随筆・評論 市民文芸作品入選集
特 選

お汁粉供養
中藪一丁目 中村 速男

 「ちょっと付き合ってくれへんか」
 と、鈴木さん。もう随分前になるが、ある年の忘年会の帰りであった。そして、とある小さな店の暖簾をくぐった。ここのお汁粉は評判なのだそうだ。
 私は怪訝な顔でそれに続いた。彼が甘党だとは聞いた事がないし、今日はどういう風の吹き回しだろう。でも、十歳以上も年上の人にはどうも逆らいにくい。
 「どや、酒のあとの甘味もええもんやで、お汁粉でええんやろ」
 やがて注文の品がきたが、それほど好んでいるようにも見えない。私はというと、甘いものは苦手なほうである。
 しばらくすると、
「いやー、無理に誘うたりして悪かったかな。ところで、あんたは戦争中飛行機の学校におったんやてな。そやったら、是非とも聞いてほしい話があるんやけどな」
 それからポツリポツリと語り始めた。

 鈴木さんは、戦争末期九州のある航空隊で炊事班長をしていた。
 ある晩、特攻隊の隊長と名乗る若い中尉が訪ねてきた。折り入っての頼みがあるとのこと。聞いてみると、部下たちが「あーあ、お汁粉が食べたいなー」と喋っているのを耳にした。心残りのないよう望みを叶えてやりたいのだが、自分にはなにもできない、思い余ってやってきた。というようなことを、口籠りながら、話すというより訴えたのである。
 当時は、ただでさえ乏しい物資の殆どが軍需用に回され、国民の生活はどん底であった。その軍隊でも、一部を除いてはそれより少しはまし、といった状態であったから、そう簡単に引き受けるわけにはゆかなかった。
「わしもな、最初は随分無理なことを言うやつやな、と思うたもんや。しかしな、一緒に死ににゆく部下たちのために、涙を浮かべてまで頼み込む、しまいには頭を深々と下げるやないか。断れへんようになって、『わかりました、なんとかいたします』と言うてしもたんや」
 それから鈴木さんは、材料の調達に目の色を変えて走り回った。出撃までにあと五日ほどしかない。本部に何度も掛け合って、当時は貴重品の砂糖を手に入れたときは、思わず「バンザイ」と叫びそうになったという。

 お汁粉らしきものではあったが、なんとか出撃の朝には間に合った。アルミの食器に盛られたのを見た隊員たちは、歓声をあげたという。みんな少年らしさを多分に残した顔ばかり。無心に箸を動かしている姿に、「ああよかったな」とつくづく思ったそうである。
 そのうちに、彼らが涙を流しているのに気がついた。
「不憫でならなんだで、見ておれんようになってわしは席を外そうとしたんや。すると中尉が駆け寄ってきて、手をしっかりと握って、『有難う、有難う』を涙声で何度も繰り返すんや。そして隊員たちに、『お前たちも炊事班長殿にお礼を申し上げろ』と言うたんや。そしたらみんなが一斉に立ち上がって、大きな声で『有難うございました』『ご馳走様でした』と、口々に礼を言うやないか。そのときの・・・・・・気持ち・・・・・・どない言うたら・・・・・・ええやろ」
 鈴木さんは、手の甲で涙を何度も拭った。私も胸が迫って、涙が頬を伝うのをどうすることもできなかった。

 戦後の混乱がおさまった頃から、鈴木さんの家では毎年この日になると、お汁粉を作って仏壇に供えるようになった。そのうちに誰言うともなく、これを「お汁粉供養」と呼ぶようになったという。
「あの人たちのことが、どうしても忘れられへん。なにかせんならんと、オカァとも相談したんや。そしたら、『お汁粉をお供えすることにしたらどう、それがなによりのお供養やと思うんやけど』と言いよったんや」
「この前のとき、五つになる上の孫が尋ねよるんや、『今日は誰のお命日』とな。この子らがもう少し大きうなったら、詳しい話をせんならんなと思うてるんや」
 語り終わると鈴木さんは、
「長いこと引き止めてすまなんだな。一杯やりながら、と思うたりもしたんやけど、どうしてもその気にならへんかったんや。堪忍してや」
 と言うと、私をうながして席を立った。

 昨年の暮れに鈴木さんはこの世を去った。けれども、鈴木家の年中行事のひとつとなっている「お汁粉供養」は、これからも続けられてゆくことだろう。


( 評 )
無理にさそわれて聞かされた話ではあったが、それは戦争末期の若い特攻隊員にまつわる悲しくも暖かなエピソードであった。このような形ででも、悲惨な戦争の実態を、繰り返し語り継ぐことの意味を問われる作品である。
文章の展開も良いのだが、筆者の思いがあとひとこと欲しかったと思う。

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