床屋の源さん
早いもので、私の父源太郎が逝ったあの日から、三十年が過ぎてしまった。
生まれは芹橋三丁目、生まれながらにして身体が弱く十五歳の時、近所の医者に、
「あんたは二十歳まで持たんで!」と言われた。
さあそれを聞いた源太郎、
「何がなんでも生きたるわい!」とうだうだ言いながらも生き延びて、気が付いたら七十五年の人生だった。
長男の源太郎が、九歳の時、表具屋だった父 (捨吉) が亡くなった。
「お松っあんの亭主が、子ども六人もおいて逝ってしまわったそうな……」
竹さんや梅さん達の井戸端会議で、ものの一週間もしない間に組中に知れ渡ってしまった。そんな噂を、どこで嗅ぎつけて来たのか、さる大店〔おおだな〕の旦那がやって来て、
「お松さんさえ、よかったら、子どもらも私が皆んな面倒も見るし、上の学校もやらすさかい」と甘い話を持ちかけて来たり、中には、
「いっぺん京都の本願寺さんへ、お参りに行きましょうな」
とあの手、この手で誘いに来たが、お松は頑として、その手の口説きには乗らなかった。
三十半ばで、親子七人が路頭に迷ってしまったが、泣いてもいられなかった。
末っ子のふ美〔み〕に至っては、生後わずか五ヶ月足らず。四男のきよぞうはその時二歳そこそこで、遠縁の和歌山へ、貰われて行った。
一年ぶりに、養母と一緒に訪れたきよぞうは、母松枝に向かい、
「わて、おばちゃんのおなかから生まれたんやなあ…」
ぽつんと呟いた。まさかこの子の口から…松枝は返す言葉がなかった。
西日もだいぶ傾いてきたので養母は言った。
「ほな、お母さん、日の暮れんまに……」
と帰りかけたが、お松はきよぞうの頭を愛おしそうに、撫でながら話かけた。
「今夜は泊まって行き、ほんで、きよちゃんは、おばちゃんとねんねしよ…」
せんべい布団にくるまって、久しぶりに、生みの母に抱かれて眠ったきよぞうは、どんな夢を見たのやら…。
あくる朝、養母に手を引かれて帰って行くわが子を見送りながら、松枝はひとこと、
「お母ちゃんの言わる事をよう聞いて、りこもん (良い子) にしていや…」
優しく声を掛けられたきよぞうは、松枝の顔をじーっと見上げ、やがて、こっくりと頷ずいた。
この日を境に、親子が再び逢う事はなく、後年、母松枝の葬儀にも、ついぞその姿を見せる事はなかった。
松枝は、五丁目で足軽の長女として生まれたが、明治維新により、世の中は大きく変わり、縁あって、表具屋の女房に納まって、親子八人が何とか暮らしていたけれど、事情が一変してしまった今となっては、なりふり構っていられなくなり、かねてから顔見知りの川原町は〇〇屋で、身を粉にして働き続け、何がしかのお情けを、頂戴していた。
家には畚〔ふご〕(わらで編んだ丸い入れ物)にこっぽりと入れられたふ美が置いてあり、仕事の合間を見ては、家に飛んで帰るが、たれ流しのふ美が、不憫でならなかった。
家の事情とは言え、次の弟(辰次郎)は、京町の左官屋へ、その次(捨三)はお寺の小僧と言うように、兄弟は、ばらばらになってしまう。
明治四十年頃は、義務教育が小学四年と決められていたが、父の死によって源太郎は春を待たずに、やめさせられてしまった。
とりあえず源太郎もどこぞへと言う事になり、土橋にあった、当時彦根では数少ない洋服の仕立業、百百〔どど〕洋服店に拾われた。
たかが小学四年生、見習いと言うよりも、子守りとして毎日を過ごしていたが、どうも間に合わんのと、夜になると、ちょこちょこ漏らす事もあり、わずか半月そこそこで、お払い箱になってしまう。
困り果てたお松は、
「どこでも良いさかい、どこぞ源を雇てくれやるとこはないやろか」
と、途方に暮れていたところ、親切な人(お竹さん)もいるもんで、
「お松っあん、上川原町の力石さんにでもどうや」
と言う事になり、とんとん拍子に話が進んだ。
松枝にとっても夫の元気なあの頃は、力石さんとは、釣り仲間と言う事もあり、
「捨ちゃん一寸行こうか」
と誘いに来ては、仕事の合間に、芹川で、二人が並んで糸を流した間柄、同業者のよしみもあって、
「源も今度こそは何とかなるやろ…」
ところが読みが甘かった。
一ヶ月もしただろうか、竹さんが、やって来た。
何とも申し訳なさそうな顔を見た瞬間、松枝はすべてを悟った。
「お松っあん…悪いけど…向こうさんが引き取ってほしいと言うてやるさかい…」
と言うが早いか、ばつが悪そうに、そそくさと帰りかけた。
「お竹さん、一寸待ってえな。何かと世話になってすんまんへん、やっぱりなあ…」
お松は、がっくりと肩を落とした。
あちらこちらと、奉公に行ったものの長続きがせず、大人なら悶々とした日を過ごすところだが、言うてもそこは子どもの事、当の本人は案外けろっとしていた。
そんなある日、竹さんが、懲りもせずにやってきて、
「お松っあん、大阪やけど、床屋さんはどうや?」と切り出した。
話を聞くが早いか、お松は言った。
「お竹さん、別に床屋に不足はないけんど何も床屋さんやったら、彦根にようけあるがな」
「お松っあん、同じ職人になるんやったら、大阪でないとあかん!」
「ほやけどなあ、半年も経たんと言うのに、三度もお払い箱になってるんやで、ほれに彦根町内やったら、万一の時『せっかくやけど間に合わんわ』『さよか…』で帰って来たらよいけんど、大阪くんだりまで行って、そんな簡単な訳には行かへんがな」
「お松っあん、行く前から、親のあんたが、ほんな泣き事言うててどうするんやいな。まあ、ここはひとつ、わて(私)にまかしとき」
言い出したら、頑として、後には引かないお竹のこと、その親切のおし売りに、お松は寄り切られてしまった。
又松枝にとっても、源太郎をいつまでも、家でぶらぶらとさしておく訳にも行かなかった。
「源ちゃんほな行こうか!」
出発の朝、竹が迎えに来た。
「お松っあん、心配せんでもよいて、わてが何とかする」
と言われても心配せずには、いられない。
松枝は、せめて駅まで送って行きたかったが、雇われの身、玄関先で、別れとなった。
「源、向こうへ行ったら大将や奥さんの言わる事を、よう聞くやんで…」
「うん」
風呂敷包み一つを持って源太郎は家を出た。
いつやらの正月に、父といっしょに電車に揺られ、お多賀さんには行ったけど、汽車に乗るのは、今日が初めて。旅行にでも行くような気分で、ステンション(彦根駅)を後にした。
ガッタンゴットンと汽車に乗る事、三時間あまり、チンチン電車に乗り換えて、やっと大阪は、主人の家に辿り着いた。
「ぼん、よう来たなあ」
主人と奥さんが温かく迎え入れてくれた。
うまい事には、奉公先には、子どもがいなくて、これが幸いわが子のように可愛がられたが、所詮は、丁稚奉公の身。蝶よ花よとまでは行かないまでも、兄弟六人が食うや食わずのわが家と違い、毎日が盆か正月のようなもの。望郷の念もどこかへ飛んでしまった。
つい先日までは芹川で、魚掴みや蝉取りをしていた、ぽっと出の田舎のぼんには、大都会の大阪は、見る物、聞くものが初めての事ばかり、どのように映ったであろうか。
源太郎の世話になった所は、大阪のとある築港で、店の近くには川が見えた。
「床屋さんに、かわいらしいぼんさん(男の子)が来やったで!」
源太郎の身の上が、すぐに、隣り近所に知れ渡った。
「かわいそうに、小学四年でやめさせられて、彦根から来たのやて」
近所のおばさん達の同情を買い、やれ饅頭だ、あめ玉だと、源太郎に差し入れを持って来てくれた。
「こんな嬉しい事はないが…」
源太郎は一人、あめ玉をしゃぶりながら、ふと、辰次郎や、ふ美の顔が目に浮かんだ。
家には風呂もあるのだが、大将は源太郎を連れ出して、ちょいちょい近くの銭湯に、わざと行く。
それには、ちょいと訳があった。
川風に、吹かれ乍らの行き先は、いつも馴染みの屋台と決まっていた。
「さあ源、何でも食べいや、じゃがいもか、とうふもあるで、こんにゃくはどうや?」
風呂上がりの一杯で、酒のまわりも意外に早く、主人は頗る機嫌がよい。
屋台で、おでんを食べるのは、生まれて初めて、大きな鍋の中で、くつくつと、煮える具の多い事、源太郎は思わず目を見張った。
わが家では、一つの物でも取り合いで、一寸油断をしていると、手の早い弟に横取りされる始末なのに、それが今はこの変わり様、居ごこちが悪かろうはずがない。源なりに、「でっちの身分で、こんな贅沢をさしてもろうて、よいのかなあ」と思った。
主人も源太郎を屋台に連れ出した頃は、さすがに、端の客に気兼ねをして、おでんだけを食べさしていたが、ものの二、三年もすると、
「源、お前も一杯やるか!」と酒を勧めた。源太郎は、日頃から大将が、あまりにも、うまそうに酒を呑んで居るのを見ていただけに、
「待ってました!」とばかりに、杯を口に、一口呑んでは見たものの、想像以上のからさに一瞬戸惑ったが、
「うまいもんやなあ」
と酒の味を覚えるまでに、そう幾日も掛からなかった。
屋台で、おでんを食べながらの茶碗酒。
仕事は半人前ながら、酒は一角一人前。十四歳でも五歳でも、一旦社会に出たならば、そんな事にはお構いなし、何とも気楽な時代だった。
源太郎も初めの内は、主人に連れ出されて行っていたが、仕事もそこそこ出来るようになると、源の方から、
「大将、一寸どうです」
と誘い出す始末。大将とて、嫁さんの手前、
「源に誘われた」
と言う言い訳が出来て、出やすくなった。
「今頃、源はどうしているやろうなあ…」
月日の経つのは早いもので、母松枝の心配をよそに、一応仕事は覚えもしたし、人並みに酒とタバコも嗜んで、十年ぶりに生まれ故郷は彦根へと意気揚々?と帰って来た。
「お母はん、ただ今!」
「源、お帰り、よう辛抱してくれたなあ…」
後は言葉にならなかった。
その姿は、三揃〔みつぞろい〕に中折帽、十年前の風呂敷は、ボストンバックに化けていた。
あの源が目の前に立っている。松枝は、まじまじと見つめた。
十年ぶりに、わが家でくつろぐ源太郎、一家団らんとはこう言う事か、募る話に夜は、更けて行った。
あの日畚〔ふご〕の中で泣いていたふ美も今では小学校の五年生。
妹の八重〔やえ〕は紡績会社で働いている。
さて、左官屋へ行った辰次郎だが、どうしても性に合わんと言う事で、その後、米原の機関区に入り助役を最後に定年と成ったが、昭和天皇の関西巡幸の時には、機関士として乗務をしていた。
最後に、寺の小僧にやられた捨三だが、母恋しさに泣きの涙、一週間そこそこで、ぼんさんに手を引かれて家に帰って来た。
「お竹さん、捨とゆうたら四、五日で帰って来たわ、これがほんまの三日坊主や」
と松枝はぼやいた。
その後何年かして東京へ行ったが、運悪く関東大震災(大正十二年九月一日)の憂き目に合い、命からがら彦根に帰り、市立病院に勤めて、生涯を終えた。
あくる朝、いの一番に駆け付けたのが、お竹さんの家だった。
「おばちゃん、お早ようございます!」
七、三に分けたその頭からポマードの香りがプーンと漂った。
「その節には、色いろとお世話になりましてありがとうございました」
「源ちゃん、お帰り、ほんまに久しぶりやなあ…。ふん、あんたも、いっちょう前の挨拶をするようになって、笑わさんといてや」
「おばちゃんも、お元気そうで」
「笑わしたらあかん、言うてるのに…」
ついこの間、おむつを替えてやったあの源ちゃんが…お竹は何とか笑顔を作って、ごまかそうとするのだが、すればする程こわばって、泣き笑いのその顔は、ついにくしゃくしゃになってしまった。
おばちゃんの涙を見たのは、生まれて初めて、源太郎は言葉に詰まった。
「おばちゃん一寸用事もありますさかいに」
「ほうか源ちゃん、ほな又来てや」と言いながら一寸てれくさそうに、竹は源太郎を送り出した。
源太郎は近所の挨拶もそこそこに、とりあえず口入屋(職業斡旋所)に駆けつけた。
そこで紹介されたのが、一番町(中央町)の床屋で、その名は「幸床〔こうどこ〕」。
女主人の幸〔こう〕さんは、以前は所帯を持っていたが、旦那と言うのが遊び人で、結局折り合いが悪く別れてしまった。
今となっては独り身で、女主人として店を張っていた。
幸さんは、源太郎より十歳あまり年増で、そこへ源太郎が、来たもんだから、もっぱら世間では、
「うまい事、若いのを引っぱり込んだ」と噂をしたが、主人と職人というだけで、こと源太郎に関しては、根っからの石部金吉、そんな事もなかったようだ。
ところがある日、事情で幸床が店をたたむ事になり、ついている時はこんなもんで、ちょうど向かいに、大平〔おおひら〕さんの借家があり、大正十年、なんとか開店に漕ぎつけた。
相変わらず身体の弱い源太郎は、いつしか長久寺の不動明王を信仰するようになった。
信仰のついでと言うと語弊があるが、ある人の紹介で、大峰山詣での会「湖水講」に入会して、毎年五月にお参りをしていた。
行者参りのご利益か、縁あって大橋町よりやっとこ、嫁さんを迎える事が出来た。
その名は「お春〔はる〕」。背は高からず低からず…丸ぽちゃで、二重まぶたのその笑顔、源太郎には、すぎた女房だった。
昨日までは、芹川の家より弁当片手に通っていたが、今日からは、狭いながらも楽しいわが家、洟垂れ小僧のあの日から、二十余年が経っていた。
どちらかと言えば源太郎は、一寸おっとりしていたので、お春にとっては、はがゆい思いをして来たが、その代わり浮気ひとつせず(もっともそんな、甲斐性もなかったが)ただひたすらお春一筋であった。
やがて昭和も何年か過ぎて、長女の和子が生まれた。ちょうど大平さんにも、同い歳の男の子が居て、風呂にも入れてくれるし、何かに付けて、面倒を見てもらった。
「大将、ご無沙汰をしていまして」源太郎は一寸はにかみながら挨拶をした。
娘の和子が二歳の時、大将の家を辞めてから、何年ぶりかで、訪れた。
あの日、風呂敷包み一つを持って、竹さんに連れられて来た間に合わずのあかんたれが今こうして、かわいい娘を連れて、わしの家を訪ねてくれた…大将は感慨もひとしおだった。
奥さんも思わず和子を抱きしめたが、当の本人は、キョトンとしていた。
「かわいらしいお嬢ちゃんやなあ。この子はあんたの子?」
「はい私の子です!」
冗談のきかない源太郎は本気で答えた。
募る話で、気が付くと、日もとっぷりと暮れていた。
「今夜は泊まって行き」と言う事になったが、さあ、ここで、はたと困った。
昼間は何とか気がまぎれていたが、ここに来て母恋し、
「オウチニ、カエル…」和子がぐずり出した。
「奥さん、和子を連れて帰って、又出直しますわ」
「そんな、源ちゃん。和ちゃんも、その内に泣きやまるほん」と言い乍らも困った様子。
「オカアチャン、オカアチャン…」と泣きじゃくっていたけれど、何とかたらしている内にやがて、泣き疲れたのか、スヤスヤと寝入ってしまった。
そんな折同じ町内の四つ角に、空き家があり、昭和十年の秋、母(春)のお腹の中とは言うものの私は、引っ越して来た。
昭和十一年五月の早朝、春が急に産気づき、その時、世話になったのが、警察前の林産婦人科、急を聞いて、産婆があたふたと駆け付けた。
やがて悪戦苦闘の末、母は私を産んでくれた。その時、産婆が私の股間を見るなり思わず叫んだ。
「お春さん!ぼんやぼんや、付けて来やったで!」上二人が姉(和子、節子)の後に、私がこの世に出て来た。
昭和十二年二月、彦根町より彦根市になった。祝賀行事が盛大に行われ、当時の彦根信用組合(俳遊館)の前で、揃いのハッピに白ぬりの源太郎が、記念写真におさまっている。
源太郎は、盆踊りの時期になると、何となくそわそわして来るのだった。
「お春、ほな行ってくるで」浴衣の上に、兵児帯と、いつものいで立ちで決まっている。
「あんた、今日は、どこへ行くのや!」
「今日は松原や」
それにしても、よくぞまあ、その日の会場が分かっているものだと、お春は思ったが、そこはほれ、蛇の道はへびとやらで、踊りばか同士が、お互い情報を知らせあっているらしい。
「まあどこへなと、行って来ておくれやす」
行くなと言うても、一旦決めたら後には引かない源太郎、けっこう強情なところがあった。
「ふん、下手の横好きもよいとこや!」
戸が閉まるか、閉まらない内に、お春は聞こえよがしに言った。
「ああーどっこいしょー」
「そら、しっかりせー」音頭の声が風に乗って、かすかに聞こえて来た。
源太郎も、新しい場所で、営業をする頃には、見習や職人を置くようになった。
ある日八坂より一人の青年がやって来た。その名は茂〔しげ〕やん。すでによそで三、四年の修業をつんだ、いわゆる中習い。歳は十七、八になっていたが、これがなかなかの、したたか者だった。
ある日、ねずみ取りに掛かったねずみをご丁寧にも部屋に置き、それに向かって空気銃をぶっぱなした。一発目は急所を外れ、二発目は手元が狂い襖に命中!三発目で、とどめをさされたねずみは、こと切れた。
お春にさんざん大目玉を食らったのは、言うまでもない。
ねずみ事件のほとぼりも冷めた数日後、茂やんは言った。
「正ぼん、甘いお茶を呑みに行こ。お春さんぼんを一寸、守りして来ます」
三歳そこそこの私をだしにして、茂やんはよく外に出た。行く先は、いつものカフェー(喫茶店)と決まっていた。
そこで茂やんは、どんな話をしていたのだろうか?
甘ずっぱい香りのするふくよかなお姉さんの膝のぬくもりが、私は忘れられない。
ある日、郵便の配達員が差し出した一通のはがき、それは赤がみ(召集令状)だった。親元に帰っていた茂やんに、とうとう赤紙が来た。
いよいよ出征のその朝は、村中総出で、あの茂やんを送り出した。
「勝って来るぞと勇ましく、誓って国を出たからは、手柄立てずに死なりょうか」
歓呼の声に送られて、やがて、八坂は木和田神社の前までやって来た。その鳥居の前で村長の号令の下、
「森、茂君、ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい」万歳三唱が鎮守の森にこだました。
「お母はん、ほな行って来るは…身体、大事にしてな…」
「茂、お前も、身体に気い付けてな…」
人前では、涙を見せた事のない茂の目に、うっすらと涙が、滲んだ。
お互いが言い交わした、この一言が、この世の別れになろうとは…。
茂は、何回も、何回も後ろをふり向き乍ら寂しく手を振った。
母親も手を振り乍ら茫然と立ちつくした。やがて犬上川橋の向こうに、茂は消えて行った。
「正〔まさ〕ぼん、茂やんのバンドをしっかりと持っていや」
「うん」
乗せてもらった自転車で、夕やみせまる通り町、行ったり来たり又行った…。
とかく話題の多い茂やんだったが、いざいなくなると、何となく淋しい日が続いた。私も、その日以来、甘いお茶とは縁が切れた。
そんなある日、源太郎にとっては、初めての女の子が見習いとして店に来た。その子は米原は顔戸〔ごうど〕の生まれで、名を八重〔やえ〕と言った。
八重ちゃんは竹久夢二の絵に出て来そうなどこか一寸淋しげな感じの娘だった。
私には姉が二人居るので女の人は、さほど珍しい事ではないのだが、八重ちゃんは、どこか違った。
彼女は、一人っ子の為、私を弟のように可愛がり、
「正〔まさ〕ぼん、正ぼん」と言ってよく抱いてもらったが、抱かれていると、プーンと何とも言えぬ、ほのかな香りが、漂った。それは母の香りでもなく、姉とも又違った。
ある日、八重ちゃんに一通の手紙が舞い込んだが、裏は白紙だった。受け取ったお春は「ははーん」と思った。これは男に違いないと。その日をきっかけに、ひんぱんに手紙が来るようになり、年頃の娘さんを預かる身、それとなく聞いたところ、
「以前からの付き合い」と言う。
ところが、その日を境に、ピタッと手紙が来なくなり、お春は、やれやれと、ほくそ笑んだが、これがとんだ間違いだった。
敵もさるもの、今度は、お向いの名前を借りた。藤居寝具店様方八重様と言う事にして、やりとりをしたものの、それもお春の知るところとなり長くは続かなかった。
そんな折八重ちゃんは失恋の憂き目に遭い、米原の実家へひとまず帰った。
ところがある日、米原より電話がかかって来た。
「八重が薬を呑んで、えらい事をしでかしました!」
父親の悲痛な叫び声で、春は私を連れて長浜は日赤へと駆け付けた。
玄関横の受付で待っている時、そこに見たものは…
自分一人では歩く事が出来ず、母親にもたれかかるようにして支えられ、裾もあらわな八重ちゃんが立っていた。
あの大好きな八重ちゃんが…私はくやしくてくやしくてならなかった。
その後、八重ちゃんは、源太郎の元には、とうとう帰ってはこなかった。
「あんた、もう、女の子はおかんときや!」
お春は、すこぶる機嫌が悪い。
「ほやなあ…」源太郎は力なく呟いた。
さて、源太郎の母松枝は、相変わらず家にはじっとしていなかった。
その昔、世話になった家々を回って、よく働くので何かと重宝にされた。
「川原町の〇〇さんの家で、ええもんをもろて来たので、お父ちゃんと、マルビシ(百貨店)に行って食べてき」と言って今しがたもらって来たお菓子を源太郎に渡した。
店も休みの事だし源太郎は、
「ほな正ぼん行こか」と言った。私はその時、「何もマルビシまで行って食べなくてもここで食べてから行ったらよいのに」と思ったが、父の後について行った。
昭和八年十月一日、川原町に、県内では初めての百貨店(現在の生活館)が出来た。私はその時、この世には、気〔け〕もなかったので知る筈はないが、盛大な開店祝いが行なわれたそうな。
マルビシの入口の向かって右側には、直接、食堂まで通じるまっすぐの階段があり、息を切り乍ら上がった。
三階が食堂で、その前を通ると、カレーライスや親子どんぶりのうまそうな香りが、プーンと漂っている。
食堂の上は、こぢんまりとした屋上で、ブランコとシーソーが二基ずつ置いてあり、隅の方にはお稲荷さんが祭ってある。
その一寸横には、さらにもう一つ、人が五人も立てば一ぱいの展望台があり、セメントで囲われていて、大人の胸ぐらいの高さがある。父は、
「よいしょ!」と私を抱き上げてくれた。
「あのなあ正ぼん、東の方にある山が、佐和山やで、それからずーっと左の方を見てみ、あれが彦根城。それから…びわ湖が見えるやろ、ほんで左の田んぼの向こうに見えるのが荒神山やで」父はやさしく説明してくれたが、私の頭の中は菓子しかなかった。
ベンチは、所々が剥げていて、だいぶくたびれている。二人並んで座ったが、別にしゃべる事もなくぼんやりとしていた。すると、女店員らしい人がすーっと近寄って来て「ぼうや、お父ちゃんと一緒で良いねえ」と、どことなく淋しそうに言った。私は「うん」と頷いただけだったが、後ろ姿を見送り乍らふと、八重ちゃんを思い出した。
やがて父はゴールデンバット(タバコ)を取り出して吸いかけたが、何ともうまそうで鼻からフワーッと煙が出て来た。
そして半分ほど吸ったところで、やっとポケットから半紙にくるんだ菓子を取りだした。中から出て来たのは、アメで固めたピーナッツが三こ。
「正ぼん食べい」
「お父ちゃんは?」
「お父ちゃんはタバコを吸うてるさかい、ボン食べい」
「ほんなら三ツあるさかいぼんが二ツもらうわ」と言い乍ら食べかけたが、世の中にこんなうまい物があるとは夢にも知らなかった。父は私がうまそうに食べるのを相変わらず、タバコをふかし乍ら、にこにこと見つめていた。
マルビシの屋上で食べたお菓子の味が忘れられず「もう一度食べたいなあ…」と思っていたが、その後二度と口にする事はなかった。
そんなある日、
「さあ正ぼん、皆んなで貫〔ぬきな〕さんのところへ写真を撮りに行くさかい、お母ちゃんに服を着せてもらい」と父にせかされて、よそ行きと言える程のしろものではないが、急いで着替えた。
今では、とても考えられないが、昭和十三年頃は、個人でカメラを持っているなんて事は、よほどの金持ちでない限り夢の又ゆめ、だから写真を撮ると言えば、写真屋さんで撮ってもらうのがあたり前だった。私の場合、この日までには、生まれて百日目に撮った、丸出しの記念すべき一枚があるだけ。
家族全員で、写真屋さん行き、私はわくわくして走り出した。
「あぶないでー」
後ろで母の声が聞こえた。
幼稚園に上がる前に、私は大阪の主人の家に、後にも先にも一回だけ両親に連れて行ってもらった。
時折、店の前を市電がチンチンと通り過ぎて行く。
店の大将は、チョビひげをたくわえていて、どこかのお医者さんのような気がした。
奥さんは「洋髪」でずいぶんはいからな気がする。
主人も思ったであろう。
「あの源が、三人の父親になったか…」と。
夕方になり、
「おおきに」と言って家を出た。
しばらく歩いて行くと大きな病院があり、ふと見上げると、屋上に白衣の傷痍軍人が五、六人。と、その時、私と目が合った。私は思わず、その兵隊さんに向かい、大きく大きく手を振った。それにつられて、父も母も手を振った。それを見た兵隊さんもさかんに手を振ってくれた。
その時、春が何を思ったのか、
「あんた、茂やんは、どうしてやるかなあ…」
「そやなあ…何でも南方方面とは聞いてたけど…」と源太郎は言ったが、後は話が続かなかった。
私は母に手を引かれ乍ら、何となく気まずい雰囲気の中、停留所に向かった。
敗戦の色が、だんだんと濃くなって来た昭和十九年、学徒動員令がひかれ、学生達も軍需工場や、農家にも連日、駆り出された。
彦根の場合、外町にあった近江航空とか、彦根口の鉄工所など、又その年より松原の干拓工事が始まり、そちらにも動員された。そして近江絹糸では、落下傘が作られていたので女子生徒も行った。
さて学生のみならず、いわゆる商店にも勤労奉仕が言い渡されて、源太郎も町内会長の田中さん(あだ名は鉄カブト)の命令で、店の方はお春にまかし、彦根口にあった軍需工場へ朝八時から午前中、働きに行った。
何の兵器を作っていたのかは、知らないけれど、何でもその部品を職工長にしかられ乍ら、やすりがけをするとの事。日頃は、剃刀しか持った事のない源太郎の事、はたして合格する様な製品が仕上がったどうかは疑わしい…
「近藤さん、何回、言わせるのや!ここは、こういう風に削るのやろ!」
「はい、私も、言われた通りに一生けんめい削っていますのやけど…」
何回聞いても要領を得ない源太郎は、苦労をした。
ヤスリがけがぱっとしない割りには、いそいそと出かけるので、子どもなりに、何がそんなに楽しいのかなあ?…と思っていたら、ある日その謎が解けた。
源太郎がお春に話しているのを小耳にはさんだところによると、もたもたし乍らも作業が終り、昼になると、大豆入りとは言うものの大きなにぎりめしが、配給としてもらえるとの事。朝めしと言えば、おかい腹、何の事はない、たった一つのにぎりめしにありつく為に、工場へ行っている事が分かった。
彦根口には、一週間に二日ほど行っていたが、ある日鉄カブトがやって来て、
「源さん、〇月〇日は多賀まで勤労奉仕やけど一つたのむわ」と言った。
源太郎は、会長の伝達とあらば「いや」とも言えず、しぶしぶ承諾をしてしまったが、多賀へ行って、あんなつらい目に遭おうとはその時は予想もしていなかった。
「気いつけて行きや」お春の声に送られて、学生や若い人達と一緒に、仕方なく、多賀をめざして歩き出した。
その昔お多賀さんへは正月に歩いてお参りに行った事はあったけど、今は中年のこの身体、この先きが思いやられた。
さて、やっと多賀は駅前にある農協の広場に、辿り着いた。
と、そこには割り木が山と積まれていた。
係の指示により源太郎は、割り木を、一束渡された。
要領を知った人達は、ロープや子どものぼしひもを持参しているが、源太郎はひも一本持ってこなかった。
「しまった!」
と思ったが後のまつり。手に抱えて歩き始めた。
それでなくても、ひ弱い上に食糧難。栄養失調で身体は、柴のようにやせ細っている。何の事はない、柴が割り木を背負って歩いていては、しゃれにもならない。
歩いて行くにしたがって、割り木が肩にずっしりと、くい込んで来る。それでも必死に歯をくいしばり、歩いては休み、休んでは又歩いた。
自転車に割り木を積んだ人達は、スイスイと源太郎を横目に見乍ら通り越して行くが、わが家には、自転車はなく又仮にあったとしても、源太郎は乗れなかった。
よたよたとし乍ら何とか高宮より中山道は大堀の橋の袂まで差しかかったが、すでに疲労困憊、側の石に腰をおろしたが最後、立ち上がる事も出来なかった。
はあはあいい乍ら一服をしている時、そこへ自転車で通りかかったのが、町内のTさんで、すでに今日は二回目の割り木運びだと言う。
「源さん、その割り木、私が積んで帰るさかい、ぼちぼち帰って来たらよいがな」
「さよか…すんませんなあ…」
源太郎はこれだけ言うのがやっとだった。
親切にもTさんは、割り木を自分の自転車に積んで源太郎を後にした。
地獄で佛とはこの事か、源太郎はTさんの後ろ姿を虚ろな目でじっと見送った…。
やがて源太郎は重い足を引きずり乍ら、息も絶え絶えに、わが家に辿り着くなり、どたっと倒れこんだ。
すでにTさんより、源太郎の様子を聞いていたお春は、わが夫の帰りを見届けるが早いか田中さんの家めざして、走った走った!このままではうちの人は殺されてしまう!家に着くが早いか、
「田中さん!今うちの人が帰って来ましたけど、家に帰るなりへたりこんでしまいましたわ。いくらお国の為とは言い乍ら、こんな殺生な事は、ありませんで!」
「あっそらどうもご苦労さんで、すまんことでした…」と言ったきり、日頃のいばりちらしもどこへやら、田中さんも、二の句が継げなかった。日頃は愛想のよいお春とは想像もつかないこの形相。目はつり上がり、別人と化したその剣幕に、恐れをなしたか、さすがの鉄カブトも、その日以来、勤労奉仕の事は、いっさい言いに来なくなった。
昭和二十年三月、大阪大空襲により大将の家もあの病院も、ぜんぶ焼けてしまった。
店の客待ちで、ぼんやりと父の仕事を見ていると、ちょいちょい兵隊さんも散髪に来てくれた。腰には銃剣(ごぼう剣)を下げていて、それを恐るおそる、一寸触らせてもらうのも兵隊さんの来る一つの楽しみでもあった。
ある日、一人の兵隊さんが駆け込んで来て源太郎と二言三言、話を交わすと、手バリカンで、ジャッキジャッキと刈り出した。と、そこへ一人の上官がやって来て、
「貴様!何をのんきに散髪をしてるんだ」
「はい、もうすぐ刈り終わりますから」と源太郎は言い訳をした。
運の悪い時はこんなもので、窓越しに部下の散髪を見つけて店に入って来たのだ。後五分ほどではあるけれど、上官が横で睨みつけていては、ゆっくり散髪どころではなく、気の毒にも、その兵隊さん、半こ(半分)で立ち上がり「ご主人もうよろしいわ」と言い乍らうらめしそうに上官を見つめた。上官も何か言おうとしたが、さすがに思いとどまった。やがて上官の後に続き兵隊さんは、すごすごと店を出て行った。
その場に居た私は子ども乍に、
「いじわるな兵隊さんやなあ…」と思った。
ある日長靴〔ちょうか〕をコツコツと鳴らし乍ら店に入って来た兵隊さんは、見るからに堂々としていた。いつも見ている兵隊さんとはだいぶ違った。第一着ている服が違うし帽子も違う。腰に下げているのは軍刀だ!その姿に私は圧倒された。
散髪をしかけたが、ごぼう剣は一〔いち〕ミリの丸刈りだが、この兵隊さんは二枚刈(五〔ご〕ミリ)で、見慣れた丸刈りよりだいぶ長いし、値段も違う。銃剣と軍刀の違いをここに見た。
さて散髪は終わったが、その後にこんな恐怖に襲われるとは夢にも思っていなかった。
さっぱりした兵隊さんに、相手になってほしかったので、それとなく顔を見ていると兵隊さんは言った。
「ぼん、お父ちゃんや、お母ちゃんの言う事を聞いてるか。もし、やんちゃしたらこれやで!」と言うなり、刀の柄に手をかけたと思うが早いか、スラリ!と抜きさりはしなかったが、鞘から三十センチ程抜いた。
青白く光った刀を見た瞬間、も早やこれまで――私は声も出なかった。そう言えば、三日前には次女の節子と、とっくみ合いの大喧嘩もしたし、これはゆんべ(夕べ)の事だけど又もらしてしまったのだ。
しかし、よくよく考えて見ると、フトンに地図を描くたびに、切られていた日にゃ、首がいくつあっても足りやしない。
近所の寺より聞こえて来る蝉時雨がより一層暑さを感じさせたあの日。
昭和二十年八月十五日、裏口でぼんやりと佇んでいると、文具屋の秀ちゃんがやって来て、いつにない深刻な顔で言った。
「正ちゃん、だれにも言うたらあかんで、あのなあ…日本は戦争に負けたんやで…」
「ほうか負けたんか…」
「うん負けたんや…」
今一つ事情のつかめない私は、事の重大さが分からなかった。
食べる物とてなく、じゃがいもの配給に並んだり、乳母車で母と一緒に、とぼとぼ磯〔いそ〕まで買い出しには行ったけど、
「これで空襲もないから防空壕には、入らなくてもよいわ」
と負けた悔しさよりもむしろほっとした。
ある日、二階より下りて来て階段の中ほどまで来ると、源太郎と春が何やら盛んに言い争っている様子。私はしばらく聞いていたが、何を言っているのか分からないままに、下りて来た。
どうも二人は台所に居るらしい。春が源太郎に対し、罵っているようで、私は思わずその場に行った。春は私をちらっと見たが、源太郎への罵声はまだ続く。
「あんた、しっかりしてや!」
「お春、私はこれでも、一生けんめい、やってるつもりや…」
初めの内は源太郎も、言い訳をしていたが、しまいには観念したのか、黙って俯いてしまった。
ここまで言うからには、よほど腹に据えかねる事があると見える。しっかり者の春がついに切れてしまったのだ。家の中で一番偉いのは、お父ちゃんや!と私は生まれてこの方、ずーっと思って来ただけに、じっと耐えている父を見た時、もはや、我慢が出来なくなり思わず叫んだ。
「主人に対して何を言う!」
「何?主人?主人なら主人らしく、しっかりしたらどうや!」と言うが早やいか、ピシャッ!と私の頬に平手が飛んだ。
一瞬の出来事だった。私は、きっ!と母を睨んだ。そして、泣こうまい泣こうまいとするのだが、その気持ちとは裏腹に、両の目には涙が溢れ、見るみる内に頬を伝った…
「正ぼん、こっちへおいで…」客待ちから父が呼んだ。私は涙を拭おうともせず、黙って父の横に座った。
「正ぼん…」と言い乍ら手のひらで、そっと涙を拭ってくれた。私が「お父ちゃん…」と言って手を出すと、ぐっと握ってくれた…。その時磨ガラスの向こうに二階へ上がる母の影が映った。
あの時、とっさにいらん事を言って、平手で打たれたが、決して母を恨む訳ではなく、むしろ、余計な事を言って、母にはすまなかったと思っているし、父は父なりに一生けんめいやっているのだと思うと、子どもながらに、気持ちは複雑だった。
裁縫をしている母にじゃまをして、押し入れに入れられた事はあったけど、叩かれたのはあの時が最初で最後だった。
所帯を持ってからも源太郎は、観音さんへのお参りは欠かす事なく、続けていた。
「源さんまあお掛けやす」
「そうどすか、ほなちょっと…」
と言い乍ら、上がりとに座ったが最後、寺のおばさんと、何故か延々と話込んだ。
「お父ちゃん早よ帰ろ!」
と言いもならず、もじもじし乍ら、我慢をしていた。
それと言うのも、父に連れられて行った二ツ三ツの時から、
「コンニチハ」
と挨拶だけは、していたので
「しっかりした、お子やなあ」
となまじ、誉められて来た手前、今さら、
「お父ちゃん…もう帰ろ…」
とも言えず、やせ我慢をしているのも、けっこう辛かった。
だから、よほど機嫌の良い時しか行かなかった。
そして、又今年も地蔵盆の季節がやって来た。中でも観音さん(後三条町)は有名だった。地蔵盆の日は、姉と一緒に連れて行ってもらった。家から二十分以上は掛かったが、ちっとも苦にならない。
「お母ちゃん、行って来るはー」
「気い付けて行きやー」
母が、にこにこと送り出してくれた。
橋本町の坂を下りて、一つ目の角を左に折れると、そこは見渡す限りの田んぼで、農道に沿った小川にはほたるがポッポッと飛びかっていて、どうやらすると、顔にポンと当たったりもした。
「ホーホーほーたるこいー」
私と姉は歌い乍ら歩いた。
道沿いには、露店屋がぽつんぽつんと出ていて、カーバイト(明かり)の細く青白い炎が交差して、シューとかすかな音を立てている。さらに顔を近づけると、昨年と変わらぬこのにおいが何とも懐かしかった。
しばらく見て居たが、姉に促されて又歩いた。
境内は、親子連れで賑わっている。
女の子の浴衣は、金魚の柄で、あぶくをプクプク…プクと吹いていて藻がゆらゆらとゆれている。
男の子の浴衣は、胸のあたりまで大きな縫い上げがしてあり、思わず笑ってしまう。
境内に面した庫裏〔くり〕の障子は取り外され、文机の前の住職は、今日ばかりは参拝客の応対に忙しい。
部屋には、世話役が五、六人たむろしていて、茶碗酒を前に談笑している。
地肌の見えた年代物の盆の上には、裂きするめが無造作に盛られていて、ちょいとつまんで、もぐもぐとしがんでいる。
一升瓶ではさすがに気が引けると見えて、やかんに酒を入れてある。私は、それが最初は酒とは知らなかったが、まさかこんな時白湯〔さゆ〕を呑む人もおるまいて。
「あの…失礼ですけど…」
源太郎は、何がしかを差し出した。
年に一度の地蔵盆、源太郎の甲斐性なりに奮発したに違いない。
「今日は、お姉ちゃんやぼんも一緒で、ようこそお参り」
住職は、いつになく、愛想が良い。
所々が、べこべこと、へっこんでいるやかんを手に、
「源さん、お茶をどうぞ」
と世話方が茶碗を差し出した。
「そうですか。ほなせっかくですさかい、一寸にしておくれやす」
と言いながら半分ほどついでもらい、まるで三、三、九度でもいただくように両手で支えうまそうに二口で呑みほした。
山の方へ登って行くと、何ヶ所か御堂があり、それぞれが地蔵盆をやっていて、二段構えのローソク立てが三ツ四ツ前面に並べられ、ローソクの炎に、その付近だけが異様に明るかった。
「おローソク一本、お上げやーす」
子ども達の黄色い声が交差して、賑やかな事。
今しがた点けられたローソクは勢いよく燃えさかっているが、数分もすると燃え尽きて、最後にパッと明るくなり、やがてジューと音を残して消えてしまう。
私は、ぼんやりと眺めていた。
「正ぼん行くで」
父の声にはっ!と我れに返った。
私は、気怠さを感じ乍ら、下駄をひきずるようにして歩いて行くと、父が例のアイスキャンディー屋で立ち止まった。
しめた!
「すんまへん、ぼんと姉ちゃんに一本ずつやっとくれやす」
と言い乍ら父はガマ口(財布)を開いた。
私は、足どりも軽く、アイスをペロペロと舐めながら歩いたが、何を思ったのか、
「お父ちゃん」
と言いながら口元に持って行くと、にこっと笑って端の方を一寸かじった…。
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