおこしたばかりの初物の筍は、先ずご先祖さまにお供えする。掌を合わすと「肥料も世話もたりないね」と苦笑いする亡き義父の顔を思い浮かべながら山を下りた。
 掘取りの初日なのに収穫は思ったより多く、思わず笑みがこぼれた。
 山裾に通じる山道から後ろを振り向くと、棚田が山の奥の方までずっと続いて、見るからに見事な曲線美を描き、その千枚田を囲むように、雑木林や竹藪がパッチワークの自然美を織りなしている。常に、自然と向き合いながらの生活は、飽きることがない。
 春は、蕗や筍に山椒、秋には、甘柿や干柿、椎茸と山の幸が、おりおり豊かな表情で楽しませてくれる。沢山の動植物の住む里山、緑、この貴重な自然を次代につなぎたいとの熱い思いにかられる。そして、もっと柔らかい筍を育て、娘と孫が「おいしい」と美味の感触に頬笑む姿を楽しみにしている。


( 評 )
早朝の筍掘りにまつわる苦労や、義父から受け継がれた筍栽培への思いなどが、よく伝わってくる作品である。現場に足を運ぶことの強みが生かされ、里山の自然への深い愛着なども素直に綴られてあり、嫌みが無い。文章に遊びがなく、全体に堅苦しさが感じられるところが今後の課題であろうか。

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