随筆・評論 市民文芸作品入選集
特 選

宇治川
中藪一丁目 中村 速男

 私は清掃センターで資源ごみである空缶の選別作業をしている。作業場は屋外であるから、真夏はかなりきつい。だから冷たいお茶の入ったポットは手放せない。たいていの場合は足りなくなるが、自販機があちこちにあるので安心である。
 そんなときによく思い出すのが、少年時代に体験した炎天下の行軍である。あのときには、水筒一本の生ぬるいお茶だけが頼りであった。それに耐えぬくのも、訓練のひとつとされたものである。

 昭和十九年の四月、パイロットになることを夢見て、京都航空機乗員養成所に入所した。十三歳のときである。全寮制で、覚悟はしていたものの、予想以上の厳しい明け暮れに、最初のうちは戸惑うばかり。夜ベットに横たわると、どうしても家のことが頭に浮かぶ。ときには声を忍んで泣いたこともあった。
 それでも一ヵ月もすると、養成所の生活に馴染んできて、そのようなことも次第に減っていった。待望の夏休みが近付いた七月下旬のある日、黄檗山万福寺までの行軍が行なわれた。往復で三十キロはあったろう。
 当日は、雲ひとつない快晴であった。朝から陽がじりじりと照りつけてはいたが、気にもせず元気に出発したものである。行軍中は列を乱してはならず、私語はいっさい許されない。汗まみれになりながら、足並みを揃えて黙々と歩くだけ。
 帰りは渇きに苦しんだ。節水をやかましく言われ、「半分は残しておけ」とのことであったが、私の水筒には昼食のときすでに半分も残っていない。それを全部飲んでしまったので空っぽ。せめてもと、詰めのコルクをしゃぶってみるのだが、なんの足しにもならない。午後の陽射しが容赦なく降ってくるなかを、犬のようにあえぎながら一歩一歩と踏みしめてゆく。
 宇治川の河原で休憩したときに、とうとう辛抱できず、皆の眼を盗んで川の水を飲んでしまった。そのことで、後々まで随分悩んだものである。
「ああ、俺はなんて意志が弱いんだ。節水の指示を守ることもできず、いくら喉が渇いたからとはいえ、コッソリと川の水を飲むとはなんという恥知らずだ」

 何年か前の同期会で、あのときには何人かが川の水を飲んだことを知った。私は「俺もそうだった」と、喉元まで出かかっていたのに、なぜか気後れがして結局言いそびれてしまった。いまさら秘すことでもないのに。

 一昨年の九月の始め、所用で京都の伏見まで行った。『あの場所』のすぐ近くである。懐かしいというか、ほろ苦い思い出の場所。水の味までがよみがえってくる。折角ここまで来たのだ、ぜひとも訪れなければならない。足は京阪電鉄の中書島駅に向かっていた。
 観月橋駅で降り、車の往来の激しい道路を横切ると、目の前に高い堤防がある。はて、こんなに高かったかな、と思いながら登りきってあたりを眺め渡す。様子がすっかり変わっている。
 河原には、人間の背丈ほどの雑草が生い茂っており、太い樹があちこちに立っているので、簡単に降りられそうにない。下流百メートルくらいのところに近鉄の鉄橋が見えるから、このあたりだろうとは思うのだが……。
 教官の声がした。
「ここで十五分間休憩。きついだろうが頑張れ。日本男児なら弱音をはくな」
 解散の号令を聞くが早いか、私たちは先を争うように河原に駆け降りる。手拭いを取り出し、水に浸して顔に押しあてる。ヒンヤリとしてとても心地よい。思わず噛み締める。
 もう我慢できない。どうにでもなれとばかり、今度は水をたっぷりと含ませて夢中で啜〔すす〕り込む。汗臭い、けれどもなんてうまいんだろう。甘露とはまさにこのことか。二度、三度と繰り返す。

 人声がする。ギクッとして振り返る。高校生が数人、声高に喋りながら通り過ぎていった。気が付くと、いつの間にか私は堤防に座り込んでいた。苦笑いしながらズボンの尻をはたいて立ち上がる。水際まで行こう、という気はもうなくなっていた。

 あのときと同じように、柔らかい音をたてて流れている宇治川。それにしても、西日の照り返しがこんなに眩しいとは。思わず目を細める。
 鉄橋を渡る電車の音に促されるように歩きだす。遠くでサイレンが鳴っていた。


( 評 )
 現職の状況から、戦中、十三歳のときの行軍のほろ苦い回想へと話がすすむ。指示を やぶったことなどを後々まで悩む心情、しかも「俺もそうだった」と結局言いそびれてしまうことなど、微妙な人間の心理などがうまく捉えられている。

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