老いて止まない「学びの姿」
実母は今年八十四歳、老いた姿に代わりはないが、本人曰く、「心は青春ですぞー」と、思い起こせば懐かしく、今となっては彼女の様々な成果、思い出が脳裏を駆け巡ってくる。
信長の如く気難しい夫と五十四年間苦楽を共にし、又彼は教師であったため、自分は生涯生徒に命令するように扱われたと愚痴をこぼしたこともあった。長年暮らした舅を看取り、昔気質の姑に三十八年仕え、四十二歳で亡くなった次男の世話に力を落とし、母はそんな境遇の中から自己に打ち勝つ勇気と強靭な精神力が培われたものと想像出来る。
四人の子育ての最中、家族の健康を考え、料理の工夫と研究に邁進し、私たちには、「美味しいかどうか食べてみてよ、前に作った時とどうや。」といろいろ家族の反応を試しながら自分のものにしていく母の姿を思い浮かべる。その結果、好評の献立てがコンクールに入選。又、改良の作業服、工夫をこらしたエプロンの作製等々日常生活での物の工夫、使い方等に興味を示し、より機能性、合理性を配慮した物造りを追求していた。改良着が入選の折は、自分がモデルになって披露する場面があり、皆さん若者だが彼女は年配であるため、代理の方がファッションショーをしてもらったと笑っていたこともあった。
生活に潤いを与える伝統の「生け花」には、私が七、八歳の頃から精進し、そのためには愛情を持って花を育てることから始め、丹精込めて育んだ花を花瓶に活け、自然の摂理に感激と感謝を込めて活ける姿には、彼女のために花までが活かされて喜んでいるかのように思えた。相手を活かし、自分も生かされる、そして和合の精神、生け花を学ぶことにより我人生を照らし合わせ、そして考えさせられる原点のようなものも教えられたようだ。
そんな前向きの姿勢は許せる限り彼女の人生から消え失せることはなかったように思う。それ故に父の退職後、内助の功あっての無事の退職、「好きなことやって見ろ。」との父からのご褒美に、でき得れば「お家元で生け花を学びたい。」と水を求めた魚の如く発した時、彼女は五十五歳。愛媛県宇和島市から電車、飛行機、バスに乗り継いで京都まで半日以上。春夏秋冬の一年間で三日ずつの四回位通うことだが、家庭の事情の許す限り、八十二歳まで中継ぎすることはあってもその意気込みは止まることはなく創作への道へと向かった。彼女は今でもその時のことを、「そりゃー燃えたよ。」と当時の決心を青春のまなざしで力を込めて語ってくれたことを思い起こしている。正に人生は燃ゆることなりと言いたかったのであろうか。八十三歳の時本人はまだ京都での学びを諦めない様子だったが、家族の皆に「もう一人旅はこちらが心配だ。」と言われ、京都お家元での学びを地方の人に伝え、マイペースで地方の花会には楽しみに出向いているようだ。私であれば彼女の年齢まで元気に居られるかどうか想像もつかない。
母は出産で寝た以外病で床に臥したこともなく、頭痛、腹痛、肩凝りもないようだ。ただ、よく小動きをして腹八分目にしているという。
皆を笑わせ、楽しませてくれるムードメーカーのおちゃめな母、どうか残りの大切な時間をころばず、急がず、悔いのない学びの人生をと祈る次第である。
筆まめな便りの中に「晴耕雨読でできるだけ皆にお世話にならぬよう願ってがんばって生きていますよ。」と書かれた行間からは、逆に老いているはずの母から子への素晴らしいプレゼント、エールを送られた想いでホットな気分にさせてくれる。
生涯学習、死ぬまで「学ぶ姿勢」を教えられた母の存在は私にとって大きい。
もしかして、学びの精神力を培うことも健康の秘訣かも知れないと思うようになった昨今である。
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