我が街の厠
平成十三年秋、彦根駅前、交番前の歩道の街路樹のそばに、『厠』と書いた看板を見つけた。いつも通っていながら木の陰に立てられていて長い間気が付かなかった。
私は、最初に『厠』という字を見つけたとき、これは如何にも城下町彦根にふさわしい、上品な看板だと感じた。
はたして『厠』の名称の名付け親は誰か、と思い、市役所の建築課で尋ねてみた。しかし、かくたる答えは帰ってこない。設計者を捜し、そこで、当時の本町の「町づくり委員会」の方なら知っている筈といわれた。元委員を尋ねたところ、委員会で色々な名称の中から『厠』が相応しいということで、採用したと知らされた。
平成七年に、夢京橋に完成し、その後交番横、駅前と着工された。新しく生まれ変わった城下町彦根の、観光名所ともいうべき夢京橋キャッスルロードに、まことに相応しい名称と建物であり、びわこ銀行の「両替商」と共に残しておきたい日本語の一つであると私は思う。
夢京橋の厠の特徴は、中に小さな庭が有り、上部の窓が大きく、いわば自然の風を利用した換気となっている。表に、暖簾の掛けられている公衆便所など他には見られない。
私が注文をつけるなら、「暖簾」「中庭」とあれば、ここに「手水鉢〔ちょうず〕」が配置されていたらもっと「厠」らしくなったのではないか、と思う。また、管理の面で有料にしてもいいのではないか、とも思う。何れにしても、観光客が、きれいに利用して欲しいものだ。
旧寺院などには、有名な「厠」が存在する。だが、城下町彦根の「厠」が名物ともなれば、私はうれしいが。
最近になって、駅前の厠の看板に大きく「LAVATORY」と書いた文字が張り付けられた。私は、折角古来の、厠、と名付けながら横には(お手洗い)、下には(LAVATORY)とゴチャゴチャした看板になり、残念な気もするが、観光彦根には外人客も多く、こうするより仕方がないのかも知れない。
当初は、商店街の人たちが、観光客たちに「トイレはどこにありますか?」と尋ねられ、場所を教えてやっても、素通りしてしまう人もあるという。まだまだ、一般には「厠」は馴染めないのかも知れない。かといって、あまり便所、トイレなど注釈をつけると、折角のイメージが壊れてしまう。
「史記・項羽紀」によると、「沛公起如廁」とある。訳は、沛公〔はいこう〕(=劉邦)は立ち上がって厠に行った。という意味。項羽と劉邦の「鴻門の会」に「厠」が登場する。
古代中国では、漢の時代から使われていたことになる。(注、廁が本字、厠は俗字)
我国で、厠、が初めて文献に登場したのは 「古事記」(七一二)である。
厠(川屋)とは、
(1) 川の上に突き出して設けた小屋のことで、いわば自然を利用した水洗便所のようなもの。(2) 便所は元来、母屋の中に置くものではなく、必ず離家又は家屋の外に造る。即ち、側家の義からでたもの。
中国の現代語では、厠所(ツォースォー)といい、男子トイレは、男厠(ナンツォー)女子は、女厠(ニュイツォー)公衆トイレは、公厠(ゴンツォー)と言う。
禅宗寺院では、東のほうに位置するのが東司、西に有るのが西浄、南が登司、北に有るのが雪隠、と名付ける。雪隠が訛って、せっちん・せんち、と呼ぶようになった。
閑所・はばかり・ご不浄・WC・トイレなど、その他様々な呼び名があるが、私はとりわけこの 『厠』 の字が好きだ。便所、WC、というと何れも公衆の利用する不潔なイメージが頭に浮かぶ。だが、私の思う厠は、料亭や、旧家でみた印象が頭に残っている。打水された庭を眺め、廊下を渡ると、そこには古い切石の手水鉢があり、その上には小さな柄杓が横たえられ、傍には、洗濯したての手拭いが吊るされていて風になびいている。その先に小さく『厠』と書かれた額が上がっている。尤も、今は水洗になっており、利用する人の心がけ次第で、また、新しい「厠」のイメージが生まれるのかも知れない。
一口に『厠』といっても、彦根に有る公衆トイレも厠なら、
東福寺の東司(京都市)
日光東照宮の西浄(日光市)
酬恩庵「通称一休寺」の東司(京田辺市)
等は、もと国宝で現在、国の重要文化財に指定されている厠である。東福寺の東司は、室町時代前期の現存する最古の便所建築とされている。一休寺の厠は、一般の人にも開放されているとのこと、私も一度は国宝の厠で用を足したいものだ。
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