随筆・評論 市民文芸作品入選集
入 選

せんべい
中央町 近藤 正彦

  「気い付けて行きや。」母は、ほんのりと温かいそら豆を、ほどらいの袋に入れ乍ら言った。今日もケンチャンと二人で、松原へ水泳に行くのだが「帰りのバス賃を、おくれ」と母に頼んで僕はもらった。
 そら豆をポケットに喜び勇んで家を出た。
 「赤いーリンゴにくちびーる寄せてー」二人は、辺りも憚らずに歌い乍ら歩いて行く。
 本町の市役所の前まで来た時ケンチャンが、持って来たむしパンを半分くれたので、お返しとして、そら豆を十粒ほど渡すとケンチャンは、にやっと笑って受けとった。
 松原回転橋のたもとに雑貨屋が有り、エノケン(戦前の喜劇王)によく似た人のよさそうなおじさんが、店番をしている。いつもの様に通り過ぎてから僕は言った。「ケンチャンエノケンの家に引き返そう!」突然言ったものだから「何で?」と聞き返す。「あのなあ、あそこにせんべいが売ったるやろ、あれを買お」「ほんでも僕・・・帰りのバス賃しか持ってないし・・・」「僕もそや帰りは歩いたらよいがな、ほやけどバスで帰った事にしとかな、あかんで!」ケンチャンは僕の説得に、しぶしぶ付き合ってくれた。そして僕は叫んだ。「おっちゃん、そのせんべいちょうだい!」「あいよっ!一枚○○円や」「ほな十枚!」おっちゃんは「一枚おまけ」と言い乍ら、新聞紙にくるんでくれたが、これでバス代は消えた。
 二人はせんべいを、ぽりぽりとかじり乍ら回転橋を渡り、水泳場に着いた。
 松の根っこに、シャツとズボンを脱ぎ捨ててカラスふんどしで泳いだ。泳ぎ疲れると、しじみもとった。胸のあたりまで入った所で、トントンとジャンプをして、しじみに当たると足の指先でチョイと挟んで袋に入れる。それにも飽きると今度は通信ごっこをした。それぞれが石を持って水中にもぐり、拍子木の様にたたくと、コンコン、カチカチが、遠くに、そして近くに鳴りひびいた。
 やがて水中より、首をひょいと上げると、目の前に女の子が居るではないか。手にしているのは小石がふたつ。そうか優しく響いた石の音は彼女だったのか・・・僕は何故か、ほんわかとした気分になった。
  「それじゃケンチャン、そろそろ帰ろうか。」僕の誘いに、うなずいたもののケンチャンは、恨めしそうに、バス停を横目で見乍ら通り過ぎた。(ケンチャン、かんにんな)
 近江絹糸の前まで来たが歩きつづけ、城町のかき氷屋まで帰って来た。「氷」の旗に吸い寄せられて、店の前にたたずんだ。
 店内は若い女性で、超満員、うまそうに氷イチゴをつついて居る。疲れ切った僕等には、こんな場面は酷だった。おじさんのかけるイチゴやレモンを見乍ら、その都度「イチゴー」「レモンー」とやけ気味に、はやし立てた。何杯か作って薄く成った氷を外し、金槌でコンコンと割り、ひとかけを自分の口にポンと放り込んだ後おじさんは言った。「さあ、ぼん。これをやるからもう帰り!」氷のかけらで門前ばらい。僕は、ピョコンと頭を下げて手を出した。
 照り付ける太陽の下、二人は、も早や声もなく歩き続け、やっと市役所までたどり着いたが、リンゴの歌は、どこへやら。

 どこか後ろめたさを感じ乍ら裏口よりそっと帰り、 母に気付かれないのを幸いに二階へ上がった。

 その頃ケンチャンも「ただ今・・・」と言って帰ったものの心なしか元気がない。「ケンお帰り!バスはどうやった?」と聞かれるが早いかせんべいの一件を白状してしまったのだ。
 男と男の約束は、もろくも、くずれ去った。それを聞いたおばちゃんは、血相変えて飛んで来て、母を見るなり「ちょっとお春さん!ケンが言うには正ちゃんに、だまされて、せんべいを買わされてしもたとか!」その間の事情を一気にまくし立てた。
 一部始終を聞かされた母は、ただひたすらに謝った。言うだけ言うとおばちゃんは「まあ子どものした事や、あんまりおこらんといたってやー。」と言い乍ら、けろっとして帰って行った。

 「あーあ、せんべいさえ、買わなんだら、よかったのや・・・」とその時、誰かが階段を上がって来る、その気配で、母とすぐ分かった。部屋に入るなり「正ちゃん、歩いて帰って来たんやなあ・・・」と言ったその目は涙で潤んでいる。「人は、正直に生きなあかんで」と言うなり、くるっと向きを変え、力なく降りて行った。
 こきざみに震えるその背に向かい、「かあちゃん、ごめん・・・」と言おうとしたが、声にならなかった・・・。


( 評 )
 遠い日を懐かしみ、素朴に丁寧に書かれた作品で好感が持てる。会話も効いて描写が生き生きしており、夏の一日、二人の少年の姿と情景を彷彿させる。筆者の心に刻まれた、母の背中が訴える場面は印象に残る。

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