正月の賀の薄れる中で
もういくつねると お正月
お正月には 凧あげて
こまをまわして 遊びましょう
はやく来い来い お正月
この歌は、明治三十四年、東くめ作詞、滝廉太郎作曲による「お正月」である。爾来〔じらい〕、学校唱歌としてうたわれた。私もこの歌をよくうたった思い出がある。よくうたったということは、この歌詞が示すように、
お正月を心から待っていたということを物語る。私たちのこどもの頃はお正月は楽しかった。だから待ち遠しかった。昔は、今と異なり身の廻りにも娯楽はなく、今ほど生活にも豊かさはなかった。だから、真っさらな衣服、履物、遊具がお年玉として与えられ、年の内で最高の御馳走にあずかり、独楽〔こま〕まわし、羽根つき、歌留多、毬つき等に、家族、友人と興じたことがこの上もなく嬉しく楽しかった。
日頃は継ぎの当たった衣類を身につけているが、正月には上着から下着、下駄まで真新しいものが与えられた。つまり、正月から新しい出発が始まるのである。だから新年なのだ。旧い年は大晦日で終わる。そして元旦を迎える。時間的にはつながっていても、そこには、終りと始まりがあった。
年の暮れが近づくと、例えば、借りた物は総て清算しなければならなかった。お金も品物も、また借りるにしても、一応返さなければならなかった。「もう借りていた品物はなかったか」と物置を探していた母親の後姿が眼にうかぶ。昔は、一般は貧しかった。その貧しさを支えた思想が、「もやい」であり、「加勢」であった。家財道具も、貸し借りで使った。即ち、もやいで使った。また、相互に力を合わせて餅搗きなどの年越行事をした。つまり加勢である。
また、歳神を迎えるために家の大掃除をした。煤払い、障子の張替えを行った。門には門松が飾られた。これは歳神の「依り代」という。神供として「餅搗き」も大切な仕事であった。これらは家族挙げての仕事であり、家族挙げて、正月を迎えるために働いた。正月三日間は、松の内といって商店は休むならわしであった。だから年の暮れには、父母たちは多忙であった。お年玉としての家族の衣類、下駄、遊具などを購って、神供としてのお節料理の食材、三日間の食材を求め、料理を作った。年越しそばも打っていた。こうして多忙の中に年は暮れて行った。
明けて、新しい年を迎えるのである。そして、新しい年が出発するのだ。旧い年と新しい年はつながっていても、そこには、一つの区切りがあった。けじめといおうか、終りがあり、始まりがあった。節度があり、緊張があった。それが極りなく新鮮に思えた。
元旦、この朝は「初詣」といって、寺院(仏)神社(神)に詣でた。また、山に来迎を拝みに行った。帰ってから、屠蘇〔とそ〕で祝い、雑煮を食べた。雑煮は歳神にそなえた神供を炊いたものという。昼は、家族、来客とともに歌留多取り、凧上げ、独楽まわし、羽根つき、毬つきに興じた。思えば、楽しいだんらんであった。元旦からお金を遣うと「一年中浪費する」との俗信から、元旦はお金も遣わず、仕事も休んだ。
二日が仕事始めである。これら正月初めの行事の背景には、宗教的な思想の色が多分に濃かった。
こども達は、日頃食べたことのない美味しいご馳走を頂き、新しい衣服等を身につけ、新しい年の船出をする。それで前出の歌のように、お正月を心待ちにしたのである。そこには、新鮮な大きな感動があった。
さて、今日のお正月はどうだろうか。
そこには大きな変化がみられる。それは社会が大きく変貌したことに拠る。昔は、日の出とともに起き、働き、日没とともに仕事を止めた。夜は体を休め、静かな眠りの中に翌日の精気を養うものと考えられていた。しかし、今日は大きく変わった。終夜営業のコンビニ、書店等も出現し、生活形態も変化して来た。年末年始無休で営業するデパート、スーパー等の出現。餅やお節等年末年始の品もそれらの店で求められるようになった。家庭での仕事は限りなく少なくなってきた。
お年玉として家族に与えられていた衣類、履物等も大売出しの連続で、いつも安い時に買い与えられ、新年に改めてということもなくなった。
また、正月を旅先で迎えようと、国内外に出かける人々も少なくない。こんな状況を反映してか、今日は正月を迎える意味はほとんどなく、宗教的意味も薄れ、緊張感も新鮮味もお正月を迎える感動も少なくなって来た。私たちは、そこに何か大きなものを失いつつあるように思えてならない。
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