随筆・評論 市民文芸作品入選集
特 選

近江のアマルコルド
高宮町 木村 泰崇

 私の大好きな映画のひとつにフェデリコ・フェリーニ監督の『アマルコルド』という作品がある。イタリアのある小さな村で生きるさまざまな人々の日々の暮らしぶりを少年の目を通して描いた作品であるが、この映画を私がはじめて見たのは二十代前半だったと記憶しているが、その際私は実に心地よい雰囲気に終始包まれていて、そしてラストシーンでは泣けて泣けて仕方なかった。登場人物は、村の警察官、郵便配達夫、散髪屋、農夫、子ども達、主婦、芸人、軍人・・・・・・等、すべての人達がまったく無名の平凡きわまりない、世界中のどこの村にも似たような感じの人が必ずいるんじゃないかと思ってしまうような村人ばかりである。いろいろな人がそれぞれの自分の人生を自分が生まれ育った村で精一杯に生きる。自分自身が、また自分の家族が幸せになるため、より素敵になるために、がんばる、汗を流す。その市井に生きる村人たちの日常生活、春夏秋冬の中に、涙があり、笑いがあり、ドラマがある。映画のラストシーンは、その村人達がみんな集まっての結婚式。一組の新しい夫婦の誕生を村人達がにこやかに祝福する。まだ実社会の苦労の苦の字も知らない大学生だった私は、スクリーンの中の集まった村人達の笑顔を見ていて、どういうわけか涙が流れて仕方なかった。
 その涙の種類は、二十年余り生きてきてはじめてのものだった。平凡な人が平凡にふるさとで暮らしていて、平凡な結婚式の中で見せる平凡な笑顔――ただそれだけのものが、美しくて美しくてたまらない。無名の村人達の笑顔が、たとえばオードリー・ヘップバーンの笑顔よりもたとえばダイヤモンドの輝きよりもたとえば地中海の海の青さよりも美しく思え、そんな美しさをスクリーンに見て、美しい故に私は泣いたのだった。私は、この時、美しいものを見ても人間は泣けるんだということを知った。
 その私の涙は、少し考えてみると、とても皮肉なものであった。私はその頃、田舎の、日本の所謂〈村〉社会が、つまりはふるさと・近江の世間が嫌になって、近江の地を離れ東京に出て来ていたのだった。大都会の自由な暮らし、世間のない個人主義の暮らしにあこがれて東京で一人暮らしをしていたのだ。髪の毛をロックミュージシャンのように長く伸ばすこともサングラスをかけて村を歩くことも赤い服を着ることも近江の世間の中でははばかられた。子は親の職業や家や田畑を代々継いでいくことが当たり前のように考えられ、親や祖父母とひとつ屋根の下で同居していかなくては親不孝のように思われ、隣組や地蔵盆や川ざらえやPTAや字の運動会や法事や祭りがはびこっていた近江の世間。あの息苦しい村にはもう二度と帰りたくない、私は、私の近江の家の、右隣りの魚屋さんや左隣の薬屋さんや前の八百屋さんのおやじさんやおかみさんの「やっちゃん」と私を呼んでくる声の聞こえてこないところで伸び伸びと生きていきたいのだと、そんなふうに思っていて、そんな私が東京の池袋の映画館で、フェリーニが描いた〈村〉の人々の笑顔に涙を流した。言うまでもなく私は、イタリアの小さな村に生きる人々の笑顔に、ふるさと・近江の人たちの笑顔をダブらせていたのだった。「やっちゃん、なんで親といっしょに住まへんの?ここに住むんがなんでほんなにかなんの?」と古い道徳を振りかざしかしましく言ってくる嫌なはずのふるさとの世間の顔が浮かんできていたのだ。・・・・・・
 そんな『アマルコルド』を見てから、もう二十五年の歳月が流れ、私はふるさとにUターンして来て、あの頃大嫌いだったはずの近江の世間の中で今妻子とともに暮らしているが、近江は変わった、とつくづく思う。近江湖東に位置する私の村も変わった。二十五年の日々は近江をまるでリトルトーキョーのごとく都市化し、私の村から若かった私が嫌だった世間が消え去ってしまった観すらある。
 大型のスーパーマーケットが各地にでき、コンビニエンスストアは数百メートルおきにでき、お洒落なレストランや美容室がたくさんでき、茶髪、金髪の若者たちがケータイ片手に色とりどりのファッションで近江の村の中を風をきって歩く。核家族の家庭が増え、老人世帯は多くなり、フリーターや離婚経験者や三十代四十代の独身者といった二十五年前なら近江の世間から後ろ指を指されかねなかった人たちも増加し、古い価値観から非難されることなく自由に生きることがしやすい個人主義の近江となっている。
 そうなのだ、これは歓迎すべき事態なのだ。若かった頃の私が切望していた事態のはずである。なのに、にもかかわらず、心のどこかで「さびしい・・・・・・」と呟いている自分がいるのだ。これは、私が東京の映画館で涙を流した近江ではない。あの村のおじいちゃん、おばあちゃんの美しい笑顔じゃないと、あの美しい『アマルコルド』のような村じゃないと。


( 評 )
 自分の体験から出された問題提起に説得力がある。故郷での人間関係に対して、若き日の反発と現在の感懐が、交錯して語られる。最終段にもっていくまでの展開が整理されており、筆者のメッセージが直截に伝わってくる作品である。

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