小説 市民文芸作品入選集
特 選

魔性の湖
西今町 桑嶋 ミキト

 私たちは、これを「うみ」と呼ぶ。
 このうみには時間を巻き戻せる不思議な神の力が宿っているのだ、と私は信じている。
 朝は壮大に広がる水面に神秘的なスモークがたち込め、ステージで踊るマガモたちを演出し、昼は太陽の光を浴びてダイヤやルビーなどを詰め込んだ宝石箱を思わせる景色に早変わりする。そして夕方ともなると、茜色の水面に哀愁感を誇張するかのように波が立ち、夜は、不気味な月光の鏡となって、闇の静寂を支配する。
 最近では「マザーレイク」という言葉で地元の若い人々にも称えられるこのうみは、滋賀の面積の約六分の一を占める、日本一大きな湖、琵琶湖として全国でも知られる。
 私がうみを見るのは、久しぶりだった。
 正確には、四年くらいか。故郷の滋賀を離れてもうそんなになる。かつては、大学で故郷を一時離れたものの、就職は地元滋賀で決め、四年前まで地方新聞社の記者として働いていた。あの頃は毎日この琵琶湖を見て暮らしていたものだが、さすがに四年も経つと懐かしい。
 古き時代から「淡〔あわ〕つ海」として古文書に記された琵琶湖は、淡水魚やしじみなどの豊かな食文化の源となったばかりでなく、生活で使う水を供給し、また北陸からこのうみを渡り大阪へと向かう淀川への水運として利用された。勿論今も、滋賀や近畿の人々の生活用水や工業用水として大切な役割を担っている。
 私だけじゃなく、滋賀にゆかりのあるすべての人々にとってこのうみは心の拠り所だ。それを証明するこんなエピソードがある。私が記者をしていた頃、上司だった社会部部長が東京から出張で帰ってきて、ふとこんなことを言った。
  「慣れへん東京の慌しさにすっかり胃が痛くなって、帰りの新幹線じゃ、とても駅弁なんて食べられへんかった。そやけど、不思議なもんやなあ。新幹線の窓から琵琶湖が見えた途端、ホッとして、駅に着くなり立ち食いそばを食べてきた。琵琶湖を見ないと生きた心地がせえへん、これが滋賀県人の悲しい性なんかなあ。」
 こう語った部長も勿論滋賀県生まれの滋賀県育ち。この部長の言葉を聞いてみんながどっと笑い、よく似た自分の体験を話し出した。私も強く共感した。
 そう、琵琶湖は母なるうみなのだ。
 私が小さかった頃、このうみはアオコや赤潮などで汚れがひどかったが、最近では最も汚れがひどかったとされる南部の大津市周辺ですら見違えるように美しくなった。それでも今以上に美化が進むように地元の若者たちがリードして活動している。
 かつては元の美しい水環境へ回復するのは不可能ではないか、と危惧されたが、今私の目に映るこの壮大なる琵琶湖の景色が語るように奇跡は起こり得ることを実感する。
 やはり、このうみには、時間を巻き戻す神の力が宿るのだ。私がそう確信するのには、湖の再生という奇跡以外にもうひとつ訳がある。それは、地元記者を辞めるきっかけになった四年前のある出来事である。
 琵琶湖をよく知らない、もしくは、見たことのない世の大半の人々にこの出来事を話して信じてもらえるか、私は不安だ。実際、私は誰にも話してこなかった。何故か?
 私は地方新聞社を辞めた今もフリーのジャーナリストとして仕事を続けている。ジャーナリストが嘘をついていると思われるのは、この上ない屈辱だ。だから最初に断わらせていただく。
 私はジャーナリストのプライドにかけて嘘はつかない。これから話すことはすべて真実である。
 私を疑わしく思われる方は、実際に琵琶湖のほとりに来て、今、私の目の前に広がる神秘に満ちた水面をご覧になられてからお話した方が良いのかも知れない。
 今、私がいる場所は、JR大津駅から北へ700メートルほど道なりにまっすぐ行った、ミシガン船が停泊する浜大津港。左手には比叡山と湖岸の豊かな木々、右手には湖を横切るアーチ状の陸橋、近江大橋が見える。そして正面は、遠くに新旭町の風車がゆっくりと回っている。水面がシャポン、シャポンと心地良いリズムで船着き場の岸を打ち、目に映る琵琶湖がだんだん大きくなって、私たちを呑み込んでしまいそうになる。そう、このうみには時間を巻き戻す神の力が宿るのだ。

 四年前の出来事を話す前に、私のそれ以前のことについてまず話したい。
 私は滋賀県の北部、琵琶湖の東側に位置する彦根市で生まれ育った。
 彦根市は、江戸時代末期の大老であった井伊直弼の居城、彦根城で知られる小さな観光都市だ。私の実家は城の近くにある商店街の酒屋である。私には兄弟はなく、父と母の三人で暮らしていた。酒屋を開業した祖父母は私の生まれる前に死に、私の記憶にはない。彦根城は現在も天守閣が残り、時代劇の撮影に時々使われるところで、石垣にどっしりと腰を据え、現代に威光をかざす荘厳な様は迫力があり、また夜になるとライトアップされて妖しげな魅力を醸し出す。春は城下を埋め尽くす桜で、城が頬を赤く染めた表情に映り、秋は散りゆく銀杏が城の哀しい涙を彩る。
 城下町にあたる商店街は、当時の町並を再現しようと、各店舗がわざと黒く古い建物に造り替え、夢京橋キャッスルロードとして観光客の目を楽しませている。これは彦根市の事業の一環として行われてきたもので、実家である酒屋も、私が中学生の時、京都の太秦映画村の撮影用セットを彷彿とさせる黒い柱と白壁の建物に生まれ変わった。
 勿論近くにうみはあった。城下の西の通りをまっすぐ北へ行くと松原水泳場と呼ばれる湖岸があり、幼少時代、夏場はここで泳ぎ、花火をして楽しんだ。
 仕事を始めたばかりは、彦根の実家から会社のある滋賀の南端、大津まで通っていたが仕事柄、真夜中の事件・事故・火事の取材に飛び出すことが多くなり、会社の近くに一人暮しをせざるを得なくなった。
 実家を離れたとはいえ、同じ県内だったし、一人暮しのマンションのすぐ近くにもうみがあった。毎日湖岸沿いの国道161号を通って通勤し、県警の記者クラブに詰める傍ら、昼・夜となく県内各地をニコンのデジタルカメラを担いで走り回った。そして上司に怒鳴り散らされながら、県警の課長クラスに詰めより情報をもらい、事件・事故をカメラで手早く撮ってパソコンで原稿を会社にメールする毎日が続いた。
 滋賀のような田舎でも思いがけない大きな事件が起こるものである。元々気の弱かった私は、段々仕事で身を汚し、遂には脅しにも似た仕打ちで、一般の人々に話しを聞き出すことが出来るようになっていった。入社して二年後、私の地元彦根で起こった父親の母子殺害事件では、泣き伏せる家族に私はコメントを取るため、やくざのように詰め寄り、十分おきに玄関のコールを鳴らして近所の人々の顰蹙を買った。あの時の狂気染みた私は誰にも止められなかった。
 いつしか手段を選ばない情報取得合戦が喜びに変わり、気がつけば、私は傍らで静かにたたずんでいたうみが目に映らないようになった。この時の私には、うみなんてどうでも良かったのだ。頭にあったのは記者としての名誉欲ばかりで、人の痛みを感じることもなかった。
 私に転機が訪れたのは入社して三年目の十二月始めだ。ある一人の女に私は心を奪われた。滋賀県北端に位置し、福井県、岐阜県とも接する余呉町には、琵琶湖とは違うもうひとつの神秘的な湖、余呉湖がある。ここの取材で私はその女と出会った。
 彼女の名前は、本多千佳。当時二三歳。
 普段は事件・事故を追いかける私であるが、勿論毎日がそんな取材ばかりでなく、日曜日の朝刊用に地元の名勝地を取り上げる特集をこなすこともあった。記者連中は、このような取材を「暇ネタ」と言う。暇ネタが苦手だった私は、渋々カメラを持って余呉湖の周辺を歩き絶好のビューポイントを探していた。
 余呉湖は琵琶湖と違って小さい。岸から岸までの距離が最も離れたところでも六百メートル位なもので、歩いて一周するのに苦労を要しない。余呉湖の南端から西側をつたって時計廻りに歩いていた時、ちょうど対岸で私とは逆廻りにカメラを持って歩く女が見えた。田舎の町に不似合いな、都会の香りが彼女のいる対岸から漂った。彼女はワイン色のコートを着て、短いスカートにブーツを履いていた。遠くから見ても、緑に囲まれた静かな余呉湖の風景に彼女の容姿はミスマッチだったが、赤い色の服が強く私の視覚を刺激し、まわりの景色は色を奪われたモノトーンのセル画のように霞んでいった。時計の逆廻りに歩く対岸の彼女は、逆走する秒針のように不可思議な魅力を発し、幻想的で、私を歪んだ時間に案内する女神のように思えた。
 そして、・・・急ぎ足に距離の間隔を埋めようとする分針と逆走する秒針は巡り合った。
 彼女は小柄で、スタイルが良かった。髪には細かくチリチリとパーマが当てられており後ろ姿を見ると大人っぽかったが、大きな目と小さくて薄い唇が織り成す笑顔は、とてもあどけなく、魅力的だった。彼女は本当に赤い服がよく似合った。
 彼女は初めて私を見て会釈をすると、無邪気に大きな柳の木と湖の風景にシャッターを押し始めた。今まで取材先で見た事もない顔なので、新聞記者ではない事はわかったがカメラを使う手つきを見ているとアマチュアには見えなかった。
 女の人に好意的な態度を取る事が決してできない私ではあったが、思いきって不器用なりに笑顔を作って彼女に話しかけた。
 「その柳の木は確か、有名な伝説が残る、ここの名物ともいうべきものなんですよね」
 「はい、『衣掛柳』 ですよね。編集長にまた怒られるといけないから、昨日一夜漬けでホームページを調べて勉強し直してきたんです。私、ここに来るのは二回目です」
 「はは、僕は初めてですよ。いい加減に原稿を書くと僕もデスクに怒鳴られるから、雑誌でこの場所を調べて来たんです。この 『滋賀情報マップ』 って雑誌です。記者が雑誌に頼るなんて恥ずかしいですね」
 「私はその雑誌のライターなんですけど・・・。その雑誌の余呉湖の特集は私が一昨年書いたんです。活用してもらって有難うございます。」
 たまたま手に持っていた私の雑誌が、出会いに偶然というアクセントを付けてくれたが、こんな風な出会いだったので、彼女にとって私の第一印象はきっと悪かったであろう。でも原稿を書く仕事をしている事がわかり、私は急に親しみが湧いた。本多千佳は、最初の私のエラーを笑って吹き飛ばし、気さくに私と話してくれた。
 初冬の余呉湖は、美しかった。岸に生えるヨシや周辺の丘の木々、渡り鳥など、景色を惹き立てる飾りたちを寒さがぎゅっと引き締めて、洗練された風景美を堪能する事ができた。立ち話をする私たちは寒さに手をこすり合わせて紛らわせていたが幸い雪が降ることはなく、雲間からは太陽の光も覗いた。
 余呉湖は地元で天女伝説が残る秘境の湖だ。
 その昔、ここに天女が舞い降りたと云う。私が彼女と出会った柳の木は『衣掛柳』と呼ばれ、舞い降りた天女たちが羽衣をその木に掛けて水遊びをしていたとされる場所だ。伝説では、近くの村の男が水遊びをする天女たちを見つけ、柳の木に掛けてあった羽衣のひとつを隠した。羽衣をなくした天女の一人は、天に帰れなくなり、その男と結婚し、下界で暮らすようになる。男の子が生まれ、幸せな暮らしが続いたある日、夫は羽衣を隠していた事実を妻に打ち明けた。妻は羽衣を再び手に入れ、それを羽織って天に帰って行った。悲しい結末のストーリーである。
 彼女は、その伝説を意識してか、或いはカメラを撮るために無意識でそうなったかは分からないが、寒いのにわざわざ赤いコートを脱いでその柳の木に掛けた。その後、夢中で周りの風景に向かってシャッターを切り続ける彼女は、まるで天女そのものだった。これは、大げさな表現ではない。現代版天女に出会えたことが私は嬉しくて仕方なかった。そして同時に、束の間の幸せな時間の後、いずれ何処かへと消えてしまうであろう悲しい運命を私はその時なんとなく予感することができた。
 その後私達は付き合うようになったが、天女はやっぱり気まぐれだった。一ヶ月ほど大津市のマンションでほぼ同棲の暮らしを送ったが、東京で新しい出版社の仕事を見つけた彼女は、何のためらいもなく、私を置いて出て行った。夢や憧れを持つ女性は魅力的だったが、いざ一緒に暮らすとなると犠牲は大きかった。
 彼女を忘れんがために、私はまた仕事ばかりの生活を送ることで、紛らわせようとした。
 地方紙の記者だった時は、正月に休んだ記憶がない。紅白歌合戦は会社で見るものだったし、除夜の鐘を取材先で聞いて、初詣の様子を取材先で見た。一般の人々がごくごく普通に過ごす時間を私は仕事のクールな目で見つめてきたのだ。
 それでも、年が明けて最初の休みが取れた日に、私は遅れた初詣に必ず行ったものだ。私の初詣は、だいたい一月下旬。ひどい時には二月になる。私がお参りする神社は決まっていた。逢坂山のふもとにある関蝉丸神社だ。「知るも知らぬも逢坂の関」の句で知られる蝉丸を奉ったこの神社は、琵琶湖の西湖岸に沿う国道161号線と東海道に平行する国道一号が合流する場所にひっそりと佇む。人にあまり知られていない小さな神社だが、芸能の向上を祈願する珍しいものだ。私は芸事が達者ではなかったが、取材でこの存在を知り、ジャーナリストも時に豊かな感性が必要となることから私は毎年行くようになった。かつてこの場所は、近江国と山城国を隔てる交通上重要な関所で、荷を背負う多くの人々が巡り逢い、その思いを刻み込んだところであったが、今では国道の脇で車の群れから逃れるように影を潜めている。ここに来る度私は、文明の進歩が人々をどれだけ幸せにしただろうか?アートは文明の前に廃れていくのが世のならわしなのだろうか?と考えた。私は時代の波に飲み込まれながらも、静かに時を刻みつけているこの神社が好きだった。

 しかし、新聞記者時代最後の正月となった四年前に限っては、私はこの神社に初詣に来なかった。何故か?

  ここらで、漸く四年前の出来事について少しずつ話していきたい。あの時も、相も変わらず遅れた正月休みが訪れ、例年どおり一人で関蝉丸神社に初詣に行く予定だった。だが、一月二十一日、事態が変わってしまった。
 父が危篤になった、と休みの朝早く実家の母から電話がかかってきた。大急ぎで私は実家へと車を走らせた。
 私が彦根の実家を出て、大津市で一人暮しをするようになって四年が経っていた。同じ県内だから近いし、その気になれば何時でもすぐ行ける・・・。そんな風に軽く考えていたせいか気がつけばもう二年以上実家に帰っていなかった。無論、両親の顔も見ていなかった。父の体調がすぐれないことは前々から聞いていた。去年肺癌が早期で見つかり、摘出手術を受けた時も私は仕事から離れることが出来なかった。一度実家が遠ざかるとなかなか会うのが面倒になる。取材で彦根には何回も行っていたのだが、忙しさにかまけて立ち寄りもしなかった。
 実家に帰る車の中で私は、さっきの電話ごしに聞いた母の悲痛な声を思い出しながら、自分の罪深さを今さらながら感じた。まさか、早期で手術を受けたのに、転移していたとは知らなかった。家族も私に心配をかけまいと、これだけは話さなかったようだ。薄情な私は近いから、ということを全ての言い訳にしてきたのだ。
 当時私が一人暮しをしていたのは大津市の西部で、京都府との境に接する皇子が丘という地区だった。すぐ隣りには夏に高校球児が甲子園へのキップをかけて熱戦を繰り広げる大津市営の皇子山球場があった。私が住むマンションから琵琶湖湖岸まで出る途中には、近江神宮があった。さすがに一月下旬を過ぎると初詣客はいなかったが私はおもむろにその神社に車を止めた。
 急いでいた。確かに故郷の彦根に帰るのを急いでいたのだが、人は危機が目の前に訪れると、正反対の行動をとることもあるらしい。神にすがりたいという気持ちもあった。そしてそれ以上に、今まで実家を見捨ててきた罪の意識を宗教的な権威で振り払って欲しかったから、賽銭箱に一万円札を投げ込んだ。正月の賑わいはすっかりどこかに消えた、この広大な神社で私はただただ、祈りつづけた。
 その様子を見ていた若い巫女が心配そうに私に声をかける。
 「あなたは、何かに苦しんでおられますね。時間が経てば苦しみは癒えるものでしょう。あなたの願いが通じんことを祈ります」
巫女とはいえ、アルバイト感覚で仕事をしているように見えたこの若い女性は、まるで私の全てを見透かしたような言葉遣いで静かに言った。私は急にその巫女に対して怒りが込み上げた。
 「何がわかるっていうんだ!私は自分が後悔しないように今まで必死に生きてきたつもりだ。でも、どうにもならない愚かな過ちに気付いた。もう遅いんだ。あなたのような若い方に私のこの無力でみじめな気持ちがわかるってのか!」
私はこんな大人気ない言葉を発しながら、目に涙を浮かべていた。
 「悲しい人ですね」
巫女は私の怒鳴り声に全くうろたえていなかった。
 「大きなお世話だ!時間が経てば癒える?よくも今の私にのうのうとそんなことが言えるな。神にでもなったつもりか?だったら、時間を巻き戻してくれよ。失ってきたものを取り戻させてくれよ。その哀れみの目で見られるのはとても不愉快だ」
 「時間を巻き戻したところで、人は幸せになれませんよ。それでもいいんですか?」
段々この若い巫女に追い詰められていくような閉塞感を私は感じ始めていた。
 「もう、放っておいてくれ!」
逃げる様に背を向け私は立ち去ろうとした。後ろでその巫女が囁くように、しかも耳で明瞭に聞き取れる静かな口調で言った。
 「時を刻む水の世界に私は、あなたの祈りを力に変えて伝えました。ここは時を司る神の場所。そしてその力は、水時計の針となってあなたを導きます。歪んだ時間の中であなたは何を解決することができましょうか?本来、時間に身を委ねることこそが人間としてのあり方ですが・・・」
巫女の言葉の最後は、だんだんかすれていき、私は巫女のただならぬ言葉の存在感に圧倒され、驚いて振り向いた。しかし、信じられないことに、巫女は消えていない。そして近江神宮にそびえ立つ松の木々の間から僅かに見える鏡のようなものが私を眩しく照らし、目を眩ませた。正気に戻ってその鏡の正体をもう一度よく見直すと、それは琵琶湖の水面であった。
 もう気が済んだだろう。とにかく急いで帰らなければ、と心の中で自分に言い聞かせ、湖岸の国道161号へと車を飛ばした。
 滋賀県南西部にあたる大津市の近江神宮から琵琶湖を挟んで北東部の彦根まで行くには、幾つかの行き方がある。
 高速の渋滞をさけて、下道で最速に着く道といえば、おそらく地元の人なら西湖岸の国道161号を南に向かって進み、近江大橋を渡って琵琶湖を西部から東部に横断し、そのまま東湖岸の道を琵琶湖沿いに北上して彦根に入る南廻りルートが一番賢明だった。近江大橋のもう少し北で琵琶湖を横断している琵琶湖大橋は工事でここ一周間通行止めだったから、西湖岸の国道161号を北に向かう北廻りルートは選択の余地が有り得なかった。
 近江神宮から琵琶湖の湖岸まで出て国道161号と交わるT字路の交差点の信号で、私は足止めを食らった。前に横切る国道161号を右に行けば琵琶湖を南廻りするルート、反対の左に行けば、北廻りするルートだ。私自身、実家に帰るのに、南廻りのルート以外を選んだ事は今まで一度もなかった。
 信号が青に変わった。当然のごとく右ウインカーを出してハンドルを右に切ろうと思ったがその瞬間、先ほどの近江神宮と同様、今真正面にある琵琶湖が光を乱反射させて私の目を強烈に眩ませた。そして気が付いたら、私はハンドルを左に切っていた。
 急いでいるのは、良くわかっていたが私は、いつも帰る時とは反対のコースを選んでしまったのだ。あの時は本当に無意識だった。いや無意識だったと思いたかった。手が勝手にハンドルを左に切ったなんていうのは、大人として愚かだ。一端琵琶湖の西湖岸を北上し始めた私は、もう道を退き返すことはなかった。
 交差点で見た眩しい光は、ひょっとしたらさっきの不可思議な巫女の誘導か、と一瞬信じた私の幼稚さが馬鹿らしくなった。「急がばまわれ」という言葉は、今の私には無責任な解釈に感じたが、その言葉のとおり、私はあえて遠回りをしながら急ぐという矛盾した行動をとっていた。
 これで、何かが変わるのであれば良い。いつもと反対のコースをいく事で、深い暗闇の森に迷い込んだ私の精神世界に一筋の光が差し込むのでさえあれば・・・。どんな些細な事でも良い。危篤の床に伏す父の病状が、ほんの少しでも小康状態になって私と会話が出来る日が一日でもあれば。私はきっと父に、自分の罪の深さを懺悔し、許しを乞うだろう。実家を離れて仕事に没頭し、大切な家族という絆を忘れていた事。本当は実家で一生過ごす地味な人生が嫌だと思っていた事。心の何処かで酒屋という商売を蔑み、嫌っていた事。もう全ては遅かったのか?私という息子の本心を知らないまま父が生涯を閉じようとするのを、何が何でも食い止めたい。
 琵琶湖の西湖岸を通る国道161号を北上する私には、最初廻りの景色を見ている心の余裕がなかったが、暫くすると、少し気持ちが落ち着いてきた。
 時間は午前十一時。まもなくテンションの高さを頂点に持っていこうとする太陽の光は琵琶湖に生命力を吹き込み、うみは若々しく輝いていた。いつもとは反対側の琵琶湖の景色。それは、鏡の中に自分が入り込んでしまった錯覚を引き起こし、対岸に見えた現実の世界が遠いもののように思えた。裏側の世界からみる現実は、愛しくもあり美しかった。そして表と裏の世界を繋ぐうみは異次元空間の広がりを見せ、私を知らない世界へ導こうと手を招くかのように波を立たせた。
 国道161号線は自衛隊の大津駐屯地を越えたところで二車線から一車線へと道幅を狭める。そこからは、およそ国道という名に似つかわしくなく、ただただ、狭い一車線の道が続く。何処まで行っても必ずうみは私の傍に着いてきた。やはりうみは偉大だ。何千年、何万年をかけて形成されたこのうみは、多くの生命を生み、育て、湖底に帰してきた。長い時代を超えて数え切れない人々の感情を受け止めてきたこのうみから見れば、間もなく息を引き取ろうとする父も、その最後を見届けようとする私もちっぽけな存在かも知れない。生きとし生けるものは必ず死が訪れる。その抗いようのない自然の摂理を掲げ、うみは私を慰めてくれているようであった。心を仕事に奪われないで、こんな風にまっすぐにうみを見つめるのはどの位ぶりだったろうか。父が危篤という状況にも関わらず、道を間違えたさっきまでとはうって変わって、私は不思議な位にクールだった。
 また、うみが私の目に光を投げかけ一瞬、私の視界を奪った。夢から覚めたようにもう一度周りの景色を見直すと、私の車は大津市の雄琴にある風俗街を通り抜け、堅田にある琵琶湖タワーの前に来ていた。不思議だった。琵琶湖タワーに人々が集まり、昔人気のあったバンジージャンプや大観覧車で休日を楽しむ様子が遠くで見えた。おかしい。この遊園地は閉園されて誰もいない筈なのに。
 かつて琵琶湖タワーは、大観覧車やジェットコースター、温泉などを備えており、滋賀県で最も人気のあるレジャースポットだったが、長引く不況の波に揉まれて、私が地方記者時代を始めた二年目に倒産したのである。
 今日だけ当時を回顧するためのイベントでもしているのだろうと思い、気にもせず車を北へ走らせ続けた。
 漸く大津市を抜け志賀町に入った。(現在は合併し、大津市になった) 棚田の風景が広がるこの場所でまず目につくのが国道の左手にある町役場の近代的な建物だ。大きな窓はブルートーンが掛かっていて、中の様子を秘密にしようと隠し、外のあらゆるものを鏡のように映し出す。かつてバイパス工事に絡む汚職事件がこの役場で起こり、私はここに何度も足を運び、情報を得るために職員を捕まえては、質問の嵐を浴びせたものだ。ここの人たちに私は恨まれているだろうな、と思った。私たちの仕事の成功には、必ず誰かが犠牲になる。私は人をたくさん傷つけてしまっていた。
 その役場の奥には汚職事件の舞台になったバイパスの建築現場があり、事件が一応終息してからはブルトーザーなどがけたたましく動き、一日も速い完成にむけて工事が進められている筈だった。が、何故か、その工事跡がない。嘘のように消えてしまっているのだ。もう一度その付近を見やると、役場のブルートーンの窓が太陽の光を反射し見えにくかったのだが、確かになかった。私は狐にでも頬をつままれたのか、夢でも見ているのか、と一寸不安になったのだが、物事を余り深く考えない私は、そんな事よりもただ 「実家の彦根に帰らなければ」という宿命が頭を占拠していたので、すぐに見過ごして琵琶湖の北を目指した。
 高島町、安曇川町を越え、今津町に入った。(現在では合併により、高島市となっている)今津町の湖岸の道は滋賀で最も美しい。勿論自然が豊かなこの地域は琵琶湖の水そのものが美しいのであるが、湖岸の道を挟んだうみの向かいには鮎やゴリなどの川魚を佃煮や醤油煮にして販売を営む老舗が軒を連ね、ノスタルジックな空間を演出する今津港とともに、街並み全体がセピア色に染まった昭和初期の風景のようで愛着を覚える。今津港の船乗り場の前には、滋賀を題材にした名曲 『琵琶湖周航の歌』の博物館があった。今津町に来ると、私は頭の中で『琵琶湖周航の歌』のメロディーが勝手にBGMとなって流れた。
 「我はうみの子さすらいの」の歌い出しで知られるこの曲は加藤登紀子が歌って、全国的に知られるようになった。滋賀県の人々はこの歌を愛し、学校の下校時刻を知らせる音楽だったり、テレビCMのBGMだったり、一定時間に駅に流れる音楽だったりと、ありとあらゆる場面でこの曲を使ってきた。この街は『琵琶湖周航の歌』のメロディーのように、時間がゆっくりと流れている。かつて湖の風景を撮る取材でこの街を訪れたことがあった。湖魚料理店の前をたまたま歩いていると店の主人が気軽に声を掛けてきた。
 「こんにちは、何処から来はったん?」
 誰が通っても必ず声をかけ、話をするのだという。人と接し、人と向き合い、その人の生き様を感じる事で人間は豊かになるのだと、店の主人は言った。そして少し会社の苦労話をしてお茶をもらった私は、帰りがけに店の商品までもお土産にもらった。
 ここに住む人々は、優しく温かい。
 地方記者時代、かねて滋賀県各地をくまなく廻った私は、いつか家を買って住むのであればここがいいと密かに思ったものだ。
 『琵琶湖周航の歌』の歌い出しを何度も私は口ずさんでこの街を通り抜けようとしていた。
 「我はうみの子・・・我はうみの子」
 今津町を過ぎた時、私の口ずさむ歌が止まった。というより、歌っている場合ではなかった。大津市と志賀町で感じた小さな不安の影は、うみを覆う黒い雨雲のようにどんどん広がって、私を暗闇の中に落し入れた。
 それは何故か?
 今津町よりさらに琵琶湖湖岸を北に行くと新旭町があり、そこに着くと豊かな自然を象徴するかのようなヨーロッパ調の風車が見えるのであるが、どういう訳か見当たらなかったのだ。
 風車がなくなる筈がない。やはり自分は夢の中にいるらしい、もしくは、鏡の中の別な世界に迷い込んだのだ、といよいよ本気で思うようになってきた。
 いつも実家に帰るときには車の左手に見える琵琶湖が今日は右手にある。コースを逆周りしているからだ。その右手の方角から、夢の中で響く声のようにエコーが効いて、誰かが話しかけてきた。
 「あなたは時間を巻き戻っているのです。私は時間を司る神。そしてこのうみは時間を歪める神の力が宿る場所」
さっき近江神宮で見た巫女の声だった。右手を見るとうみが巨大なスクリーンのように先程の巫女を映し出し、私に問い掛けた。
 「この大きな水時計が、あなたを新しい運命へと導きます。これで良いのですか、本当に?」
 「あんた、何を言っているんだ!これは夢だ。絶対夢だ!」
つい、恐ろしくなって私は叫んでしまった。
 「この水面は、時代を映し出す鏡。現世の人々の心を映し出す鏡。これは、あなたの心が映し出しているものです。鏡の中にあなたは自分から迷い込んだ。私の言葉を信じて」
 「一体どうなるんだ。私は?」
 「あなたが自分で決めると良いでしょう。人は悲しみを時間の流れで薄めながら、やがて湖の底に沈めてしまうもの。それが、永い間私の見てきた人の生き様です。あなたは抗いますか?従いますか?」
 「何だか馬鹿げてるが、私はとにかく実家に帰る。帰らなきゃいけないんだ。それまで待ってくれ」
ついに、私は巫女の存在を神として信じてしまった。うみのスクリーンに映る巫女は波間に漂い、不適で妖しげだがどこか優しい笑顔を残して消えていった。私は叫んだ。
 「あんた誰なんだよ?近江神宮の神か?伝説どおり本当に時間を操るのか?」
だが、叫んでも遅かった。
 さっき私が、偶然初詣に行った大津市の近江神宮は、時間を司る神が奉られ、神社の中には、現在も時計の博物館がある。時間を刻む儀式、例えば七五三や、成人式、厄払い、初詣などに県内の多くの人々が訪れ、博物館で人は日時計や水時計を眺めて帰る。近江神宮は県内で最も由緒ある神社のひとつだ。伝説どおり、実在する神だというのか、あの巫女が?あの神が何故、私の前に現れるのか?このうみが水時計だというのか?いつもと反対のコースを行く私は時間を巻き戻し、新旭町の風車村が建てられる以前にまでタイムスリップしたというのか?何もかもが分からなかった。
 動揺した私がそれでもふと巫女の事で気付いた事がある。巫女の顔は、近江神宮の時も、さっきの時も、霞んで見えたのではっきり思い出せないが、話し方を聞いていて、似ている人物を思い出した。
 本多千佳だ。私が惚れた女。余呉湖で出会った奇跡の女。鼻にかかる高い声。間をあけてゆっくり話すあのしゃべり方。千佳が私に悪戯をしているのか、と思ったりもしたが、これも所詮自分の心が創りあげた偶像だろう。時間が歪み、巻き戻っているこの世界で父は一体どうなっているのだろう?私が生まれていた時代だろうか?父は母と結婚しているだろうか?現実の世界では、父はどうなのだろうか?本多千佳は、別れてから東京の出版社で上手くやっているのだろうか?
 急にいろんなことが頭の中で浮かんでは消え、訳が分からず自分が壊れそうだった。どうして良いのか分からなかったが、とにかくそれからは実家の彦根に向かってひたすら車を走らせた。動揺している自分を慰めるようにスピードを上げた。
 琵琶湖の最北端、奥琵琶湖を通り、漸く琵琶湖の東部へ廻りこんだ。もう、急いでも危篤の父には会えない、と私は開き直ったのか、或いは、先程の千佳の懐かしい声が忘れられないのか、私は余呉町に入ると、湖岸の道から反れて、内陸にある余呉湖を目指した。逆周りでたどり着いた鏡の中の余呉湖は何も変わらなかった。ここは千佳との出会いの場所・・・。天女伝説の残る場所・・・。
 取りあえず車を止めてホッと一息をつくと、後ろから親子連れが現れた。若い母親に連れられた可愛い小さな女の子が私の方に歩いて来た。五歳位だろうか?赤いセーターを着ていて、千佳のようにそのセーターの赤色が似合っていた。
 「なんか、困った顔してる。どうしたの?」
女の子が私に話し掛けてきた。
 「うん、ちょっといろいろあってね」
 「ねえ、おじさん、いや、お兄さんかな?寂しそう。いつも一人なの」
 「参ったな。そうおじさんは一人が好きなの。赤い服、イイね。似合ってるよ」
 「嘘だ。一人が好きって嘘だ。友達になってあげる」
 「はは、じゃあ、友達になってもらおうかな?」
 「でもね、私、明日この町を引っ越すの。私とお母さんはここが綺麗で好きだから最後に見に来たの。ごめんね。でも約束する。大人になったらここに戻ってくる。そうしたら一緒に遊ぼ。約束ね」
 「ひょっとして君・・・」
間違いなく千佳だった。顔の面影、鼻にかかった声。
 「君はきっと大きくなったら素敵な女性になってるよ。だから一緒に遊んでくれる他のいい男の人が見つかるよ。」
 「やだ。大きくなったら絶対おじさんにここで会うって決めたの、今。約束だからね。大きくなっても私って分かるように合図する。この赤いセーターをあの柳の木に引っ掛けるから。引っ掛けたら私だからね。分かった?」
 「わ、・・・わかったよ。でも友達として飽きたからって見捨てないでよ」
 「それは、お兄さん次第なの」
母親が近づいて来た。
 「千佳。何してるの?もう行くわよ。すいません、相手してもらって。じゃあ行くよ」
 「うん」
去っていく彼女、いや、女の子は振り向きざまに言った。
 「約束ね」
私は頷いて手を振った。もう一度大人の千佳と出会い直せたら、今が変わっているかも知れない。二人で幸せな日々を送っているかも知れない。でもそれは、また運命に抗うことになるのだろうか?
 私は再び車を走らせ、長浜市に入った。湖岸沿いには、豊臣秀吉のかつての居城、長浜城が本来はあるのだが、無常にも、そして私をあざ笑うかのようになかった。長浜城は私が小さい時に天守閣を再現して建てられたのだが、ないということは、それ以前までタイムスリップしたということか。どうやら、実家に近づけば近づくほど時間は巻き戻っているようだった。もう、どんな信じられない光景も受け入れられるようになった。そして出来ることなら人生をやり直したいと思った。
 やっと彦根城が見えた。逆周りで漸く滋賀の北東部の街、彦根市に辿り着いたのだ。しかし街の風景はまるで違っていた。通りを歩く女子高生たちは今とは違い、皆長いスカートだ。自動販売機に並ぶ缶ジュースは100円、煙草は180円の時代。レコード屋からは、今は亡きジョン・レノンの「イマジン」が聞こえてきた。作業服の販売や薬、喫茶店、駄菓子屋など様々な店が軒を連ねる地元の商店街は、ペンキで塗られた安っぽい看板が掛かっていたり、止まっている車が見たこともない古い型のものだったりと、まるで博物館にいるような気分であった。紛れもない、これは私の幼少の記憶に残るかつての街の風景だ。
 私の実家、酒屋の「亀吉」は同じ場所にはあったが、私が中学の時に建て替えられた以前の建物だった。店の入口に見える紺色の暖簾は古めいて、ほこりを被っていた。懐かしい以前の家だ。今の店に比べると古くて狭かったが、私は好きだった。この小さい店の二階に家族は寄り添うように暮らしていた。私は中学生以前の時代に来たことになる。西暦何年だろう?私は生まれているのか?疑問が一杯でとても家の中に入れなかった。入って両親になんと言えば私が将来の息子だと信じてくれようか。勝手に家に入れば、私をきっと泥棒だと思うだろう。仕方なく裏口にこっそり回った。裏の開いた窓から、若々しい父と母の姿が見えた。そして傍で昼寝をしている赤ん坊は、・・・私なのか!父はビールの瓶が詰まったケースを整理しながら、ここ何年も見た事がない笑顔で母と話していた。
 「こいつは、きっと大きくなったらこの店を継ぐ。俺が商売の厳しさと楽しさを教えてやんねん」
 「あなた、何を言っているんですか。商売の前にまず勉強ですよ、今の時代は」
 「でもな、考えてもみ。こいつ勉強して大学行きたいなんて言い出したら、きっとこの店を見捨てよるで」
 私には、この父と母の会話を聞くのが辛かった。どうやら私は生まれて一年か二年経った時代に来たらしい。父の言うとおり、およそ一五年後私は大学に入り、実家を見捨てて新聞記者になった。このことを正直に言ったら、父は悲しむのであろう。そして危篤になる寸前まで実家に帰りもしないで、自分のことばかりを考えていた身勝手な息子に成長するのだ。
 もうどうにでもなれ、と決心し私は店の中の両親に会った。
 「ふざけたこと言わんとって。人を馬鹿にして!」
 突然息子だと言う私に面食らった母は、私を怒鳴りつけた。
 「何を言ってんだよ!僕だよ、僕。昭和四十八年六月十九日が誕生日。そこの彦根市民病院で生まれた。体重は二八八〇グラム、母さんが僕に何回でも聞かせただろ?帝王切開で産むのに苦労したって。隣りのうどん屋の原さん宅には僕の同級生の辰哉君がいる。あと五年ほどで店を畳んで大阪に引っ越す筈だ、新しい大きな店開くためにね。この時代の頃だったらその新しい店のための準備資金を貯めてるころじゃないの?そんな話、聞いたことないのか?ああ、そうだ、僕の右腹には火傷の跡がある筈だ。これは、ストーブの上のヤカンを自分でこぼして京都の病院まで運ばれて治した。どう、合ってるでしょ?」
 私は必死に説明した。
 母は何を言っても信じなかったが、私の顔の面影が父に似ていたせいか、或いは私の話がすべて当たっているせいか完全に否定することができず、おろおろしていた。
 横で聞いている父親は、うろたえもせず、くだらないという顔をして、
 「もう、ええやろ。息子や言いよるんやから、息子でええやんけ。立ち話も何やから、まあ、上がれ。母さん、茶入れたって」と不思議なくらい冷静だった。
 「実はな、ゆうべ夢で巫女が出てきてな、もうじき、二十九年後の息子が訪ねてくるって言っとった。まさか、ホンマにそうなるとはな。」
 「父さんは僕を信じてくれるの?」
 「こんなことをするのは、本当の息子かよっぽど用意周到な詐欺師くらいや。でもな、うち騙しても金なんて全然ない。まあ、騙されたろ」
 「巫女って僕の会った人ときっと同じだ。やっぱりあの人が僕をここへ連れてきたんだ」
 父と母、赤ん坊の私と私は、居間でくつろぎ色んな話をした。私が将来、大学に受かって東京に行く事。新聞記者になる事。もう、隠しても仕様がないと思い、父が危篤になる事、自分が実家を見捨てる事、巫女に会った事など洗いざらい言った。父は悲しい顔をしたが、笑って
 「実家が嫌になったか。でもまあ、頭のええ奴になったんや、喜ばんとな。」と涙を流す母に言い聞かせた。
 「ほんで、何でここに来たんや?わしら夫婦をどぎまぎさせるだけか?目的あるやろ?」
 「親不幸な自分を謝りに来た。それと、もう一度家族でやり直せたらなって思って。でももう一人の自分が目の前にいる。まわりの時間だけが巻き戻っても、僕は30歳のまま、身も心も何も変わってない。結局、何も出来ないみたいだ」
 私は自分の無力さに思わず涙が出た。
 「わしらの事はどうでもいいんや。別に死に際に会えへんちゅうんは、そら悲しいのは事実やけどな。でもな、きっとわしは恨まへんて。それよりもや。お前は、新聞記者っちゅう素晴らしい仕事にホンマに満足しとるのか?わしは学がないでよう分からんけど、お前の書く記事でちゃんと人を幸せにしてんのか?どうや?」
 「僕は自分の名誉を勝ち取るために、たくさんの人に恨まれてる。でも、記者としての活躍は誰よりもしてるよ。スクープも一杯取った。父さんと母さんが誇りに思ってもらえるように必死で頑張った。これは本当だ」
 「お前はあほか!人を不幸にして手に入れるもんなんてな、水ものや。何がエリートの記者や。意味ないやんけ。わしはなあ、頭は悪いけどな、この商売で人々の心をしっかり掴んでる。祝いの時、葬式の時、人生の色んな節目に自転車で酒を届けて人と接し、人から学ぶ。でないと商売なんてできひんのや。形こそ違うけど、お前よりはよっぽど立派な仕事をしとる。人と向き合って、分かり合ってこそ、人生はなんぼのもんや。見かけだけ活躍して中身のないお前に、将来きっとわしは何にも言えんようになるんやろう。そら、いい給料もらって有名になったら、息子として見れんようになるからな。将来わしが弱くなった時、それでも中身のないお前の邪魔をせんとこうって思うのかも知れん。でもな、今のわしは、言える。お前の人生は安っぽい。別にな、死に際に会えへんかってもええのや。お前が、偽りのない自分で人々に接し、これだって思える人生を歩んでいたら。人を不幸にする奴はわしは認めんぞ。わしの死に際にお前がそんな人間やったらわし、悲しいやんけ。そっちの方がよっぽど親不孝や!」
 私は言葉を失った。父親に怒鳴られたのは、中学生以来ではなかろうか。そういえば、学校で優秀な成績を取る度、父は私に何も言わなくなっていったのを思い出した。
 父親の本音を初めて聞いたような気がした。この時代の父だけではなく、きっと、危篤の床に伏せる父も、その寸前までそんな風に思っていたのかも知れない。記者という目立つ仕事でなくとも私は、両親を満足させることが出来たのだと痛感した。
 「もう、ええから帰れ。ひょっとしたら最期の一瞬でも間に合うかも知れん。いいな、お前は自分の人生を大切にせえよ。ちゃんと人と向き合って、奥さんをもらって胸を張った生き方をしろ」
 「帰るってどうすりゃいいの。無茶だよ」
母は名残惜しそうに私の手をしっかり握っていた。
 「簡単や。ここは鏡の中の世界。裏から表へ出ればいい。うみはな、時間を司る神の力が宿るんや」
 「何でそんなこと知ってるんだ?父さんも実は偽者か?」
 「違う。わしはお前の父や。死ぬ間際までお前に嘘はつかん。巫女が夢の中でそう言うとった」
 「父さんは、この時代の父じゃないな。今の僕のことを全て知ってるだろう?そうだろう?じゃあ、ここは危篤の父が創った、想像の世界なのか!」
 「もうええやろ。どっちにしてもわしは、変わらないお前の父や」
 「父さん」
 「早よ行け。もうわしにも時間がない」
 「そんな・・・」
 「いや、もう少しいて欲しい」
 すがる母の手を静かに離し、私はうみへと向かった。幼少の頃から慣れ親しんだ近くの松原の湖岸だ。車を止めて、私はうみの中へ飛び込んだ。
 冬の琵琶湖は、体中に矢が突き刺さるように冷たかった。薄れる意識の中で父の声が聞こえた。
 「お前が息子で良かった。最期に会えて良かった」

 寒さに震え、気がついた。
 私は湖岸道路に車を路上に止め運転席で寝ていたようだ。琵琶湖は車の右手ではなく左手にあった。逆廻りをしていなかったのか?私は北廻りではなく、いつもどおり南廻りでここまで来たようだ。ここはどこか、と周りを見渡した。看板が 「彦根城まであと十五キロメートル」と表示していた。ここは彦根市の南端部、彦根市と能登川町の境あたりだ。急げばあと十分程度で実家に着く。最期の父に会うため車を飛ばした。日は暮れかけようとしていた。
 湖岸の道から彦根城の側道を通り実家に滑り込んだが、遅かった。涙を流しながら母は十五分前に息を引き取った事を教えてくれた。

 葬儀が終わった後で聞いた話だが、父は意識を失う間際、枕元で母に呟いたらしい。
 「あいつは、良い息子だった」と。
 あの時幻想で会った父は、死ぬ間際に私に言い残したことを告げようとしたのだろうか?それとも単なる私の夢なのか?分からない。勿論この事は、今まで誰にも話していない。母にもだ。話せば、すべて嘘になってしまいそうだからだ。
 私はあれから一ヶ月後会社を辞めた。幻想の中で聞いた父の言葉が気になったのも辞めた理由のひとつだが、それ以上に自分の可能性を試して見たかった。滋賀から引っ越し、今私は大阪でフリーのジャーナリストとして雑誌などの取材をしている。
 ひょっとしたら、まだ私は父を裏切り続けているのかも知れない。生活は昔のように安定しないが、それでも何とか暮らしている。今も独身だ。そういえば先日、東京の雑誌で本多千佳の書いた記事を見た。有名タレントのスキャンダルを千佳がスクープして話題になった。彼女も頑張っているらしい。

 久しぶりに見るうみは美しかった。
 私が立つ浜大津港は人影が疎らだ。今日私は、あの時と同じ大津市にある近江神宮で遅れた初詣を済ませた。うみはあの時のように気まぐれな光を私に浴びせる事はなかったが、巫女はあの時のように気軽に私に声を掛けた。
 「甘酒を配っていますから、どうぞ」
 もう初詣は済ませたのだから、すぐに大阪に戻ろうと思ったが、巫女の優しさに触れ、四年ぶりに真近でうみが見たいと思った。
 浜大津港から見るうみは美しい。
マザーレイク。このうみは、これからも幾多の時代を越えて人々の思いを受け止めていくのだろう。
 何度も繰り返すが、私は嘘はつかない、ジャーナリストの誇りにかけて。このうみは永遠である、そして、神の力が宿る荘厳なる鏡の世界である (了)


( 評 )
 追い込まれた心理状態の時、人はときとして現実が非現実として映り、正反対の行動をとりがちである。この作品はそうした心境を琵琶湖をモチーフに巧みに構築している。残念なのは滋賀の名所が頻出し、緊迫感を損ねていることである。

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