小説 市民文芸作品入選集
特 選

『弱鬼』
日夏町 増田 由季

 佐和山城の奥の間、近くの部屋には誰も居なかった、その部屋に居る三人の親子を除いては……。
「井伊家は常に先陣に立たねばならん。ワシのように戦の傷で死んでこそ井伊家の男と思え」
 一年半前、世に名高い関ヶ原合戦で先駆けを行い戦端を開いた勇士だけあって、死の床に伏せながらも力強い言葉が衰える事は無かった。
「…」
 そんな父の眼力に十三歳の少年はタジタジになり身を引いた。
「万千代、それが井伊家を継ぐ嫡男の姿か!その身で赤鬼一団を率いる事が出来ると思っているのか!」
 万千代と呼ばれた少年はただ頭を垂れて父の怒声を聞いた、相手は父親といえども徳川四天王の一人・井伊直政なのだ、怖くて当たり前ではないか。
 そんな万千代の隣りには凛と姿を正した同じ歳くらいの少年が座っていた。直政は、その少年に目を移した。
「弁之介、お前が嫡男であったならどれほど心強かった事か。しかし、これも天の定めなのか…」
「父上」
 弁之介は横になった直政が差し出した左手を両手で握り締めた。
「側室にもなれなかった母の子である私を、父上も兄上も井伊家の者として迎えて下さり、今、この場に居りまする。これ以上の天の配慮がありましょうか」
 弁之介の肩が震えていた。万千代はそんな弟の肩にそっと手を掛けた。
「兄上」
「弁之介、兄とは申しても、我等は同じ年に生まれた者同士ではないか、兄とは呼ばず、万千代と名で呼べばよい」
 万千代は優しい声でそう言った。しかしそれが新たな怒声を生み出す。
「この、大馬鹿者が!兄が君であるなら、弟は臣下でしかない。兄弟であるからこそ、この区別ははっきり付けなければ他の家臣に示しがつかない事がお前にはなぜ分からん!」
 直政の言葉に弁之介はハッとなって数歩引いて頭を下げた、そしてそのまま退室しようとするのを直政自身が押し留めた。
 一方、万千代はこの一連の動きを放心しながら見つめていた。そんな姿を見て軽く息を漏らした直政は「万千代は次の間で控えておれ」と退室させ、弁之介を近くに呼び寄せ、上半身を起こして残った息子を見据えた。
「弁之介、頼り無い兄ではあるが支えてやってくれ」
「頼り無いなんて、とんでもごさいません。兄上…いや若殿は家臣の信頼が厚く名君として期待されています」
「そうかそうか」直政は厳しい顔をしようとしたが声が楽しそうだった。
「しかし、井伊家は上様より旧武田家臣を預けられ、赤備えを認められたほどの武門の家である。万千代はいざという時に出陣が危ぶまれるのではないか?ましてや、いつ豊臣家との戦が始まってもおかしくない時期に」
 直政はここで苦しそうに息をついで咳込んだ。
「父上」
 弁之介は直政の後ろに回って背中を擦ろうとした。
「この不届者!武士の背に行く者があるか!今、お前は問答無用でわしに斬られても文句は言えないところだったのだぞ」
 有能と噂される弁之介でも、まだ十三歳の子どもでしかない。すぐに父親の正面に回って深々と頭を下げた。
「もう良い、頭を上げろ」
「しかし…」
「これも教育と知って、今後も学ぶが良い」
「はっ」
 弁之介は再び頭を床に付けた後に姿勢を正した。
「時に弁之介」
 直政は、改まって口を開いた。
「お主にしか頼めない事がある…」
「若殿の事でしょうか?」
 唾を飲む音が響いた。直政か弁之介か?それとも両方の音だったのか。
 弁之介が次の意識で唾を飲もうとした時に直政が重い唇を開く。
「万千代の事でもあり、違うとも言える」
 弁之介は無言で聞いた。
「もし、万千代が井伊家当主として、また佐和山城主として相応しくないと思った時、お主が兄に代わって井伊家を継ぎ、佐和山領内を治めてくれ」
 弁之介は意外な言葉に返事が遅れた。
「しかと、申し付けたぞ」
「ですが」
「口応えは許さん!」
 弁之介はこの日三度目の頭を床に着ける事となったのだ。
 数日後、慶長七 (一六○二) 年二月一日、井伊直政は関ヶ原合戦で受けた鉄砲傷による破傷風で亡くなった、数え四十二歳。当時としても若すぎる死だった。

 私の元に孕石泰時が訪ねて来たのは先君・直政様の死から数日ほど過ぎた頃でした。
 泰時は座敷に座るのもそこそこに口を開きました。
「お主、聞いたかあの話」
「あの話とは?」
 泰時の話は佐和山城下では子どもでも知っている『先君の遺言』の事だとは思いましたが私は敢えて白を切ってみました。
「先君は若殿の暗愚な事を危惧されて弁之介様に全てを任されたらしい。この先は弁之介様こそが我らの主君になるのではないか」
 泰時は興奮冷め遣らないと言った感じで私に説明もないまま自分の意見を熱弁したのです。その姿に冬も終る季節にも関わらず暑苦しく感じるほどでした。
 そんな泰時を制止して私は敢えてこう言ったのです。
「その話なら、随分前に城下から伝わっている」
 すると、泰時はまた熱く、
「では、なぜそんなに冷静で居られるのだ、我が藩に関わる事だぞ」
 と、大声を出します。私は取り敢えず備前に冷静になって貰う事にしました。
「まあ、落ち着け」
「何故だ!」
 泰時は私の無感情な態度に怒りすら覚えていたようでした。
「落ち着いて考えてみろ。その時、先君のお近にはどなたがいらっしゃったのだ?」
「若殿と弁之介様だ」
「他の者は?」
「皆、遠ざけられたらしい」
「奥方様は如何に?」
「同じく」
「それは隣室だったのか?」
 泰時は、私の質問にイライラしながらも、知っている事を一つ一つ丁寧に応えてくれました。
「いや、近くの部屋にも誰も居なかったらしい。強いて居たと言うならば先君が大切にしておられたネコくらいだろうか」
 この言葉を聞いて、私は泰時を睨みました。
「では、誰がこの話を流したのだ。若殿か?それとも弁之介様か?」
 やっと気がついたと言う感で泰時が私から目を反らしたのです。
「そ、それは…」
 私は続けて責めます。
「先君が弁之介様に残されたと言われているご遺言は、千百年ほど前、唐の国が三国に分かれていた時に漢の皇帝だった劉玄徳が宰相・諸葛孔明に残した遺言と同じではないか、誰かが面白可笑しく作ったのであろう」
 泰時は次の言葉を捜していました。
「しかし、あまりにも詳しすぎないか?」
「だから、おかしいのだ。曖昧な方が信じられただろう」
 黙ってしまった泰時に私は続けます。
「ましてや若殿は無能でも暗愚でもない、お体が弱いだけなのだ」
 私はそう確信していました。
 泰時は、やっと私を見て、
「やはり、お主は若殿贔屓だな。娘御の影響か?」と言いました。
「菊は関係無い」と返しましたが、「しかしお菊殿は若殿と馴染みなのであろう」と聞かれると返す言葉もありません。
 そう、恐れ多くも私の娘・菊は若殿に面会できる立場にいたのです。

 もう、何年前の事であったでしょうか。関ヶ原合戦の恩賞で先君・直政様がこの佐和山へ移る前、井伊家は上野国高崎を居城としていました。
 もちろん私も高崎城下に屋敷を賜り、妻子と共にここに住んでいました。
 先君は、徳川家重臣として家康様に従っておられたため、ほとんどは大坂や伏見に詰めて居られ、高崎の政務は、ご家老・木俣守勝殿が取り仕切っておられたのです。
 ある年の春の事、ご家老は若様・万千代君と奥方様を花見に連れ出されました。
 その日、私も妻の律子と娘の菊を連れて花見に出ていたのです。家族水入らずで桜を楽しんでいると、若様ご一行がお越しになりました。
 私たち家族は慌てて頭を伏せ、そのまま座を引こうとしたのです、しかし若様が直々に座を共にするように勧めて下さいました。
 菊はその勧めを受け、私と妻は席の末座を汚す事となったのです。
 それだけでも恐れ多い事ですのに、菊は若様に近付いて右手で桜の木を指差し、左手で若様の腕をつかみました。
「若様、こんな大人ばかりのお花見なんて面白くないと思わない?みんなお酒の臭いさせちゃってさ。せっかくお花見に来たんだから、あの一番キレイな木を一緒に観に行きましょうよ」
 私たち夫婦は菊を制止しようとしました。
 すると、ご家老様は優しい目を菊に向けながら、
「確かに、この座は大人ばかりで面白くなかろう」と言い、目を菊から若様に移しました。
「若、このように可愛い女子を連れて美しい花を愛でるなど、臣のこれまでの一生で無かった事ですぞ。うらやましゅうございますな。ご承知とは存じますが、男子は女子を慈しみ守るものですぞ、奥方様も宜しいか?」
 ご家老が、奥方様に声を掛けると、奥方様は小さく頷かれました。
「万千代殿、しっかりするのですよ」
 菊は奥方様の言葉を聞くと、
「ご家老様、奥方様、お心使い嬉しく思います。ですが私も赤備えの一角を担う井伊家家臣の娘です。若様は私が守ります」と申しました。
 すると奥方様は嬉しそうに笑われました。
「ほほほ、頼もしい女武者ですね、まるで古の巴御前のよう。菊御前に若をお任せしました」
「はい、お任せ下さい」
 菊は胸を叩いて微笑みました。
 そして、若様の手を引いて行ってしまったのです。最初は菊に引かれるままだった若様も軽い足取りで走って行かれました。
「奥方様、ご家老様、娘の我儘をお許し下さい。」
 私たち夫婦はお二人に向かって頭を下げました。
「頭を上げなさい、わたくしは常々万千代殿には武士らしく育って欲しいと思っております。しかし、井伊家の男子にしては体が弱いと家臣からは言われ、心苦しく思って居りました。菊殿の積極さを学んで下されば、宜しいのですが」
 奥方様は、若様と菊が去った後を目で追いかけておられました。
「多くの者は殿がわたくしの侍女だった印具氏に産ませた弁之介殿に期待を寄せています。万千代殿が可愛いあまり、殿に『印具の子は城に入れません』と申しましたら、母の無い天涯孤独の子なら父親が引き受けるしかないと申された殿は、刺客を放って印具を斬ってしまったのです。
 このことがあって、わたくしが徳川家康の養女と言う事で義父の権力を借りて殿を威圧しているとの噂が家臣たちに広がっているのも知っています。
 殿が印具を殺すまでして、弁之介殿を井伊家に迎えたかった事実にもショックを受けました。
「そなたも、わたくしが悪女だと思っていたのでしょ」
 そう言うと奥方様は涙声になられました。
 ご家老様はそんな奥方様に「家臣の前でございまするぞ」と軽く注意を申されました。律子は、頭を上げて奥方様に近寄り「失礼します」と声を掛けた後に奥方様の両肩に自分の両手を乗せました。
「奥方様、私も女ですから、少しは解かりますよ。夫の浮気も一度や二度ではありませんでした」
 私は驚いて「こら、律子」と叱責した。しかし、律子は構わず続けた。
「大体、男と言う生き物は…」
 こうなるともう律子は止まらない、相手が殿の奥方様であろうと関係無く、私の秘密が暴露されていく。
 私が妻に対して行った多くの不義を改めて聞かされながら、反省したような態度を示すなか奥方様は段々可笑しそうに笑い出し、時々私を見ては律子と一緒に私を責めました。
 ご家老は、そんな私達のやり取りを黙って聞きながら、私の方に同情の眼差しを下さいました。
 こんな事になっているとは夢にも思っていなかったであろう無邪気な二人が満足した顔で戻ってきたのを合図に生き地獄のような私の反省会は終わりを迎えたのです。
「母上、今戻りました」
 若様は菊の手を引きながら奥方様に帰参の報告をなされました。
「おやおや、行く時は菊殿に引かれて行った万千代殿が、帰りは積極的になられて」
「菊が遅いから手を引いてきたのです」
 若様はそれが当然と言う顔でおられると菊が息を整えていた。やがて落ち着いた菊は奥方様を見て、
「我儘をお聞きいただき、ありがとうござました」
 と、頭を下げました。
 奥方様はそんな菊を優しい目で見つめて、
「菊、わたくしはそなたを気に入りました、これからは時々お城に参って万千代殿のお相手をしてくれませんか?」
 と申されました。私や律子が恐れ多く感じているのに菊は簡単に「はい」と応えてしまったのでした。
 こうして、菊は度々お城に登城する事となりました。そのほとんどは若様の遊びや学問の相手だったと聞きましたが、時々律子と一緒に奥方様の話し相手もしていたとのことです。この日を境にか、妻や娘の方が私よりも主君に近い存在となっていったのでした。

 私の長い沈黙に目の前の孕石泰時が心配そうな目で私の顔を覗き込んでいました。
「おい、大丈夫か?」
 その声でハッと我に返った私は「あぁ」と応えました。
「どうした?」
「ちょっと昔を思い出していた」
 泰時は呆れた顔で「お前らしいな」と言って大笑いしました。
「これ以上、ご主君の噂話をするのは不忠になるかもしれんから、今日は失礼する」
「すまなかった」
「よいよい」
 泰時はそう言うと席を立った。
「そう言えば、奥方と菊殿はどうしたのだ?」
「登城している」
「妻と子が奉公に出て主が屋敷で寛ぐとは、なんとも変わった家庭だな」
 言いたい事を言って大声で笑いながら出て行きました。
 後で考えると丁度この時に私たち家族の運命を変える決定がなされていたのです。しかし、例え泰時が居る時にその報せを聞いたとしても、この報告が私たちにそれほど大きな運命をもたらすとは思いもしなかったことでしょう。
 この日、佐和山とは関わりのない伏見城で佐和山城の廃城と彦根山への新城築城が家康様によって決定され、ご家老に通達されたのです。

 慶長八年、徳川家康様は、征夷大将軍に任ぜられ、江戸で開幕されました、そして井伊家の居城である新城築城を天下普請の一つと宣言され、ご子息である尾張清洲城主・松平忠吉様や越前北ノ庄城主・結城秀康様を筆頭に近江近隣の七カ国十二大名に助役が命じられました。
 この時から佐和山城下は多くの人間が出入りするようになり、京や大坂に勝るとも及ばない騒々しさを持ち始めたのです。
「それにしても男ばっかりだなぁ」
 相変らず私の屋敷にやってくる泰時は、挨拶もせずにこんな事を言い出しました。
「右を見ても左を見ても職人と侍ばかりで血の気が多くていかん。同じ人を見るなら女子を見ていたほうが良いではないか」
「お前らしいな」
 私がため息混じりに言葉にすると、
「お主は妻子もいて幸せだからわからないんだ、男の独り身は辛いものだぞ」
「孕石家の男子は代々男前だから悩むのだよ、自分に釣り合うように美女を求めたがる」
「だめか?」
「そうは言わないが、望みが大きすぎる。お主に惚れている女性達の中にも美女が多いではないか」
 すると泰時はガックリと肩を落としました。
「お主は解かっていないな、本当の美女というものは心の美しさすら表に出てる女子の事だ。俺に惚れているようではまだまだと言える」
「なんだそれ、解からん男だな」
「だから、お主は解かっていないと言っただろう」
「認めよう」
 私たちは大笑いしました。
 しばらく笑った後で真面目な顔に戻った泰時は、
「俺が本当の美女に巡り合う為には自分を高めなければならないと思っている、だから槍働きで認められるしかない。今回の築城は豊臣家との戦に備える重要なものだと聞いたから、俺も命をかけて励むつもりだ。完成するまではここにも寄らない事にするよ」
「五百石の足軽大将では不服なのか?」
「名誉が欲しい」
「命を惜しめ」
「ありがとう」
 素直に礼を言った泰時に驚きました。この後、泰時が我が家に訪ねて来る事は二度とありませんでした、お勤めもお互いにすれ違ってしまったのです。
 少し先の話をしますなら、十二年後の大坂夏の陣に直孝様に従って出陣した泰時は軍功を挙げ、直孝様から直々に褒美を渡されました。
 その褒美は家康様から直孝様に下された南蛮渡りの皿十枚だったのです。この皿は孕石家の家宝となり泰時は子孫にも伝えられる名誉を手に入れたのでした。
 しかし、約百年後、元禄年間に孕石家の当主・政之進と恋仲だった女性が自分への政之進の想いを確かめる為に皿を一枚割ってしまい、怒った政之進に斬り殺されてしまったのです。
 この女性は亡くなっても政之進の事が忘れられず、蝶になって政之進に女性が近付かないように監視しました。孕石家はやはり代々美男子だったのでしょう。
 この蝶になった女性が、奇しくも私の娘と同じ名前・お菊でした。この事件で孕石家は断絶し、脚色された話が『番町皿屋敷』として全国に広まって行ったのです。
 もちろん、そんな先の話は私の知らない事です。しかし私の娘・菊のこれからの運命を思い返すなら“菊”という名前には何か謎めいたものを感じざるを得ません。

 さて、新城が築城される彦根山には金の亀に乗った聖観世音菩薩像を守護仏とした寺が建立されていました。ですが、この度の築城に伴い麓にお移りいただきました。観音様が鎮座されていた場所とは何ともお目出度い事でしょうか。お目出度いと言えば、もう一つ天守が京極高次様の居城であった大津城から移築される事になったのです。
 大津城は関ヶ原合戦の時に西軍に十二日間囲まれ幾度も砲火に遭いながらも、ついに焼け落ちる事がなく「目出度き殿守」だったのです。もちろん砲撃を浴びているのでそのまま使うわけにも行かず、五層の建物を三層に直す事になりました。
 また、天守以外にも櫓・門・石垣などは近江国内の城から集められたのです。同時に城下の整備も始まりました。
 特に新城の外郭を守る役目を果たす事になる善利川の流れを変える改川工事は急でありながら大切なものでした。
 私も今日は善利川、明日は彦根山へと毎日方々を動き回り作業をする日々を過ごしました。
 そして秋、まずは鐘の丸が完成しました。
「鐘の丸は城の中で一番の出来だった。例えどれ程の軍勢で攻められても何重もの備えで敵が撃退できる天下無双の要害」と築城に携わった重臣・早川幸豊様が後々まで自慢されるほどの出来栄えでした。
 そんな鐘の丸は若殿の居住区となる場所として作られましたので、完成を受けて井伊家の方々が佐和山城から彦根山へと移られました。
 築城中も登城していた菊や律子も、そのまま鐘の丸へ通うようになったのです。妻と娘はいつの間にか私よりも重臣の方々と親しく、新御殿も私より早く知っていました。これもご奉公といえるのでしょうが、帰宅した時に妻と娘から出る言葉から口惜しさを感じないと言えば嘘になってしまいます。
 慶長九年。十五歳となられた若殿と弁之助様の元服の儀が執り行われ、若殿は万千代から直継へ、弁之助様は直孝へと改名されました。
「井伊直継様…」
 菊は嬉しそうにその名を何度も口にしました。
「若殿の御名前を軽々しく口にするとは何たる不忠者か!」
 私が叱ると、
「あら、もう元服をされ立派な殿様に対して若殿なんておっしゃる父上の方が不忠者ではありませんか?」
 と言い返され言葉に詰まってしまいました。
「ところで父上、こんな所で油を売っていて宜しいのですか?本当に不忠者になってしまいますわよ」
 菊は、したり顔で私を叱責しました。
「今日から三日は殿 (直継) と弟君 (直孝) の元服披露で諸国から祝いの使者が参るから工事は休みだ」
 そこで思い出したかのように、
「そう言えば、いつも賑やかな木槌や石工の音がしていませんね。私にお呼びの方が来られないと思っていたのです、そうと知っていればこんなにおしゃれをするのではありませんでした」
「いつも殿からお呼びがあるのか?」
 私は、ぽかんと口を開けて呆れてしまいました。
「あら、父上はご存知ではありませんでしたの?」
 私は、知らなかった、てっきりこっちから勝手に行っているものと思い込んでいたのでした。
「母上も私もそんなに失礼な育ちはしていません」
 菊は拗ねた顔で私を睨みました。
 殿の元服に伴って、彦根藩十五万石、上野国内三万石の計十八万石が正式に井伊直継様の知行と認められたのでした。

 慶長十年、家康様は将軍職を三男の秀忠様に譲られて大御所として幕政を監視する立場となられます、この年、関東を中心とする諸大名に江戸城築城と江戸の町開発の助役が命じられたのです。
 江戸の開発はこの後七十年の歳月を要します。
 この頃から彦根築城にも多くの形が見えるようになり、天秤櫓を始めとする櫓・門・石垣も次々と出来上がり始めました。
 この頃、解かった事なのですが、大御所様は、彦根城を豊臣家との戦が起こった時の備えにと考えながらも、京で一大事が起こった場合に帝を保護し奉る城としての機能もお考えになられておられたのです。それはそのまま戦略的要素がより強くなる絶対に落ちる事が許されない城となりますので、織田信長様が天守と住居区を同じにする安土城を築城されて以来常識となっていた天守の居住利用を取り止めて、天守を置く本丸と居住区の鐘の丸の間に区切りをつけてより実戦に備えた強固な戦国形式の城郭になって行ったのです。
 菊の話によると、鐘の丸に移ってからの殿は、視察に出る度、家臣や職人達に気軽に声を掛けられたそうです。それは人だけではなく資材にまで及んでおられたそうです。
「佐和山では世話になった、ここでも頑張ってくれよ」
「ここは安土からの眺めにも勝るとも劣らないから、楽しみにして欲しい」
 という言葉を周囲の者も何度か聞いています。
 殿のお優しさと大御所様の彦根城に対する期待が反対の方向を向いていたのは気の所為でしょうか?
 急ぎの築城でありながら、強固な城にする為の工夫が工期を延長させました。最後に残った本丸に着工するまで四年の月日が流れていたのです。
 本丸の天守台の石垣積みが完成するといよいよ天守の据付作業となります。
 天守の建物は既に資材の組み立てもある程度完成していました。
(これで、我等のお城が出来上がる)
 口には出さないまでも井伊家家臣の期待は膨らんでいました。築城開始から四年、大津城から早々と運び込んだ資材を見る度に彦根山の山頂に天守が誇る日を待っていたのです。
「あとはそれ程の時間も掛からずに天守が完成する事でしょう」
 今回の築城で設計や現場の指揮を行っていた早川幸豊様が視察に来られた殿と弟君に話しておられました。
 殿はそんな早川様を頼もしそうにご覧になり「楽しみにしてるぞ」と仰られておられたように思います。
 しかし、それから幾日過ぎても天守完成の報せが殿の元に届く事がありませんでした。優しいご気性の殿は、家臣を急かすような事はされないのですが、ご家老が伏見城で彦根山築城の命を受けた時に大御所様より「早急に」と念を押されていたため、何度も殿に詰め寄られたと聞きました。ご家老の気迫を抑えられなくなった殿は再び本丸へと視察に来られたのです。
 その日は私も天守据付作業に回っていた日でした。早朝より始まる作業は、まず足場が組まれ、石垣の上に上げた木材を設計図通りに設置していきます。
 石垣の上はほぼ平になっているため、順調に並ばなければならない物があちらこちらでズレを生じさせ、また一からやり直しとなってしまうのです。
 やり直す度に周囲からため息が漏れ、苦い思いでもう一度繰り返していくのでした。
「やっぱり、あれが必要なのか…」
 近くに居た大工が呟きました。
「あれとは何だ?」
 私が訊ねると大工は手を動かしながら答えました。
「人柱」
「人柱とな?」
「こんな時は、土地に問題があると考えるのが妥当というもの、この山は元々観音様のお住まいだったと聞いておりやす。なら、観音様に捧げ物が必要でしょうが」
「それが人だと申すのか」
「他に何がありやすか? 貴い命を捧げてこそ観音様もお許し下さるってもんでしょう」
 当たり前の様に話す大工に怒りすら覚えたが、そんな習慣は当たり前のものなのだと大工は言った。
「建物ではなくとも災害を抑える為にも人柱は捧げやす。元亀年間には近くの犬上川でお丸という庄屋の娘が洪水を防ぐ為に龍神様に身を捧げたと爺様から聞いておりやす」
「効果はあったのか?」
「無かったら爺様の話にもなりませんや」
私は「確かに」と頷きました。
 と、そこへ殿の視察を伝える声が掛かり、私たちは殿を迎えるために作業を中止することになったのでした。
 全ての者が平伏する中を殿は弟君とご家老のみを従えてお越しになりました。
「皆、ご苦労である、顔を上げてくれ」
私たちはより深く頭を下げた後に頭を上げて殿を見つめました。
「ところで早川、少し話があるのだが…」
 殿の目の前の早川様は殿に顔を向けられます。
「天守据付の事でございましょうか?」
 殿は頷かれ、訊ねられました。
「皆の頑張りは知っているつもりだが、江戸の大御所様にも報告しなければならない。時期はいつ頃になるであろうか」
 早川様は、困った顔で答えられました。
「据付が上手くいきません」
「しかし、大津の城の資材を外す訳にもいくまい」
「はい」
「時間も掛けられません」
 ご家老が一番気になる事を横から言われました。
 すると早川様は、
「承知しておりまする、そこで、殿にお願いしたい儀がありまする」
 と申され、殿はその願いを聴いてみることにされました。
「されば、この天守台に人柱を立てたく思います」
 殿は驚いたような、怒ったような声を出されました。
「人柱とは正気か?」
「もちろんです」
「そのような事、認められる筈がない」
「しかし、そうでなければ天守が据えられません」
「だめだ、だめだ」
 殿の声は大きくなっていました。
「お前は人の命を何と心得る!」
 そんな殿に弟君が声を掛けられました。
「殿、落ち着き下さい」
「直孝、人柱など認められまい、な」
弟君は冷静に応じられました。
「必要とあれば仕方ない事です」
「直孝、お前も人柱を望むのか、城の為に人の命が無くなるのだぞ!」
「殿、この直孝の母は私を井伊家に入れるために私の人柱となって父上の刺客に斬られております」
「直孝…」
 殿は硬直されました。
「あとは早川に任せましょう」
 弟君の言葉に促され帰ろうとした殿でしたが、
「それでも人柱は認められない」
 と、小さく呟いて帰られたのでした。
この日の作業はこれで中止となったのです。
 久しぶりに早く帰宅した私を待っていたかのように律子と菊が迎えてくれました。
「今日は殿様がお戻りになるなり悲しいお顔をされて、考えたい事があるから…と私を帰されたのです、天守台で何かあったのですか?」
 菊の問いに応える形で人柱の話を聞かせたのです。
「まぁ人柱なんて、殿様もお辛いでしょうね」
 夕食を運んできた律子がそのまま私の話に耳を傾けていたのでした。
「それにしても、弟君の言い方を奥方様が聞かれたらどれほど悲しまれるでしょう」
 奥方様の代わりとも言わんばかりに律子が怒っている。しかし、その間、菊は無言で考え事をしているようでした。
「菊、どうしたのだ?」
 私が訊ねると、
「父上、母上、菊が人柱になりたく存じます」
 と言い始めたのです。
「何を言い出すのこの子は!」
 律子は呆れたように言いました。
「…」
 男親はこんな時にパッと言葉が紡げません、それに比べて女親はしっかりしています。
「菊が居なくなったら父上も私もどれだけ悲しいかわかる?」
「一人娘なんだから家はどうなるの?」
「殿様が認めると思うの」
 などなど、よくもそれだけ思い付くものだと感心したくなるくらいに言葉を続けたのです。
 しかし、菊はそんな母親を制して静かに口を開きました。
「私が居なくなる事で家にご迷惑をかける事は先に謝ります、申し訳ありません」
 菊は深く頭を下げました。
「でも、井伊家家臣は常に殿様のために働く者だと父上は仰っておられました。多くの大名家では主君が亡くなった時に家臣が殉死をして後に続く習慣があるのに、井伊家では先君が亡くなられても一人の殉死者もありませんでした。
 これは無駄な死よりも生きて井伊家に奉公を尽す尊い忠誠だと思っております。
 しかし、場合によっては死もまた必要なご奉公ではないでしょうか?
 私は直継様の近くに仕えさせて頂いて、そのお人柄に好意すら持っています。そんな直継様のお役に立ちたいのです」
「菊」
「何ですか父上…」
「殿の御名前を呼ぶのは不忠である」
 菊はふっと笑って、「申し訳ありません」と頭を下げました。
「明日、登城して殿にお話する」
 横で律子が泣く声を聞いた気がしました。

「そうか、菊が…」
 殿の前で床に頭を付けた私は昨日の娘の意志をそのまま伝えました。
「しかし…」
 こう話し掛けられた殿に向かって右手を上げて言葉を制しました。
「娘の想いでございまする」
 殿もその気持ちをお汲み下さいました。
「わかった、お主たち家族の忠誠、この直継嬉しく思う。菊殿の気持ちを無駄にしない」
 こう仰った殿は、私のすぐ前まで来られた後に深々と頭を下げられたのでした。

 その日の内に吉凶が占われ、二日後に菊が観音様の元へ参る事となったのです。

 二日などという期間はあっと言う間にやって来ます。丹念に身を清めた菊は白無垢に着替えてその刻限を待ちました。
「菊、最後に言っておくが神に嫁ぐ身なれば、男を知っていてはダメなのだぞ」
 私は最後の望みを賭けて訊ねました、もしかしたら何かの間違いで殿と…などという甘い期待があったのです。
 しかし、菊は「大丈夫でございます」とはっきりと応えました。
「菊…」
「父上、それ以上は未練です」
 菊は真っ直ぐに私を見据えたのです。
「だが、父はその姿の隣りに人間の男子を見たかった」
「参りましょう父上」
 菊は、軽く天井を見上げてから私と共に本丸へと向かったのです。
 鐘の丸・天秤櫓と既に完成した一角を抜けて天守台の手前・太鼓櫓門前で殿が立っておられて、白木の箱が準備されていました。
 菊は殿に一礼すると私に振り返る事なく箱に入りました。箱の蓋が閉まった後、殿は私に目で合図を下さったのです。娘が埋まる瞬間を見る度胸を持ち合わせていない私は、ここで娘の付き添い役を殿に譲ったのです。
 殿と箱が門を潜った後、門は閉じられました。
 そしてやっと私が泣く時間が許されたのです。

 菊が天守台に埋められた翌日から天守据付の作業は嘘のように順調に進んだそうです。そうですというまるで他人事のような言い方をしましたのは、あの日から殿のご好意で私には休息の時間が与えられたのです。
 そして、律子に対する奥方様からのお呼びも無くなっていました。
 数日して、天守が無事据えられたという噂を耳にしましたが、据えられた天守を目にする気持ちにはなれませんでした、また若い娘が一人居なくなっただけで、家の中がこんなに暗くなるものだとは思いもよりませんでした。
 そしてまた十日ほど過ぎた頃、お城から使者がやってきて殿よりの書面で新しい仕事を申し付けられました。
 殿からの書面には“律子殿と共に控屋敷 (後の埋木舎) に出向き、江戸よりの客人の世話をしてもらいたい”と書かれていました。
(はて? 江戸よりの客人とは…)
 そんな疑問も頭をよぎりましたが、自宅で苦しむのも、本丸に向かうのも気が重くなるならば律子と一緒に夫婦で働いていた方が良いと思ったのです。
 翌日、私と律子は控屋敷に赴きました。
 夫婦揃って江戸よりの客人を待ち、お成りの時に頭を床にこすり付けました。
「本日よりお世話をさせて頂きます…」
 私が挨拶をしようとすると若い女性の声で「頭を上げて下さい」と声がしたのです。
 せめて挨拶は、と思いもう一度声を出そうとした時に横に居る律子が私を揺らしました。
「何事だ」
 妻に向かって言うと、彼女は呆然としながら客人を指差していました。
「何と失礼な!」
 殿の客人に対しての無礼を詫びようとしてその顔を見た時に、思わず私も妻と々顔になってしまったのです。
「お久しぶりです」
「…」
「もう、お忘れですか? 父上」
「き、菊!」
「はい」
 菊の声が涙ぐんでいました。
「生きていたのか!」
 私たち親子三人は抱き合って泣きました。
「殿様が、『菊の気持ちはありがたいがやはり城の為に人は埋められない』と仰せられて、太鼓門櫓の門が閉まった後に私を出して櫓に隠れさせたのです。そして昨日まで奥方様の侍女として人前に出ないようにしていました。天守が完成したならば大丈夫であろうと言う事になったのです」
「菊、本当に良かった」
 私は殿の優しさに改めて感謝の念をいだきました。
「でも、父上」
「どうした?」
「私はもう菊には戻れません、この先は江戸よりの客人としてこの控屋敷で過ごすことになりますので、毎日ここへ通って頂けませんか?」
「あぁ良いとも」
「それと…」
「まだあるのか?」
「はい…」
 菊は顔を伏せた。
「実は、城下では江戸よりの客人は殿の義姉と噂されていますが、本当は殿の側室なのです」
「え…」
「白無垢を着て人間の男子を隣りに座らせる父上の希望はやはり絶たれました、それに、ここに居る限りは殿の子を授かる訳にも参りません」
「菊がそれで良いなら問題はない」
 律子も何度も首を頷かせながら娘の幸せを祝ったのでした。
 帰宅する時、私は初めて新しく出来上がった彦根城天守閣を見上げました。
 三層の小ぶりな建物本来なら幕府から注意を受けるであろう廻縁を三階部分に取り付け、これも幕府から厳しい取締りの対象となっている破風が幾つも見えて、軍事的価値もさる事ながら形の美しさを充分に表現していました。
 そして白い壁に対する黒い窓も丁度良い具合に重みを引き出していたのです。
「これは殿には似合わない武骨さと、殿に似合った優しさを兼ね揃えた城だな。そう、まるで弟君と殿のご兄弟のような…」
 彦根城築城第一期工事はここで終わるのでした。
 七年後、大御所様は大坂城の豊臣秀頼公を攻められました。この時、殿は病弱を理由に飛び地である上野国安中の関を守り、弟君が殿の代わりに大坂に出陣されました。
 この事から大御所様の命で彦根藩十五万石は弟君の知行となり、殿は直勝と改名し上野国の飛び地・安中藩三万石に国替えとなられたのです。
 殿の出発の時、こんな話をされたと菊から聴きました。
「直孝、『先君の遺言』という噂を覚えているか?」
 直孝様は怪訝そうなお顔で応えられました。
「もう十二年も前の噂ではありませんか、根も葉もない…」
「あの噂を流したのは誰だと思う」
「さぁ、分かったらこの手で斬り捨ててやります」
 直勝様はわざと震えて「こわいこわい」と仰られました。
「あれは、この直勝が流した噂なのだよ」
「兄上が?」
「斬り捨てるか?」
「無理ですな、しかし何故?」
「人には器というモノがある。直孝には十五万石どころか大御所様の側近の本多正信殿のように幕閣で国を動かす仕事も出来るだろう。しかし直勝にはそのような力は無い、精々目に見える程度を守れるくらいだ」
「菊殿のようにですか?」
 直勝様は照れて笑われたそうです。
「だから、彦根を、井伊家を任せた」
「はい」
 直孝様は力強く応えられました。
「母上と、あの時父上の病室に居たネコを連れて行くよ、これで気兼ねなく働けるだろ?」
「兄上」
「父・直政は藩祖として初代藩主にしろ。直継は二代目から外して直孝が二代藩主として後に伝えるのだ、解かったな」
 この後、彦根藩では直勝様を藩主として数える事はありませんでした。
「それと、この城を戦場にするな」
 直孝様は、「何故?」と問いたげな顔であられたそうです。
「大御所様より、彦根城は帝をお匿いする城という御意を受けている。幸い豊臣家との戦で使われることは今後も無いだろう。で、あるから戦国様式を受け継いだ城でありながら血で穢れていない。
 しかし、使われている資材達は、大津でも安土でも佐和山でも小谷でも戦火にさらされ疲れている。汚れの無い美しい城に生まれ変わった事を誇りに思わせてやりたい」
「兄上らしいですな」
「いろいろ、すまん」
「彦根城は、その役割を終えるまで戦には使いません」
「頼んだぞ」
 この時、兄が、弟に深々と頭を下げたのでしょう。
「兄上」
「ん?」
「結局、彦根を盗ってしまい…」
 直勝様は、右手を挙げて直孝様の言葉を遮られた姿が目に浮びます。
「いいよ、安中は高崎に近い。菊と出会った懐かしい地に行けてわくわくしてるくらいだよ」
 彦根城は生みの親の去り際を静かに見守りました。
 翌年の大坂夏の陣で秀頼公とその母・淀の方を自害に追い込んだ直孝様は幕閣でも活躍し、三代将軍・家光様の信頼も厚く、その死後家継様が将軍になられた時には外様の有力大名相手に「幼い将軍に従えないのならば国に帰って戦支度をなされませ、存分にお相手させて頂く」と啖呵を切り、保科正之様や松平信綱様と共に“寛永の遺臣”と呼ばれる江戸幕府創世期の仕上げをされました。彦根の井伊家は譜代大名筆頭として三十万石の知行と幕府御用米五万石の計三十五万石の大名として江戸期を生きました。
 そして、一度の戦火も受けないままに江戸期を終え、その本当の役割を果たしたのです。
 後に聞いた話では、直孝様が出世をされるきっかけとなった大坂夏の陣出陣の少し前、奇妙な体験をされたそうです。
 その日、狩に出た直孝様は、貧しい古寺の前に一匹のネコが座っているのを目されました。
「あれは父上のネコ?しかし兄上が安中まで連れて行った筈では…」
 そのネコに誘われるままに寺に入ると雷雨となって直孝様は災難に遭わずに済んだというお話でした。
 果たしてその猫は本当に先君のネコだったのでしょうか?
 ただ、そのネコが寺に福を呼び、“招き猫 ”の伝承となりました。この後の直孝様の出世と彦根井伊家の活躍を思うなら、井伊家にとっても福を招いたのかも知れません。

 一方、安中に移った直勝様は四年後に嫡男・直好様が誕生されました。直好様の母親が菊であったかどうかは私や史書の伝える所ではありません。
 ただ、彦根を離れやっと公に許された二人に幸があった事でしょう。
 安中藩井伊家は、直好様の代に五千石加増され掛川城に国替えとなり、四代・直朝様が発狂した為に二万石に減俸となって城持ち大名から陣屋大名に転落、以降は越後与板に移されて明治維新を迎えます。
 維新時の藩主は井伊直安様、このお方は井伊直弼様の御三男でございます。

 史書は井伊直継というお方を病弱な男、と伝えています。「弱鬼」とも伝わっています。しかし、私の知る直継様は優しい方ではございましたが決して弱い方ではございませんでした。「弱鬼」と書くくらいならば「優鬼」と伝えて頂きたく存じます。
 「優鬼」と書いて「ゆうき」、そう己を知っていた直勝様こそ「勇気」のある人物だったのではないでしょうか。


( 評 )
 この作品の何よりの手柄は、通説(史実)を既定の真実としないで、病弱で武将としての器量にも欠けたとされる直勝の新しい人物像(歴史)解釈を試みた点にある。菊が天守台の人柱になる逸話や色恋も、物語としての要素を備えている。一部、現代風の言葉遣いが気になるところもあるが、意表外の構想と筆力はそれを差し引いてもあまりある。

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