朝駆け
私の母方の祖父は九十九歳まで生きた。もしもう一年長生きしていれば、祖父の住んでいた町の決まりによって、町長の訪問を受け百万円を授与されるところだったのだが、残念ながら祖父は百歳までは生きられなかった。
祖父はG県の山間の小さな村の貧しい農家に七人兄弟の四男として生まれた。子守や田畑の作業の手伝いで小学校も休みがちだったという。小学校を出ると、大工の弟子か丁稚か寺の小僧の三つの中の一つの選択を迫られ、浄土真宗の寺の小僧になることにした。祖父によれば、大工も丁稚もきつそうで厳しそうで辛そうで、僧侶が一番楽に思えたからだそうだ。
十代の前半から親元を離れ、町に出て、寺の小僧としての生活。私は祖父からその頃のことを多くは聞いていないが、一体何度泣き何度ふるさとに帰りたいと思ったことかわからないと言っていたことはよく覚えている。三つの中で一番楽に見えた寺の小僧も楽からは程遠いものだった。兄弟子からのいじめ、朝四時起床といったことももちろん辛かったようだが、一等辛かったのが、漢字が十分に読めなかったことと字をきれいに書くことができなかったことらしい。
成長した祖父は小さな寺の住職となり、しばらくしてもう一回り大きな寺の住職となり、そして、九十九歳の天寿をまっとうした、今、母の兄が住職となっている寺に引っ越して来た。
ちなみに祖父の寺、母の実家は私の町の隣りにあり、私の家とは車で二十分程の距離にある。実は母が嫁いで来た私の家も寺である。私の家は浄土真宗ではなく浄土宗であるが。
男と女みたいなもん実際連れ添ってみんと相手のことなんかわかるわけないやろう。考えても時間かけてもそんなもんまるで意味がない。近いし寺やし、親鸞さんと法然さんは弟子兄弟やし、ええことばっかりやがな……私の母は祖父からそんなふうに言われ強引に説き伏せられる形で、はじめての見合い話を一度限りの出会いでもって承諾したのだった。
小僧からの叩き上げでもって苦労との二人三脚で一人前の僧侶となった祖父は、いい意味でも悪い意味でも自分に対して自信を持っていた。自分の考え方、やり方が一番だと思い込んでいた。明治天皇の写真を額に入れ座敷の床の間の上に飾っていた文字通り明治の男だった。私の父方の祖父は戦後間もないころに胸を患って死んでいて私は知らない。私にとっての〈おじいちゃん〉は母方の祖父だけだった。
【1】
突然伯母から電話があったあの秋の土曜日の夜、祖父は九十六、七歳だったと思う。その秋、私は三十四、五歳で恥ずかしながらまだ独身だった。すっかり耳が遠くなっていた祖父は電話で人と話すことができなかったので伯母が代わりに電話してきた。電話には母が出た。
受話器を握りながら、母は隣りの居間でテレビを見ていた私に「明日は空いてるん?」とか「おじいちゃん、車に乗せてあげてくれる?」とか確認しながら伯母とかしましく話すのだった。イヤな予感はもう十二分に漂っていた。だいたい、この頃、夜に親戚や両親の知人から電話がかかってくると決まってその内容は私が最も憂鬱になることだったから。
受話器を置いて戻って来た母に、父はなにごとかと聞いた。
「H市の市役所の近くにある酒屋さんがおじいちゃんが小僧をしていた寺の檀家さんで、おじいちゃん、そのお店を長いことひいきにしてやるらしいんやけど、その家に二十八歳の娘さんがいやるらしいんよ。それで、明日家にいっしょに行って会わせたい言うてきかへんって」
「早い話が酒屋の娘さんと見合いってことか?」
と父が私が最も憂鬱になる言葉を吐くと、母は、
「見合いもなにも、向こうさんはこっちのこと何も知らへんし、明日行くことももちろん知らんてやるらしいんやわ。そやから強引に押しかけて行くわけよ。お嫁さんに来てくださいって」
と苦笑しながら答えた。
「本人連れて行って押しかけ見合いってか」
「そういうこと。日曜日の朝一番に行ったら、向こうの家族はみんないやるやろうって」
祖父らしい目茶苦茶きわまりない話だ。実際これだけ目茶苦茶だと、反発する声も沸き上がってこない。
「犬や猫の子もらいに行くのとわけが違うんやさかいそんなやり方ではあかんっていくら言うてもおじいちゃんきかはらへんらしいわ。私もいっしょに行くし、明日の朝、お願いやで」
母は私に念を押してきて、私はもうどうにでもなれという気持ちだった。
「で、朝、何時?」
「向こうの家に八時頃に着くようにって」
「そんなに早く?」
「朝駆けやから」
コメディとしか思えない言葉を言ってるわりには母の声には力がこもっていて、それをそばで聞く父の目も真剣な輝きを見せていた。
「案外こういうやり方のほうがうまくいくかもしれへんな」
と、父はそれまでに十回はちゃんとした見合いをやってきていまだにまだ独身でいる息子の顔をちらっと見てきた。
【2】
翌朝、私はせっかくの日曜日だというのに朝六時に叩き起こされた。私の寺は檀家が三十軒程で寺の収入だけではとても食べていけず、父は五十五歳まで地元の農協に勤務していたし、私も印刷会社に勤めていて、一応副住職の肩書はあるというもののサラリーマンであることに変わりはなく、日曜日の早朝はやはり苦痛だ。普段なら十一時頃までたっぷりと寝て朝昼兼用の食事を昼のニュースとのど自慢を見ながら食べるところだ。祖父は春夏秋冬毎朝四時起床。うちの父と母も毎日朝五時には起きていて、朝駆けの関係者は私を除いてみんな朝にはすこぶる強い。
朝七時に父の笑顔の見送りを受け母といっしょに家を出て祖父の家に着くと、すでに寺の門のところに白衣、改良服にお袈裟姿の祖父がひとり立っていた。いつも祖父は頭をきれいに剃り上げていて白い顎髭を十五センチ位伸ばしている。ブレーキペダルを踏み込んでいくとカーラジオからエリック・クラプトンの「いとしのレイラ」のイントロ部分のギターのフレーズが流れてきて、窓の向こうの祖父は朝の陽光にツルツルの頭を光らせて、自慢の顎髭は秋の風にそよいでいた。「家で待ってたらええのに」と母が呟いた。祖父は少し寒そうでもう待ちくたびれているといった感じだった。
「遅いなあ」
車を停め窓を開けると、祖父は口をとんがらせて言った。
祖父が車に乗り込んで来ると、ラジオをFMからAMのNHKに替えボリュームを下げた。ラジオに代わって後部座席で母と祖父はどちらも大音量で言葉を交わし出した。
「お説教で前までよう行ってたF県のT市の寺にも三十近い独身の娘さんが確かおった。それにW市の寺にも三十過ぎで学校の先生してる娘さんがおるって話や」
祖父は九十歳頃まで浄土真宗の布教師として北海道から九州まで全国各地の寺から呼ばれては元気よく説教して回っていた。だから非常に顔が広いのである。
「ほんでも、相手のことをよう聞いてからにせんと。ええお人がすでにいやる娘さんかもしれんし、長男のとこや田舎や、寺に嫁にくることが嫌っていう娘さんは多いんやし」
「ほんなこと、おまえ、とにかく当たって砕けろで、実際会ってみんとほんまのところはなにもわからへんやろう」
「まあ、それはそうなんやけど」
私は二人の会話を聞きながらも聞こえてこないふうを装って運転手役に徹していた。そして、今の自分のあまりの不甲斐なさを流れ去る秋の朝の田園風景の中に噛みしめていた。自分の一度限りの人生、一回性の人生なんだから自分の思う通り自分の決めた通りに生きる。親や家から轢いてもらったレールの上を走るような生き方だけはしたくないと、高校を卒業すると上京し、大学は哲学科に入り寺の子でありながら無神論的実在主義を専攻した。卒業後もふるさとには帰らず東京の出版社に就職し、もう一生ふるさとには帰らない、寺は継がない、東京の地に骨を埋める、花の東京で自分の人生を開花させると、私は意気盛んだった。それが、三十を前にして、僅か五年で尻尾を巻いてふるさとに逃げ帰って来てしまった。大学時代から四年も付き合った女性は自分の元から離れていき、あこがれてなったはずの雑誌の編集者は連日連夜残業につぐ残業で、たった五年で東京での社会人生活に精も根も疲れ果ててしまったのだった。帰郷してからは拒否したはずの親が薦めるがままのレールの上を実に素直に歩いている。京都の知恩院で修行し僧侶の資格も修得した。地元の印刷会社にも就職した。家から通える所に勤めて、親といっしょに生活して、この六、七年、私は田舎の模範的な息子を演じている。
稲刈りが終わって丸裸になった田圃の海の中に、赤い実をたわわにつけた柿の木が一本灯台のように寂しくぽつねんと立っている。赤い実はよく熟しているふうだった。今にも枝から落ちそうだった。それでも落ちずに、冬に向かう枯れゆく風景の中で小さく弱々しく見える柿の木は最後の意地を張っているようだ。私は、結婚相手だけは自分で決めようと思っている。これだけは親の薦めじゃなく、自分自身で選んだ人をと思っている。妥協はしたくない。帰郷してから無理やり十回は見合いさせられ、そのすべてに断りの返事をした。
それにしても、人生は自分の思うようにはいかないものだと、つくづく思った。同じ中学、高校の同級生たちは学校だの県庁だの市役所だのに勤めていて、結婚していて子供がいてみんな一人前になっていて、自分以外の世の中の人たちがみんなうまく生きていて、みんな不満なく生きているように見えるというのに、どうして自分だけこうもうまくいかないのかと、そんなことばかり考えていた。
もうすぐ百歳になろうとしている祖父にまで自分の人生を心配してもらっている。祖父と母のやりとりを耳にしながら、そう思うとたまらなく自分が情けなくなってきた。
「他力って言葉、知ってるか?」
母とずっと話し込んでいた祖父が突然、情けなさの極致にいる私に向かってバカでかい声で聞いてきた。私が知ってると返すと、祖父は、
「我を捨てて、他人の声とか、自分のまわりの声に耳を傾けてみると、案外人生も開けてくるもんや」
と、まるで私の胸中を見透かしたように、得意の寺での法話口調でもって言った。
法然が唱え出し親鸞が発展、完成させたといわれる〈他力本願〉、その言葉はニーチェやサルトルを勉強していた大学時代、私が最も嫌悪する言葉だった。そして、今にも枝から落ちそうになっている柿の実には非常に堪える一言だった。
【3】
車はH市のくだんの酒屋の前に着いた。酒屋の前の道は思いの外広かったので路上駐車し、三人は降りた。祖父はすこぶる元気だった。その足取りは三人の中で一番軽かった。
車から降りたはいいが、なんと酒屋のシャッターは降りていた。腕時計を見ると、まだ七時五十分だから無理もない。店には他に入り口はないようだ。車に戻ってその辺走って時間を潰そうと祖父に言おうとしたら、祖父はシャッターのそばまですたすたすたと歩いていくと、いきなりドンドンドーン、ドンドンドーンと両方の拳で叩き始める暴挙に出た。母が「そんなことやめて!」と哀願し、私はこれではまるでサラ金の取り立てだと恥ずかしさのあまり顔から火が出る思いがした。
母が祖父の腕をつかみなんとかやめさせると、祖父は「中島さん! 中島さん!」と今度は大声を張り上げた。するとその声に答えるかのように一枚のシャッターがジャージャージャージャーと勢いよく引き上げられた。そして、一体何事だと言わんばかりの五分刈りかつハゲ頭の中年男の顔がパジャマに紺のガウンを羽織った格好の上にのっかってぬすっと出てきた。祖父のひょうたんみたいな顔と店主のいが栗みたいな顔とがくっつき合うように接近し、店主は「ああ……」と驚きと納得を練り合わせたような溜め息を口から漏らした。
「娘さんに会わせてくれへんかな。孫のこいつの嫁に来てほしいんやけど」
おはようもこんにちはもなかった。祖父には前置きはいっさいなかった。あまりの唐突さに店主はポカンとしていた。アポなしの突然の早朝の珍客の突拍子もない発言に店主は開いた口が塞がらない様子だった。
「ご老僧、とにかくまあ中にお入りください」
六十位に見えるいが栗店主はおおらかでゆったりとした雰囲気を漂わせていた。
「お日さんも高いこんな時間やいうのにまだ開けてないんかいな?」
「今時の酒屋はこんなもんですわ。量販店やコンビニのおかげでもうすっかり斜陽ですわ」
「ほうか、わしが若かった頃はいっつも繁盛してたのにな」
「もう酒屋の役割も終わったのかもしれません」
「さびしいな」
私と母は言葉を交わしながら店の中に入っていく二人の後に申し訳なさでいっぱいの気持ちでうなだれながら続いた。
私たち三人の朝駆けの特攻隊は店の中には通されたが、店の奥にある中島家の家の中には通されなかった。店主はほんのり日本酒の匂い漂うカウンターの中に入られ、三人はカウンターの前に並べられた三つのパイプイスに腰掛けた。物静かな感じの奥さんがお茶をもってきてくれたものの、奥さんは逃げるように引っ込んでしまわれ、カウンターの中に立った店主の顔にもなんとも言えない苦汁の表情が浮かび続き、私たち朝駆け組は明らかに歓迎されていなかった。
「どうやろ? 嫁にもらえんかな」
祖父はあくまで直球一本勝負だった。祖父はそんなふうに口火を切って私の経歴を手短に話した。
「いやあ、もう、ご老僧にはまいりますね」
店主はいが栗を片手でこすったり叩いたりしながら祖父の直球を一体どう打ち返していいやら困り果てているといった感じだった。
「ここに、おたくの娘さんを呼んでもらえんかいな。そうしてくれたら話も早い」
「いやあ、ご老僧、それはどうかこらいてやってください」
「どうしてや?」
「うちの娘みたいとてもお寺の坊守様は勤まりません」
「ここに呼んでもろて、孫の顔をひと目見てもらえるだけでええ。今家にいやるんやろう?」
「ええ、まだ寝てます。きょうびの子はほんなもんです。休みの日はもう昼までよう寝てますわ。うちの娘はまだ本気で結婚する気になってないようで、学生気分が抜けてません。まだまだ子供ですわ。どうか勘弁してやってください」
「ほんでももう二十八におなりやとか」
「いい年になってるんですが、親の言うことみたいちっとも聞きません」
それまでずっと黙って祖父と店主のやりとりをひやひやした目で見つめ聞いていた母が口を開いた。
「おじいちゃん、もう行こう」
さらに、母は店主の方を向いて、
「朝早くから突然おじゃましまして、失礼なことばかり言いまして、本当に申しわけありません。父は思いついたらすぐ実行しないと気がすまない性分ですさかい、言い出したらがんとしてきかないもんですから。お許しください」
「それはもう昔からじゅうじゅう承知しております」
小さな声でそう言った店主はニッコリ笑って、母の言葉にほっとした様子だった。
「そうかあ、やっぱり無理かいなあ」
祖父もそれまで入れていた肩の力をふっと抜いた感じがした。私もこれでようやくこの朝駆けの特攻隊も無事に帰還できるとやれやれという思いで自然に笑みがこぼれた。店主のいが栗のちょうど上に〈黄桜〉のポスターがあって、その中の和服姿のテレビでよく見る女優も柔らかな微笑をしている。
私たち三人がイスから立ち上がると、店主がカウンターの中で手をごそごそさせて、
「ご老僧、今夜の晩酌に」
と言って、ワンカップを一つ祖父の手に握らせた。「そうか、そりゃすまんな」と祖父はまったく遠慮する素振りもなく素早く改良服の袂に滑り込ませた。と同時に母はほぼ九十度に体を折り曲げるように深々と頭を下げた。
【4】
車を祖父の家へと走らせるつもりで発進させた直後だった。祖父が元気のいい声で言った。
「N市にな〈鶴屋〉という老舗の料理旅館があって、そこのおかみをわしはよう知ってるんやが、そのおかみの娘が確か年頃なんや。なあ、これからN市に行こう。〈鶴屋〉に行こう」
「おじいちゃん、このやり方はとても無理やって。今時の女の子はもうこんなやり方では絶対結婚せえへんわ」
「そんなもん、おまえ、物事やってみん限りわからへんやないか」
ハンドルを握る私はもういいかげんにしてくれよという気持ちも当然のことながらあったわけだが、何かしらこう祖父に憎めない感情を抱いてきて、今日は祖父の納得がいくまでとことん付き合ってあげるのもいいかもしれないという不思議な気分になりつつあった。
「N市までええか?」
母が私に尋ねてきた。N市はここから湖岸道路に出て三十分も走れば行ける。県内ではちょっと有名な大きな浄土真宗の寺、D寺もある。祖父が若い頃そのD寺でよく法話をしていたことは母から聞かされていた。
「いいよ」
私のそのあっけない答えに母は少し驚いたふうだった。
「今日はおじいちゃん孝行やと思って、頼むわね」
おじいちゃん孝行か、まさにその通りかもしれないよなとしみじみと思った。私は確かに祖父の孫であるが、祖父は母方、毎日いっしょに生活しているわけではないし、年に二度か三度しか会っていない。今日のように祖父とドライブするのも考えてみればはじめてのことだ。私はN市に向けてアクセルを踏んだ。
「なにがおじいちゃん孝行や。わしのことみたいどうでもええ。それより嫁をもらうことのほうが大切や」
祖父は九十代とはとても思えないほど本当にすこぶる元気で快活だった。
「血圧の方はいいん?」
「ああ、そんなもんまったく大丈夫や」
「どこも悪いとこないの?」
「ああ、もうぜんぜん。毎日晩酌もしてる」
後部座席の親子の仲睦まじい会話を耳にしながら、わたしは今していることのうっとおしい気持ちがどんどん薄れていき、次第次第に柔らかく暖かい気持ちになっていくのだった。
ルームミラーの中の祖父の顔をちらりと見た。この世で九十年以上生きてきた顔。小学校を出て以来親から離れ自分ひとりで自分の人生を歩いてきた顔。祖父は大恋愛をし妊娠までさせて駆け落ちのような形で七年前に亡くなった祖母といっしょになった。祖母が死んだ時、枕元にいた気の強さだけが自慢のはずの祖父が大きく声を上げて号泣したという。祖父は祖母が死んでからそのワンマンさ、そのパワフルさは半減している。布教師の仕事もあまりしなくなり、外に出歩くこともめっきり少なくなった。この五、六年で祖父の体はひとまわり小さくなったように思える。まあ、それでいてなおかつこの今の有り様であるが。
【5】
N市の〈鶴屋〉の玄関に三人が立つと、「はーい、いらっしゃいませ」と威勢のいい張りのある声とともにえび茶の着物を着た大柄でふくよかな女性が駆けるようにして出て来た。
「みよちゃん!」
祖父はものすごく懐かしい人、まるで初恋の女性にでも再会したような甘い声を出した。
「あらっ、和尚さん!」
六十は優に越えているであろうそのみよちゃんと呼ばれた女性も久しぶりの再会に驚きとうれしさに満ち溢れた顔だった。
「お元気そうで、何よりですわ」
「みよちゃんも相変わらずきれいや」
「もう和尚さんたら、うまいんやから」
みよちゃんは私の目から見てもまだ十分に艶っぽい。若い頃はさぞかし美しかったのだろう。香水の香りがほのかに漂っていた。ただ、その過去の美しさの連想に惑わされることなく見つめると、どう考えても六十は越えていた。彼女が〈鶴屋〉のおかみなのだろうか。だとしたら、そのおかみの娘となると、一体いくつなのか?私は少し不安になるのであった。
「それで今日はどういうご用件で?」
みよちゃんは祖父の後ろに立っている私と母に会釈してきた。
「娘と孫を連れて来たんや。今日はみよちゃんにひとつ頼みがあってな」
手招きされるままに赤い絨毯のロビーの革張りのソファに私たちは腰を下ろした。壁際に大きな水槽があって、赤や黄や青の小さな熱帯魚が群れをなして泳いでいる。窓の向こうには、秋の穏やかな陽光を受けた大きな庭があり、中央の一本の松が見事な枝振りを見せていて、その一本の枝は窓から手を出せば触れられるほどに横に長く伸びている。
「いい旅館やなあ」
「そうやろう、〈鶴屋〉言うたらN市では知らん者はいいひん……」
母が褒め、祖父が旅館の解説をしているところへ、みよちゃんが信楽焼きのようなとっくりと急須ののったお盆を両手に入ってきて、
「それもひと昔前までの話ですよ」と言いながら床に膝をついた。祖父に小さな三角おむすびのような形の杯が手渡され酒がつがれ、私と母の前には難しい漢字がいっぱい描かれた厚手の茶碗でお茶が出された。
「わしの娘と孫を連れてきたんやけど、この孫にまだ嫁がなくてな」
みよちゃんのお酌で調子よく三杯ほど杯を口に運んだ祖父はまたもやストレートに切り出した。
「男前のお方ですのに。いや、和尚さん、こういうお人は自分でしっかり好きな人を見つけていらっしゃいますよ」
「それが、気の弱いしだめなやつで、さっぱりあかんのや」
母はこくりと頷いて、私は俯いて首をすくめ亀のような状態になっていた。
「それで、……」
酒をついでもらいながら、祖父がきっといよいよ、「娘さんをくれないか?」の伝家の宝刀を抜こうとしたまさにその時だった。
「おばあちゃーん!」
と泣き叫ぶような声を上げて五つか六つ位の女の子が走って来た。そして、みよちゃんに擦り寄って来て、「おにいちゃんが いじめるん」と甘えたかわいい声で言った。
「この孫ではまだお嫁さんはとても無理ですしね」
みよちゃんは笑ってそんな冗談を言いながら黄色いリボンのついた孫の頭を撫でた。
「娘さん、いつ結婚なさった?」
祖父が目を大きく開いてあきらかに驚いたように尋ねると、
「もう十年ほど前になりますか。……養子をもらったんですけどね、二人子供ができて、なにもかもさあこれからというのに、出て行かれてしもて、母子家庭です」
と、みよちゃんはあっけらかんと答えた。
「そうか、そうか、十年前か。もうそんなになるか。娘が結婚できなくて困ってるって、みよちゃんが言ってたん、ついこの間のような気がしてた」
私と母は自然と顔を見合わせてしまい、互いに目で笑い合った。
「お仕事がらお顔が広いからと、祖父がぜひお願いに行きたいと申しまして、それでこんな形で失礼を顧みず、どうかお許しください」
その母の言葉に対して祖父は何も言わずにただ酒を口に運んだ。そして、「そうか、十年前か」ともう一度小さく少しさびしそうに呟くのだった。
【6】
まったくやれやれといった感じで〈鶴屋〉の駐車場に停めた車の中に戻ると、
「D寺の前にな、和菓子の店があるんや。今度はそこに行こう」
祖父は懲りずにまたまた元気な声で提案してきた。
「今度は、独身の娘のつもりで行って、実は息子やったなんてこと、ないよな」
と、私が母だけに聞こえる小さな声で言うと、母は小さな声で、
「ありえる話やね」
と、返してきて笑った。
「はい、D寺の前やね、おじいちゃん」
私は朝祖父を迎えに行って以来一番大きな声を出した。
「行ってくれるん?」
母はもう非常に意外な様子だった。
「なんか、今日はおじいちゃんにとことん付き合いたい気分になってきた」
どういうわけか本当に心の底からそうしたい気分だった。九十を過ぎた祖父はよく生き仏様と人から言われるが、私はその生き仏様に付き従って、たとえその生き仏様が何を言おうが何をしようが、他人様の前でさほど恥ずかしくなく、他人様から生き仏様はもちろんお供の私まで万事許してもらえるような気がした。愉快なのだ。心地いいのだ。「嫁をください!」と一軒一軒回って歩くこの目茶苦茶さがとても愉快なのである。
「おじいちゃん、おなか減ってへん?朝早かったからおなか減ってきた。うどんでも食べたいな、おじいちゃん」
太陽はもう真上にあって、朝駆けで出て来たわけだがもう時計の針は十一時を回っていた。朝駆けは腹が減る。私はおかしくなってきた。腹が減るだけでなんだかおかしい。
「うん、そうか。うどんか、そうやな、うどんといえばN駅前の村上食堂がええ。あそこのうどんはうまい。鴨なんばんが特にうまい。N駅前に行こう」
「わかった。N駅前やな」
「あんた、なんか急に元気になってきたやんか」
母が笑うように私にそう言ってきた。
「あの村上食堂にも確か美人の娘がひとりおったわ」
「ほんとに美人?」
「ああ、山本富士子みたいな美人やった」
「今度はうどん食べるだけにしとこうなあ」
うどん食べるだけという母のその声には哀願じみたものが含まれていた。
私はルームミラーを覗いた。一合の酒でゆで蛸みたいに真っ赤な顔になっている祖父がパックリ口を開けて大きな欠伸をひとつした。すると、それにつられるように私の口からも欠伸がこぼれてきた。
「朝駆けは眠たいな、おじいちゃん」
今度は祖父には聞こえない小さな声でフロントガラスの向こうの街の風景に向けて呟いた。黒い瓦屋根が重なり合う向こうにN城の天守閣が見え、その上に日本晴れの秋の空がきれいに広がっていた。
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