ピアノコンサート
二月に入り寒もあけたというのに、この冬一番の寒波襲来とかで、朝から白いものを散らつかせ、肌を刺すような風が吹いている。その夜も冷えるなか、かねてから楽しみにしていたフランスのピアニスト「エリック・ベルショ」のコンサートに出かけた。
会場のホールは指定席なのに、開演二十分前には既に半分程度埋められ、舞台の中央には眩しいばかりの大きなスタンウェイが置かれてある。いつもそのグランドピアノを見る度に、一度触れてみたいな、音色は、響きは、と思うが、演奏の合間にも調律されている様子をみると、とても、とてもの存在である。
やがて、開演の合図の後、ベルショが現れると聴衆の拍手の中一礼してピアノの前に、一曲終る度にピアノを離れ、聴衆に親しみの眼差しで会場を見まわし、又、即ピアノの前で演奏を始める。何のトークも傍からの解説も通訳もなく、終始一貫ピアノの音色で勝負といった具合である。曲目は馴染みのある映画音楽、ポピュラー、クラシックのものばかりで楽譜一つ持たず、次から次へと奏で、響かす音色は幻想的で詩情が漂い、音色の中にうっとり溶けこます魔術の様なテクニックを、私は鍵盤を走る両手を眺めながら思っていた。
休憩になり、張りつめた緊張からフーッととき放された時、あまりにもかけ離れた自分のピアノとを思いあわせた。子どもの頃からピアノには憧れていたが、それは金持ちのお嬢様が弾く物であって、私には縁のない楽器だと思っていた。女学校の時「軍隊行進曲」を連弾で弾いた双児の同級生の家庭も裕福であった。しかし高嶺の花のピアノが現実的になってきたのは、就職先が小学校で、音楽という教科がある以上、伴奏として弾かねばならない。私は放課後、音楽室が空いているのを確めて、こっそり教材やバイエル等を練習したが、あく迄我流、分からぬ箇所は若い後輩に教えてもらうといった程度であった。そんな状態のなか、家庭でも練習できるように、思いきってピアノを購入した。子どもの頃から憧れていた黒塗りのピアノが、わが家の一室に据えられた時は嬉しくて、洗い物の手を拭き拭き、ピアノの蓋をあけたものである。
やがて退職してから、ピアノが置いてあるという理由だけで、私の腕前も知らずバイオリンとフルートの合奏の話がでて、三人寄っての「トライアングル楽団」が誕生。リーダー的存在のフルート奏者からピアノの指導をうけた。かれこれ十年余り続き、扱った曲も童謡から民謡、クラシック等と幅広く、お互いの呼吸もあって楽しいひとときであった。
そのうち、お互いの家庭の事情等によって中断後、自分の好きな曲の楽譜などを求めて楽しんでいたが、あく迄ひとりよがりで技術的にも自信がなく、惰性にながれたものであった。
そんな中、四年前NHK総合テレビ「にんげんドキュメント」「今からピアニスト」シルバー世代のピアノ発表会を見た。私達世代の戦中戦後の苦しい時代を生き抜き、今、自分達の生甲斐を求めて弾く曲には、それぞれの個性がひかり明るく楽しいムードに満ち溢れていた。講師の指導法は、ひたすら技術を追い求める従来の方法とは異なり、生徒各人の個性やテンポを重視して、分り易く親しみのある選曲も馴染みがあって楽しかった。画面や解説を見ているうちに、「わが意を得たり」。そうだ、速さもテンポも楽譜通り弾かなくていいのだ、自分らしく楽しかったら良いのだ、との思いに至った時、肩の荷が降りたような、目から鱗がとれた、といった感じをうけた。
新曲に入る度にピアノ曲のCDをかけ、お手本としていた練習の手口は変わらなかったが、気分的には曲のムードを楽しむといった気持ちを味わうことができた。しかし反面、感性に乏しい自分を知るとき、又自信を失い惰性にながれ、何日もピアノの蓋をあけることなく、物置状態になっているピアノを意識して、少しばかり心が傷んだりした。
やがて舞台は熱狂的なアンコールの拍手のなか、三回程小曲を披露、最後に右手を胸に当て、エリック・ベルショが舞台を去っていくと、聴衆は深い感動のムードから現実へ戻り、ざわざわと動き始めた。私はまだ立ち去り難く、主の再び現われぬ舞台のスタンウェイをぼんやり眺めていた。
やがて吐き出されるように出て行く人々の群の終わりにつき会場から出ると、思わず「あっ寒う」。その冷たさが今迄のすべての思いから現実へ立ち返らせた。凛として妥協を許さぬ冷たさは、かって生まれ育った札幌の冷たさを偲ばせ、ふと空を見上げると、澄み渡った紺碧色の空に、無数の星が散らばり輝いている。今宵のしめくくりをみるような美しい神秘的な冬の星座に、寒さも忘れ暫し見入っていた。
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